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有澤さんと高牧くん 3 北山と満和


 

高牧 満和(たかまき みわ)
北山(きたやま)





 悪い夢を見て夜中に目を覚ました。
 傍らの空白が妙に寂しく感じるのは夢の内容のせいだ。今日は一際良くなくて、有澤の気配があるのに姿がない、そんな部屋にいるのが嫌になるほど。
 寝間着の上に厚い半纏を羽織り、立ち上がる。
 障子を開け、カーテンが引かれていて暗くひんやりした廊下の板へ足を乗せる。きし、と小さく軋む木。古い家だが、毎日若衆たちが掃除に励んでいるだけあってどこもかしこもきれいだ。

 夢のせいでおかしく乱れる動悸をひとり持て余し、満和がやって来たのはまだ灯りが点いている部屋の前。満和の部屋よりずっと玄関に近い場所にあり、足元が一層冷える。
 木の格子にはまった白い曇り硝子を控えめに叩く。そうでなければばしゃんばしゃんとかなり派手な音を立てる、とは、この家で過ごし、学んだことのひとつ。
 ちなみに硝子のことより先に学んだことに、この部屋の主はどんな話にでも優しく付き合ってくれる、ということがある。


「誰だ」
「満和、です」


 低い誰何に小さな声で答える。するとすぐにがらがら戸が開いた。
 姿を見せたのは、四十を少し過ぎた渋い男前の北山。いかにも不思議そうな顔で満和を見下ろしている。当然だ。普段満和は、何もなければすぐに眠って朝まで目覚めないからである。


「どうしました」
「……あの、」


 怖い夢を見た、と言うのはなんだかいかにも子どもっぽいようで気が引け、言い淀む満和。
 様子に気づき、北山は「どうぞ」と掠れた低い声で言いながら、身体を開いて中へと招き入れた。

 十畳ほどの和室は大きな家具や物が無く、文机の上に開かれたままのスタンダードノートパソコンがあるのみ。
 差し出された座布団にちょこんと座った満和は、電気ケトルとマグカップを手にして前に座った北山を見つめた。
 豊かな黒髪を後ろに流し、少々影のある奥二重の目元、濃い茶色の瞳。有澤ほどではないがそれなりにしっかりした身体付きで、白いシャツに黒いスラックス、黒い靴下という服装だ。まだ風呂に入る前らしい。

 北山真秀。かつては鶴治組若頭で次期組長と言われる存在だったが、現在は満和の世話役となっている。ここに来た時から誰より優しい、いいおじさんだ。


「夜にすみません」
「いいえ、白湯しかありませんが」


 湯が注がれた白いマグを両手で受け取り、膝の上で持つ。ふわふわ漂う蒸気を見つめていると少しずつ気持ちが整理されてきた。動悸も徐々にスピードを落とす。


「……夢を、見ました」
「夢」
「有澤さんがいなくなっちゃう夢です」


 実に嫌な夢だった。実現してしまったら頭が狂うかもしれない。そんな夢。
 夢ごときでこんな風に、とは、満和自身がいちばん思っている。しかし内容を思い出して再び冷や汗が出そうだ。


「ぼく、ずっと有澤さんを待ってるのにちっとも帰ってきてくれなくて……寂しくてたまらない夢でした。すごく怖いんです。ひとりでこの、おっきな家にいるのは」 


 満和の薄い手がカップを握りしめる。不安そうに、しっかりと。
 それをさり気なく見ながら北山は、そうですか、と受けた。


「……あの人は例え身体が滅びてもここに戻りますよ。まあ正確には、満和さんのところへ、ですが。お祓いでもしない限りずっといそうですね」


 怯えを見抜いたように柔らかく笑い、ゆっくり話す。目尻に刻まれた笑い皺、満和の近くにいるようになって消えた眉間の皺。


「……身体がなければ、嫌です」


 人形のように整った顔が泣きそうに歪み、ガラス玉の目に涙が滲む。泣かせたら流石に問いつめられそうだ。満和のことなら髪の艶までしっかり見ている人だから、目の赤さに気づかないはずがない。


「気休めにはならないかもしれませんが、うちは初代から東道会という巨大な組織の穏健派として成り立っています。他所様に比べたら安全な方ですよ」


 渋い男前に優しく微笑みかけられる。


「今回の出張もただの会議です。何ら危険はありません。有澤さんもそう言って出掛けたでしょう」


 確かにそう言っていた。
 頷く満和に、大丈夫ですよ、と繰り返す。


「有澤さんは満和さんに嘘をつきません」


 納得はしていないものの、先程よりは落ち着いた。有澤より長くその世界にいて、有澤が信頼している北山の言葉だからだ。
 ふう、と息を吐いたことで、満和の気持ちがいい場所に収まったのだろうことを感じ取った北山。ふと、思いついたことを提案してみる。


「今回の出張から帰ってきたら、言ってみたらいかがです」
「……何を、」
「あなたを心配しています不安ですもうどこにも行かないで、って。抱き潰されると思いますが」
「熱を出すのは嫌ですし、動けないのも困ります」


 憂うつ、という顔で即答する満和に、思わず声を出して笑った。

 夜の方で有澤が暴走したな、ということは、翌日のふたりの様子ですぐ判る。
 満和が熱を出したりいかにも辛そうにしていたりする隣で、有澤がでかい図体を丸め、申し訳なさそうにしょんぼりしているからだ。何を言っても満和は無視、北山にくっついて離れない。
 抗争に発展するのではないか、という一触即発の状況でも顔色ひとつ変えない冷静な有澤が、たったひとりの少年の前でしどろもどろになる。
 そんな様子を思い出し、笑い過ぎて滲んだ目尻の涙を拭う。


「笑い事じゃありません」


 頬を赤らめぷんぷんする満和に、すみません、と謝ってから穏やかな眼差しを向けた。



 満和が北山の部屋に来てから一時間。
 北山の部屋に、携帯電話の振動音が低く響いた。文机に手を伸ばして黒いそれを手に取る。


「お疲れ様です、真秀です」
「変わりないか」
「ありません」
「高牧くんは?」
「大変言い難いのですが」
「なんだ。また体調でも」
「今、自分の布団で寝ています」
「何が起きた」


 有澤に経緯を説明する北山の隣、畳に丁寧に延べられた布団に包まり、心地良さそうにすよすよ眠る満和。枕元にはきちんと半纏が畳まれている。
 話を聞いているうちに明らかに嬉しそうになった声を聞き、あどけない顔で眠る傍らの子に心から詫びた。
 熱を出したら責任持ってしっかり看病します、と。



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