有澤がお迎えに来る
他の生徒が教室内で整然と授業を受けているとき、満和は大体ひとりで保健室にいる。各教科の担当教師に出された課題を保健医に見守られながらゆっくり解き、授業が終わってから提出する。たびたび具合が悪くなるので、そういうときは長椅子へ横になってやりすごす。
学校を卒業したい、とは、満和が強く望んでいることだ。実の両親から育児放棄されたために小学校にはほとんど通えず、学校生活を始めたのはこの学校の中等部に入学してから。それからも休みがちで、しかし出された課題は毎回きちんとこなす。学力が追いついていないのでいくらか簡単にはされているが、最近は周りの進度とほぼ同じだ。
学ぶことは楽しい。知らないことがたくさんあるとわかると、生きているのが楽しくなる。知ったこと同士が結びつき、深くなるのが嬉しい。
さて、その日は朝から出席して二時間は教室で受けたが、体力が尽きたのか気分が悪くなってしまった。
肌がぴりぴりして痒く、頭が痛く、熱っぽい。心なしか息苦しい。ぐらぐらしながら保健室に行き、保健医の手を借りてベッドへ辿り着いた。ふわふわと柔らかなマットレス。清潔感にあふれた室内はとても学校の一室とは思えない。ホテルのようだ。
すでに通いなれた場所は、深く眠ることができる。
しばらく寝て、目を覚ますといくらかすっきりしていた。どうやら昼時のようで、引かれた白いカーテンの向こうから聞き慣れた声がする。
思い浮かべた顔が、カーテンの間から心配そうに様子を伺った。
「満和、大丈夫?」
親友のナツだった。
頷いても眉間に皺を寄せたまま。平気だよ、と言うと、でも顔色悪いよ、と言って内に入り、頬に触れる。皮膚が薄く、少し硬めの手のひらが当てられた。温もりが心地良い。
「満和、今日は帰ったほうがいいよ。鬼島さんが、有澤さん家にいるって言ってた。お迎え来てもらったら?」
「ちょっと休んだら、そうする」
本当のところは、有澤に迎えに来てほしくはなかった。また心配をかけてしまうだろう。ふぅ、と息を吐く満和を、ナツは見つめる。
「満和、おれに言ったこと覚えてる?」
「たくさん覚えてるよ」
「嬉しいな」
「どれのこと?」
「我がまま、いくら言っても向こうは喜んで聞いてくれる、ってこと。鬼島さんもそうだけど、有澤さんもそうだよね」
「……そうかな」
「いくらでも言ったらいいよ。言った分だけ、有澤さん喜ぶよ」
「……うん」
ナツがにこにこ笑う。自分にはない輝き。真っ白でくすんだところのない笑顔に何回元気を貰っただろう。頬に触れていた手に、手のひらを重ねた。
「ナツの顔を見ると、元気になれる気がする」
「元気になぁれ」
「ありがとう」
しばらくそうしてから、おれは元気のチャージにご飯行く!ふんす! と鼻息荒めに食堂へ行った。
入れ替わって、昼はどうする? と、保健医が顔を覗かせた。まだ眠かったので、寝ます、と答えて目を閉じる。
深く眠っていたので気付かなかった。
ざわざわする廊下にも、開いたドアにも、ベッドの脇の椅子へ座った、スーツ姿の有澤にも。
有澤は鬼島から、鬼島はナツから連絡を受けた。満和が心配でしょんぼりした声で電話してきたナツ。鬼島が動かされないはずもなく、即座に電話が来てやかましく先輩に言われた有澤が出動してきたのである。幸い、今日は特段の予定も無かった。
満和の学校へ行く、ということで普段よりもいいスーツを着てみた。一緒にいたのが安っぽいなんて言われたくないからだ。
寝ている満和を見る。
朝、顔を合わせた時には比較的元気に見えた。が、天気や湿度にも体調は左右される。今日は午後から雨になるらしいし、それで急に来たのかもしれない。
満和がすぐ連絡を寄越さなかった理由、察しはつく。心配をかけたくなかったのだろう。それを責めるつもりはないし、責める立場にもない。ただ、心配なことには変わりない。
薄く開いたカーテンの向こう、保健医はいなくなっていた。
ぐるりと見渡す。私立校とはいえ瀟洒すぎるような保健室。有澤が通った公立校とは全く違う。時代のせいもあるかもしれないが、もっと薄汚れて疲れているイメージがあった。学校という場所には鬱積だとか熱だとか、思春期特有のいろいろが詰まっていると思っていたのだが、ここは明るくて吹き抜けている。変わった学校だ。
「食べます? 有澤くん」
横から差し出された、紙に包んだラップサンド伝いに腕、身体、顔と見上げる。これといって特徴のないような地味な男。ポロシャツにチノパン。よく見れば顔や身体の形が整っているのにわざと特徴をなくしているようにも思える。
職員室に顔を出し、担任に挨拶した後にお隣に飄々と座っていた顔馴染みを半ば強引に案内係として保健室まで案内させた。途中、購買に寄ったのはこれを買っていたのだろう。
「丹羽、今月の返済まだか」
受け取りながら言う。眼鏡の奥の目がごまかすように笑った。
「もうちょっとで給料日なので」
「ちゃんと払えよ」
「わかってます」
「払わないと鬼島先輩に言うぞ」
「それだけはやめてください本当に」
「満和くん、寝てるけど連れて帰っていいのか」
「担任の先生の許可は出てますから、どうぞ。あ、でも」
「ん?」
「目立つと思いますよ」
「別に」
有澤は気にしないだろうが、満和はどうだろう。
一年生の時に担任していた丹羽、しかしそれを口に出すことはなく。あっさりとお姫様抱っこして出て行く姿をただ見送った。
廊下を歩けば確かに目立つようで、視線を感じる。しかし気にも留めない有澤はのしのし足を進めて行った。来賓玄関の窓口で借りた入校許可証を取るには腕がふさがっていたので、担当のお兄さんに外してもらった。ついでに車のドアまで開けてくれたので丁寧に礼を述べ、後部座席へ満和を寝かせる。
広々としたSUVタイプの車の後部は、満和がゆったりと横になれる座席が決め手だった。もともとこういう車が好きだったということもあったけれど、満和が楽ならなおさらで。
緑のブランケットを身体に掛け、額に手を当てるとやや熱く、熱が出てきているらしかった。このまま病院へ行こうか、どうしようか。とりあえずは様子を見よう。家へ向かう。
走っている最中に、目を覚ましたらしい。ぼんやりした声で「ありさわさん」と声がした。
「満和くん、家に帰ってゆっくり休もうな」
「はい……でも、どうして」
「愛かな」
無言。
しばらくしてから小さなかわいい笑い声。
「……言ってから照れるなら言わなきゃいいのに」
赤信号で停車し、後ろを見る。満和は眠っていて、ふわふわとしたブランケットに顔を埋めている様子が可愛らしかった。もっとも、有澤の目にはどんな満和も可愛らしく映るのだが。
かしゃ、とスマートフォンのカメラで撮影して前を向く。最新の満和にメイン画面を設定してにやり、した。
翌日は学校をお休みした満和。だから知らなかった。学校中、満和の保護者の話題で持ちきりだったことを。
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