拝啓、きみ | ナノ



 
葉田 剛士(はた ごうし)
葉田 力彌(はた りきや)

***

 小学校の国語教員として働き始めて二年が経った。兵士として戦っていた日々が嘘のように静かな日常を送っている。しかし周りを見渡してみれば、ある子は親を失い、またある子は兄弟を失い、またある子は家を失い……というように、ほぼ必ず何かを失っている。自分は幸いにも何か失ったと自覚しているものはない。義兄もいるし、家もある。仕事もある。
 困っている子どもの話をしたら、今は何やら公務員のようなことをしている義兄の力彌が、質のいい養護施設や子どもの為に働いている保護施設などを紹介してくれるようになった。そういったところは何より、子どものためにきちんとしてくれるか、施設の運営がどうかということが気になる。中には悪質なところもあり、子どもにろくなことをしないような施設もある。
 しかし、義兄が紹介してくれるところは良いところばかりで、入所した子どもたちは不安そうながらも特に問題はなさそうに暮らしているので安心だ。施設がいっぱいのときには自宅の一階に子どもたちを寝起きさせることにも賛成してくれ、余裕があるところが見つかり、本人と見学しに行って良かったら入所させるというようにしている。


 さて、その義兄・力彌はどんな人なのか。


「おはよう、剛士」


 朝起きて最初に見るのは義兄の顔だ。冷え性だと言う兄、布団の中が寒いとぼやくので、何かできることはありますかと聞いたら、一緒に寝てほしいと言った。一緒に寝たら温かいから、と。なのでそれ以来、季節を越えてもなんだかんだ一緒に寝続けている。それで、早朝より見るのは義兄の顔、ということになる。
 その顔を眺めながら、実に精悍な顔だなと思う。目元は、ともすれば冷たいような印象を与えるが、いつも柔らかな表情を保っているので全く気にならない。鼻筋がきれいで、下唇はふくふくと柔らかそう。全体的に、いかにも東洋の美、と言えると思う。身体も筋肉質で背が高く、とても素晴らしい。立派な体格は憧れるようなものだ。以前はずっと丸刈りだったが、戦後、再会してみると少し長めの短髪になっていた。額を流れる黒い前髪、これもなかなか良く似合う。


「おはようございます」


 すぐそこにある端正な顔に挨拶をする。すると、頬を撫でられた。


「今朝は体調、どうだ」


 首に触れる大きな手のひら。寝起きだからか温かい。
 そのぬくもりに目を細め、答えた。


「特に異常はありません」
「それならよかった」


 起きようか、と声を掛けられ起き上がる。
 義兄は先に一階へ下りていき、色々な世話をしてくれる下働きのお兄さんと会話しているようだった。声が聞こえてくる。それを聞きつつ、俺は着替えて遅れて下に行く。
 戦後、再会してみると義兄は年上だから年下だからと言わなくなっていた。戦前、一緒に暮らしていたときは、上下関係や言葉遣いにとても厳しかったのに。俺は子どものころから熱を出しやすい体質だったが、それを詰りこそすれ、心配する様子などあまりなかった。
 辛く厳しく、もう二度と体験したいと思わない時期だったが、こと兄との関係というところにのみ注視してみれば、だいぶ良い関係になることができていると思う。

 朝食を一緒に食べて、先に出る俺を門まで見送ってくれる。着物姿の兄はやはり素敵で、ずっと柔らかくなった眼差しで俺を上から下まで見た。


「今日も可愛いぞ」


 と言って、頭を撫でてくれる。少し気恥ずかしい気持ちになりながら、行って参ります、と学校に向かって歩き始めた。



 戦前、海軍校の初等科は相当に優秀な人材ではなければ入校することができなかった。
 義兄はそれだけを目指しており、小学校を優秀に修了して、義両親が言うところによれば「順当」に入校した。そちらでも首席の成績を保ち続け、晴れて海軍に入隊。入校以降、戦争が始まっても家に帰ることはなかった。そして秘密保持という意味で、どこにいるかを知らされることも無かった。義両親も知らなかったようだが、それは名誉であるから、と知りたがる素振りを見せたことはない。
 俺も、ちょっと怖い義兄がどこにいるか、少し気にはなったが積極的に知りたいという訳では無かった。ただ、ちょくちょく手紙は送っていた。返事があったことはなく、とりあえず毎年、どこどこに入学したとか卒業したとか、今度軍隊に入ることになったとかそういう近況報告だけは続けていた。最初に貰った住所に送り続けていたので果たして届いていたのだろうか。よくわからない。

 そして俺は所属部隊が前線に進むことになり、長い戦闘生活を経て戦後ようやく引き揚げてきた。船が着岸したときに、迎えに来てくれたのは義兄だった。その時に初めて義両親が戦火に巻き込まれて命を落としたことを知り、あまり優しくはない人たちだったが哀しい気持ちになった。しかしそれよりも覚えているのは、迎えに来てくれた義兄が俺を見て、とても辛そうな顔をしていたことだ。
 生きて帰ってくるとは、というようなことを言われて殴られもするんではないか、と不安になったが、その手は優しく俺の頭を撫で、大変だったな、と言ってくれた。その時に、ああ戦いは終わったのだな、と安堵することができたように思う。

 義兄の家に住まわせてもらい、近所の人と仲良くしながら荒れ果てた精神の療養に努めていた頃、幾つか新聞を見せてもらった。それはどれも、写真に義兄らしき人物が写っていた。いつの間にか海軍所属ではなくなっており、戦後は特になにか不利益を被るでもなく、通訳士かなにかしてお国の役に立っているようだ。なにか、というのは、具体的な仕事の話をしないからだ。なんとなく察するにそういった仕事かなと思う。いったいどこで言語を身に着けたのか、そういう仕事に入ったのか、と考えることはあるが、まあ優秀な義兄なのでなんとかなったのだろう。



 坂の上の小学校に着いて、まだ誰もいない校舎内を進み、職員室に入る。
 先にいたのはいつもおなじみの年配の教師。挨拶をして席に着く。机の上には椿先生の写真があり、それを眺めてから仕事が始まる。今日も椿先生の御本を一冊、紹介することにしよう。
 尊敬してやまない椿専先生は大学の時の教師である。お美しく優しく、誰からも慕われる素晴らしい先生であった。知識も幅広くいらして、担当していた科目はどれも非常に興味を惹かれる語り口。実際、他の科目はさほどでもない学生が椿先生の講義になると非常に熱心に学び、成績も優秀だったと言うから、不思議なほどに魅力にあふれていたことの証明になると思う。


 椿先生が書く物語は子ども向けだけあって児童にも大人気だ。授業の内容に入る前に読み聞かせると、一話だけだと言うのに続きを早く話してほしいとせっつかれてしまう。
 じゃあ早く課題を成功できたら続きを読もうと言えば、集中力高く取り組む。こんなところでも先生に助けられ、感謝しかない。



 半日の勤務を終え、家に帰る。本来は一日学校にいるのだが、今日は特別だ。まだまだ学校制度が整いきっていないし、一日学校を運営できるほどの財力が無い。なので自主学習という名の半日がある。
 坂を下りて家々の間を歩いていると、ちょうど家の前に義兄がいた。帰って来たばかりなのか、まだ仕事用のスーツ姿で帽子もかぶっている。


「兄さま、ただいま帰りました」


 声を掛けるとこちらを見て、お帰り、と微笑んでくれた。素敵である。


「何していたんですか、こんなところに立って」
「いや……この家も古くなったなと思って見ていた」


 義兄はどうやら家を眺めていたようだ。隣に立って、一緒に眺める。


「そんなに古くないですよ」
「戦火による被害が無かったとはいえ、戦前の久しい頃に建てたものだろう。頃合いを見て建て替えたい」


 義両親が建てた家は、まあまあ立派で趣がある。しかし義兄はあまり気に入ってないらしく、最近は建て替えたいと口に出すことが多くなっていた。


「剛士は嫌か、建て替えるの」


 尋ねられ、そうですねえ、と端から端を見る。養子として入り、この家の中ではあまりいい風に扱われたことがないので微妙な心持ちだ。


「建て替えに異存はありません。兄さまのお家ですし、自由になさったらいいと思います」
「ふむ。建て替える時はお前の意見もしっかり聞くぞ」
「なぜですか」
「お前も俺と一緒にずっと住むからだ」


 はあ、とあまりぴんとこない声を出してしまった。義兄が首を傾げてこちらを見る。


「どうした」
「俺もずっと、ここに住むんですか」
「他の土地がいいならそちらに移るのも構わんが」
「ええと、そうじゃなく……兄さまに、誰か好い人ができたら俺は他所に行こうと」


 途端に、眉がぎゅっと寄った。
 普段柔らかい表情をしているので、こういう、不愉快そうな顔をすると迫力がより増す。つまり、とても怖い。
 俺が口を開く前に、義兄がこちらに一歩踏み出してきた。


「お前は、俺がお前以外の誰かを娶ると思うのか」
「違うんですか……」


 思わず小声になって、一歩後ろに下がってしまう。するとはっとしたような表情になり、少しだけ黙った。


「……剛士、俺は命をようやく繋いで再会したお前と、あまり離れたくないんだ。だからなるべく傍にいてほしい。お前が嫌なら出て行っても構わない。だが、嫌になるまでは」


 頼む、と小さな声で言う。いつもはこんな姿を見せない。

 そんなに俺のことを愛してくれていたのかと思うと、新鮮だったし、嬉しかった。考えてみればもはやたったひとりの肉親になったわけだ。それを大切にするというのは良い事だし、俺も義兄の傍にいられるだけいたほうが心配をかけないだろう。熱を出しやすいとか、そういう事で離れた場所にいる俺を気にかけるのは心労に繋がるような気がする。


「わかりました。じゃあ、もし兄さまに誰か好きな人ができたら教えてくださいね! 俺、邪魔にならないようにしますから」
「……わかってない……」
「え?」
「いいだろう。教えてやる」


 深い溜息と同時に、絞り出すように義兄が言った。
 家に入り、義兄は着替えて俺の膝に頭をのせ、眠り始めた。最近忙しくてな……と呟いたので、僭越ながら膝を貸したのである。俺は大事に大事に読んでいる椿先生の新刊の続きを読む。縁あって戦後、引き揚げてから再会し、新刊が出るたびに丁寧なお手紙と一緒に送ってくださるようになった。もったいないことだ。そのお手紙は暗所にて大事に大事に保管している。
 キリのよいところまで読み進め、やってきたお手伝いの人に夕食を作ってもらう。軽いお手伝いをしようと思ったら、義兄に腰をがっちり抱かれて動くな、と言われた。
 海軍の人は狭いところでもうるさいところでも寝られると聞いていたが、義兄もそのようだ。俺が多少身動きしても目を覚ます様子がない。でも、頭を下ろそうとすると怒る。


「力彌さんって、海軍にいたんですよね」


 台所からお手伝いのお兄さんが話しかけてくる。


「うん」
「軍艦とか、なんか乗ってたんでしょうか」
「うーん……? 良く知らない」
「そういうもんなんですか」
「そういうもんなんじゃないかなー。秘密だって言ってたから」


 ほおーさすが。と言って、軽快に包丁を動かす音が再び聞こえてきた。
 よく眠る義兄の顔を見下ろす。素敵な顔だな。前髪を払うと、額にうっすら傷痕が見えた。小さい頃はなかったので、たぶん訓練中に負ったのだろう。苦労が偲ばれて胸がきゅっとする。
 大事にしてもらっているので、大事にしたい。
 そう思って日々一緒にいるのだけれど、役に立てているのだろうか。
 少しでも立てているならば、嬉しいのだが。


「剛士、少し出てくる」


 すっきり目覚めて夕飯を食べ、黒いスーツに着替えた義兄が玄関に向かいながら声を掛けてきた。


「どなたかのお通夜ですか」
「ああ。急に出たようだ」
「お気をつけて」
「……今日は闇が濃い。外に出ないように」


 そう言いつけて出て行った。はて、どなたのお通夜なのだろう。お仕事関係なのだろうか。
 先に寝て、夜中にもそもそと布団へ入り込んできた気配があった。眠くて、意識の片隅のような場所でそれを捉える。


「……お前を守る為なんだ」


 言葉は聞こえたけれど、意味を理解することはできなかった。五十音のひとつずつというような形で聞いただけ。ぎゅうと抱き締められ、あまりに居心地が良かったので再び深く眠る。
 朝起きるといつものように義兄は少し離れてこちらを見ていた。
 夢だったのかもしれない。
 
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