お友だち(偽) | ナノ

最後のお話かもしれない


 
「本当に行くんだ」 

 早朝、夜も明けきらぬような時間帯の空港はさすがに人が少ない。どこもまだグランドスタッフがおらず列を成す人もなく、がらんとした搭乗手続きカウンターが無愛想にあるだけだ。近くのベンチにもちらほらと座っているだけ。これがあと三時間もすれば混み合い始めるのだろう。
 佐々木は国際線搭乗手続きフロアの隅にあるスモークガラスの喫煙室前、ベンチの一番左端に座っていた。

「行くよっ」

 早朝でもつるつるぴかぴかな笑顔で、隣に座る佐々木の顔を下から覗き込む。大きな目は好奇心にきらきらと輝いていた。

「寂しい?」
「思ったよりは大丈夫」


 一か月前、家に来ていつも通り過ごし、寝て起きて朝食を食べながら「おじちゃん、シノねえ旅に出るよ」と言った。唐突なのもいつものことで、ふうん、と返せばシノはぷくりと頬を膨らませたのだった。

「おじちゃんとは簡単に会えないんだよー寂しくないの?」

 その質問の仕方で、長い時間どこか外国にでも行くのだな、と察した。口に入れていた白米を咀嚼して飲み込み、微笑みかける。

「シノちゃんのほうが寂しいと思うんじゃない?」

 揶揄い半分のような声音ときれいな微笑みに、一旦萎んだ頬が再び、むう、と膨らむ。

「シノは寂しいとは思わないもん。大事なものがそこにあるから大丈夫」
「どこ行くの」
「ママがいたとこ」

 シノの母親の話は少しだけ聞いたことがあった。
 海外で有名な服飾学校で学び、その発想やデザインに対して高い評価を得ていた。これから、という時に出会った虎谷上弦と熱烈な恋に落ち、シノを産んだ後は業界に復帰することなく自ら命を絶った。原因は虎谷の態度だったとか、実は対立組織が放った刺客による暗殺だったとか、インターネットで検索すれば山ほど記事が出てくる。新聞も週刊誌も情報サイトも、非常に好き勝手だ。
 しかし正しいところは、シノも知らないようだった。服飾学校がどこの国にあるなんというところなのかも、以前は知らなかったようだし今も佐々木は聞いたことがない。
 それでもシノはとても母親を大事に思っている。彼女が着ていた服を直して着たり、バッグを使ったり。まるで生きているかのように思い出話をすることもよくあった。
 父親からなにか、新しいことを教えられたのだろう。そのあとを追いかけるのだろうか。
 佐々木が考えていたことを察したように、言葉をつなげた。

「ママが見た景色を見てみたいっていうのももちろんあるけど、シノはね、たくさん可能性があるの。まだまだこれからたくさんの長い時間があるの。何個も夢持って、才能はなくても挑戦だけはいっぱいできそうな背景もあるでしょ? だからね、やる」

 ふふふ、と笑った。とても楽しそうに目が輝いている。
 確かにそうかもしれない。
 金銭的に余裕があり、虎谷と言えばあちらこちらに繋がりを持つ。いくつもあるやりたいことをやれるというのは贅沢だ。そしてそれを使うのはシノの権利であり、ずるいことでもなんでもない。生まれ持って得た、運。

「まずはママのこと。自分で考えたいなって思って、行ってみることにしたんだよ」
「偉いね」

 感情のこもらない声に褒められ、大体の人は腹を立てるがシノは恥ずかしそうに笑う。こうして人の、悪意のない感情を読み取れるのも、無邪気という才能だろう。自分にはとても無理だ。
 佐々木は部屋を見渡した。あちらこちらにシノのものがある。

「どうする?」

 意思が伝わったようで、シノはうーんっと悩んだ。悩みながらシリアルをぽりぽり。

「どうしよっかなー帰ってこない間にシノ急成長するかもしれないよね。そしたらもうお洋服のサイズが変わっちゃうかも」
「シノちゃん、パパみたいになってるかもね」

 わかめと豆腐の味噌汁を飲み、お椀を下ろすとじいっと見つめられていた。

「何?」
「おじちゃん、シノがいなくなったら忘れちゃう? おっきくなったら嫌?」

 むちむちぷにぷにの成長段階にある可愛い子が好き、というのは自他ともに認めるところだ。現在のシノがまさに理想なのである。ふにふにした白い二の腕を見、首を傾げる。

「離れてれば忘れるだろうし、おっきくなったら興味なくなるのが普通じゃない? 好みじゃなくなるから」

 そうかー、とシノが笑う。少し寂しそうに。

「おじちゃん、素直だよね」
「そんなことないよずっと好きだよって言ってほしかった?」
「ううん、絶対そう言ってくれないってわかってた」

 長い付き合いですから、と胸を張る。それから佐々木の目を見つめた。光を含んだ玉眼のように感情を映さない。彫像のようだとはもちろん美しさもあるが、その目が特にそう思わせる。喜びも怒りも悲しみも一切ない、凪いだ眼差し。

「これからまだまだおっきくなるよ。そしたらおじちゃん、きっと大人なシノのこと大好きになるんだから」
「なったらいいねえ」
「思ってないくせに」

 シノは着々と自分のものを片付けていった。
 服や小物、靴……旅立ちが近付けば食器も。最小限の食器しかない佐々木の家には、シノのものがなくなれば佐々木が使う分しかない。がらんとしたラックを見つめ、後ろでごそごそと箱に最後の服を詰めているシノの気配を覚える。
 なくなっていくにつれ、この部屋の色は全てシノのものだったのだな、と気づいた。
 白と黒と灰色しかない。もちろんクローゼットを開ければいろいろな色の服があるけれど、部屋の中にある色は全てシノだった。

「明日、朝早いんだっけ」
「うん」
「見送りに行ってあげる」
「来てくれるの? ありがとー」

 シノが言った時間を携帯電話の予定に書き込み、今日は家に帰るというのでマンション前まで見送った。迎えの車が来るまで、箱を傍らに置いたシノが佐々木の手を握っていた。

「おじちゃん、好き」
「俺も好きだよ」
「多分、おじちゃんがシノの人生の中でいちばんかっこいい恋人」
「多分じゃなくて、絶対」
「ふふ、うん。絶対」

 シノが車に乗って遠ざかる。見送ることなく建物に入り、部屋へ上がった。
 寂しさというものがどういうものかはよくわからないが、こういう気持ちを言うのかもしれない。けれどきっとこれもすぐ忘れてしまうのだろう。今までもそうだった。楽しいとか悲しいとか、覚えていた試しがない。状況は思い出せるが、そこに付属する感情は思い出せなかった。
 いつも通りの生活を送るうえで、きっと必要不可欠な存在ではない。
 いつも通り、というのがなんだったかわからないけれど。


「おじちゃんに言わないで行こうかと思ったんだよ」

 時間が経ち、窓ガラスの外はすっかり朝を迎えている。いい天気だ。
 増えてきた喧噪に紛れるように、ぽつりと呟くシノ。

「でもそれだとすっきりしないし」
「言ってすっきりした?」
「うん! 改めておじちゃんがニュー・シノを好きになるようにがんばろうと燃えてますっ」

 ぼうぼう! と笑う横顔を見て、肩を抱き寄せる。

「すごく楽しかった。シノがお外に出られるのは、最初におじちゃんが連れ出してくれたからだよ」

 シノの栗色の髪はふわふわさらさらと頬に優しい。肩や腕の感触は小さくてふにふにだった。

「俺はますます美しくなっていくし、理想も高くなるけど大丈夫?」
「おじちゃんのほうから『好きです付き合ってください』って言うような人になるもーん」

 シノが乗る航空会社のカウンターに、スタッフが集まり始めた。列を作っている人たちの姿もでき始めたがそこはシノ、ファーストクラスなので関係がない。並ばずとも優先的に手続きができる。
 が、何かを断ち切るように勢いよく立ち上がった。

「保安検査が混んだら嫌だから、シノもう行くね」
「うん。気を付けて」

 するりと離れていく身体。ただ、手だけは離さない。
 シノが振り返る。大輪の花のように笑って。

「おじちゃんがまた、シノのこと見つけてくれるって信じてるよ」

 じゃあね、と、手が離れた。
 そのあとはもう、追うことはしなかった。シノは充分、ひとりで歩けるからだ。航空会社は聞いたがどこへ行くかは具体的に聞いていない。聞く必要がなかった。調べたらわかるかもしれないが、調べない。
 駐車場に停めていた車へ戻る。運転席のシートに一枚のカードがあった。薄い黄色で花やレースが箔押しされている。

「今、すっごく寂しいでしょ」

 意外と達筆なシノの字。そうかもね、と呟いて唇を寄せた。シノの香りがした。


 さて、生活に変化はなかった。
 仕事をして、鬼島を付け回して、時々有澤と三人で酒を飲んで、雨の日は頭痛がして、ベッドは相変わらず居心地がいいし、顔も身体も美しい。何かが崩れることはない。部屋に漂っていたような気がしたシノの気配もいつかなくなり、秋が来て冬が来て、春が来て。季節も時間も当然巡る。花火の音を聞けば夏だなと感じるいつもの程度。

 時間が過ぎ、休日に古い本を読んでいたら、ひらりとカードが落ちてきた。
 それは薄い黄色の、見覚えのあるカード。しかし何も書いていない。裏にも表にも。挟んであった本の題名を見て、佐々木はふっと微笑んだ。

「ナツくん、佐々木が珍しく旅行に行くらしいよ」
「そうなんですか。どちらに?」
「わかんない。空港から電話してきて、もしなんかあったらメッセージくださいって言っただけだったから」
「どこへ行ったんでしょうねえ。優志朗くんにも言わないなんて」


 枯葉が落ちる広い大通り。すっかり慣れきった学校からアパートへの道を歩く。秋口とはいえ冷え込む国の空はどんよりと暗い。長い足でとことこと歩きながら今日の課題について考えていた。シノが学生に出したのは『愛する人に着せたいシャツ』というものだった。異なるパターンでデザイン画を描いてこい、と。
 愛する人。自分ならば……パパかな、ママかな、お兄ちゃん? 夜山ちゃん?
 考えながら道を歩く。
 でも、どんなシャツを着ても似合っちゃうのはひとりだけかな。
 ふふ、と思わず笑ってしまった。アパートの前にいた管理人のおじいさんと挨拶を交わし、白い階段を二階分上がる。左右の壁に向かい合う焦げ茶色のドア。指紋を照合しようと取手の上の蓋を開けた時、上から降りてくる足音がした。たん、たんとゆっくりだ。四階に住むおじいちゃんかな? と思いながら人差し指をセンサーに当てていると、影が差した。各踊り場には大きな窓があり、外の明るさが差し込む。挨拶しないと、と顔を上げた。

「あれからまた年取ったんだけど、妖精さんはおじさん、嫌いかな?」

 白い髪に、艶のある灰色が混ざる。黒いハイネック、ビビッドな青のコートのポケットに手を入れて、黒っぽいデニムに黒い艶のある革靴。年を取ったという割に、記憶の中にある顔と変わらない。前髪の分け目が変わったくらいだろうか。
 驚いたように目をまん丸くしていたシノだったが、階段を降りてきた佐々木がすぐそこまで来ると少し顎を上げ、目を合わせてにんまりと笑った。

「シノが魅力的になった気配、感じた?」
「気配は感じてないけど、予想以上に素敵でびっくりしてる。それに、こんなこと言われたら追いかけちゃうよね。俺、負けず嫌いだから」

 差し出された古い本と薄い黄色のカード。シノが笑い、やっと気づいてくれた、とそれらを受け取って抱いた。その本ごと、佐々木の腕がシノを包む。頬に触れる栗色の髪。

「でも結局、おじちゃんが来てくれたからシノの勝ちだね」
「いや、捕まえたから俺の勝ちでしょー」
「うーん、引き分け?」
「俺の勝ち」
「仕方ないなーおじちゃんに捕まってあげる。魔法の言葉、言ってくれたらね」
「好きだよ、シノちゃん。俺の可愛い……可愛くて素敵な最高の恋人に、また、なってくれない?」

 ちゅ、と薄い左手の甲に口付ける。
 シノはあの日と同じように、まるで大きな花のように笑った。



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