かぜっぴきナツ
ナツが風邪を引いたらしい。電話をしたら一瞬誰だかわからないほどひどい声で、熱もあるから来るな、と言う。
「伝染るんで……っくし! きょうは来ないで、ください」
全体的に濁音がついた声で言い、珍しく一方的に電話が切られた。これは相当辛そうだ。
電話をポケットに入れ、行くか行かないか、一瞬迷った。しかしナツをひとりにしておくわけには、いかない。
行き先を運転手に伝える。若い男は「しかし」と何かを言いさしたが、運転席を蹴って黙らせた。乗り始めていた高速道路の出口の方向へ、ウインカーが点く。
ここからだと二十分ほど。
心配で尻がそわそわする鬼島を車が運ぶ。
昨日の夜から怪しかった、と、ナツは布団の中でため息をつく。妙に身体がだるく、風呂に入るのも面倒くさいと思うほどだった。なんとか入ったものの、出たらもう節々が痛かったり喉が痛かったり。早めに寝たが明らかに手遅れだった。
怖くて熱を測っていないが、寒気やら頭痛やらを考えるとそれなりにありそうだ。まずい、と思っていたところに鬼島から電話。
せっかくの休日だから一緒にお出かけしよう、との申し入れを悔しくも断り、ついでに伝染すのが嫌だから来ないでください、と告げた。
くしゃみをし、咳をし、寒さから布団により深く潜る。外はいい天気だが、気温が低そうだ。電気敷毛布の温度を中程度にして目を閉じた。温まりすぎると気持ちが悪くなる。
地球が回っているのを実感するのは、風邪のときくらいのような気がする。
寝たり起きたり、短い頻度で繰り返していたら音がした。ぼんやりした意識の中、目を開けると黒い影が動く。「この部屋寒っ」と、聞き慣れた声。
来るなって言ったのに。
「鬼島さん……なんできたんです……」
「えっ? 車でだけど」
「そうじゃなくて……」
「風邪もらうタイプじゃないから大丈夫だよ」
安心して、と言いながら首筋に手が当てられる。大きくて冷たい手。ゾワッとしたのが伝わったのか、ごめんねと短く謝られた。
「熱は? 測った?」
「……こわいから」
「わかった。じゃ測らないでおこうね」
頭を撫でられる。
鬼島が台所に消えてしまうと、妙に寂しかった。部屋の隅でヒーターが赤く染まり、熱を放ち始める。天井を見つめ、頭痛の波と息苦しさと戦っていたら戻ってきた。
お盆の上に、土鍋と小さな茶碗とレンゲ。
「柔らかいお粥だから飲み物だと思って。さ、がんばってお腹に入れましょうねえ」
子どもに言い聞かせるような甘い口ぶり。
身体を起こそうとしたら手伝ってくれた。鬼島の身体へ寄せられ、離れようとしてもやんわり阻止される。肩のあたりへ頭を預けたままでいると、はい、とレンゲが差し出された。
「……自分でします」
「いいからいいからー」
ほら口開けて、と言われ、薄く開ける。その隙間に柔らかなお粥が入ってきて、舌に触れる。これなら喉が痛くてもなんとか飲み込めそうだ。
ナツのペースに合わせレンゲをうまく動かす。ナツはひどく辛そうだが、何もできない様子に鬼島は笑みが深まるばかり。
いっそこれが毎日続けばいいのに。俺がいなければ何もできないナツくんになってしまえばいい。
はっきりとそう思い、首を横に小さく振って隅に追いやる。この考えはいけない。
小ぶりのお茶碗に二杯、さらさらのお粥だから決して多くはない。しかしナツは満足そうに水を飲み、すっかり眠ってしまった。
その寝顔を見て、不安がほんの少し持ち上がる。もしもこのまま目覚めなかったら? などと、ばかなことを。動けなければ嬉しいが、目覚めないのは嫌だ。
「はやく良くなってね? ナツくん」
また美味しいもの、食べようね。
壁際のコート掛けに掛けられた鬼島のジャケット内側で、携帯電話がさきほどから何度となく鳴っている。それはしっかり耳に届いていて、しかし無視を決め込み見向きもしない。
大量の果物と明らかに休日モードの談を小脇に抱え、佐々木が乗り込んできたのはそれから十分後のことだった。
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