白い男 完
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
知っていたはずだった。時間は有限であることを。そして、彼を返さなければならなかったことを。
穴だらけで煤を纏った窓の外の廃墟を眺めつつ、男性が言う。
歳を重ねているだろうが、失われない美しさを持った鋭い目が一瞬きらりと光った。どうやらその当時を回想しているようだ。
「子どもは、本当に偶然ここに来た。この家で遊び、学んで、食べて寝て。俺やそこのハイズンと一緒に時間を過ごした。不自由は……わからないな。させたかもしれない。しかし悪くなかったろうと思う」
秘書の柳さんがアルバムを大きな机の上に広げた。
古い写真のように見えるのは、おそらく紛争の影響を受けたからだろう。ところどころに焼け焦げが見える。その辺りを気にしていたら、ゆったりと一人掛けの低い椅子に座っているハキム氏がほほ笑んだ。
「あなたがまだ幼いころに、この国は不幸に見舞われた。よくある話だ」
国王の暗殺に続いた軍事クーデターによる政権の停止。そして民衆との激突。
その先頭で武器や資金を提供し続けたのはこのハキム氏の一族と財界の友人たちだ。人格者だった国王が殺害されたことに対する民衆の怒りは頂点に達し、軍部の一部対全国民という構図であちこちで戦闘が起きた――と、大学ゼミで目にした資料には書いてあった。
「今でこそこのようにゆっくり話ができるが、十年前には考えられなかったろう。ハイズン、お客人にお茶を。気付かずにすまない」
「いいえ。お構いなく」
「……お客人は、この国の言葉が達者でいらっしゃるな。今やそのように礼儀正しい言葉を使うものはいない」
「しっかり学びましたので」
まだ戦火が消えて間もないこの国は渡航注意リストに掲載されており、そうやすやすとはビザを手に入れられない。教授とこのハキム氏の尽力により、今回のインタビューが実現したのだ。
「さて、人身売買でその子どもを手に入れたのか、だったな。イエスでもありノーでもある」
「というのは」
録音のボタンを押す。ハキム氏の視線が携帯電話の画面に注がれ、録音していることを示す赤い光が画面内のスタートを輝かせたのを見てから、語りだした。
「イエスでもありノーでもあるというのは、確かにその子どもを金で買ったからということ、しかしその子に何をしてほしかったわけではない」
「労働や、その」
「性的欲求を吐き出すために、というわけでもない。ただ笑っている姿を見たいと思った」
「……なるほど」
「この国は古い体制を一新しようとしていた。奴隷制度もそのひとつ。富の再分配、衣食住を国民へ保証する。その矢先に、旧体制や因習の継続を望む軍部がクーデターを起こした。あの子が……バスマが巻き込まれなかったのは幸いだった」
「この少年ですね」
「ああ。かわいらしいだろう」
頷くと、ハキム氏の厳しい表情が緩む。
写真の中にいる、可愛い笑顔で果物を食べている男の子。
傍らに座るハキム氏と同じ、白いワンピースタイプの民族衣装、同じ色の布で顔回りを覆っている。古くから続く伝統的な姿だ。美しい髪には悪魔が寄ってくると言われ、性別や身分に関わらず、日中は顔回りを布で覆うのがしきたり。
今日、ハキム氏に会うにあたり、自分もそのようにしてきた。郷に入っては、である。
可愛い少年は次の写真でも果物にかぶりついていた。
どの写真も愛らしく、傍らのハキム氏や柳さんは愛しいと顔に書いてあるようなほほ笑み方。
「お客人と同じ国の出身だった。だから今回、取材をお受けしたんだ。あの子の国から来たならば、と」
「今でも愛しく思っていらっしゃる?」
「もちろん。本音を言えば、ずっとこの国にいて、わたしの隣にいてほしいと思っていたからな」
精悍な顔に浮かんだ和やかな表情は、厳しいそれを貼りつけている時よりもっと魅力的に見えた。きっとこちらが本来の顔なのだろう。
「ハキム氏は……その子を探さなかったのですか」
ゆっくり瞬きをする。
探したくても探す余裕がなかったのだろうことはわかる。国全土を巻き込んだ紛争、その先頭に立っていたのも知っている。が、この人ならばきっとそんな最中でも探しそうな気がした。
「もちろん探したが……紛争中の国からアクセスされても無視する国は多い。余計な事に触れたくないものだ」
「他の国にもお訪ねに?」
「知人から、あの子が出国したと秘密裏に聞いた。ここから国へ戻って間もなくのことだ。行先はさすがに個人情報だということで言わなかったが、家族と共によその国へ出たらしい」
離れ離れになった子を探している――その情報を耳にしたのは偶然だった。研究室で、教授がハキム氏と通話していたのを聞いてしまったのだ。
なぜかそれに強く興味を持ち、実際にこの国へ来たかったことや、ハキム氏に聞きたいという熱意を教授があちこちに届けてくれた。別段、人の関係に興味があるほうではない。だが、この英雄(と、あらゆる書籍では紹介されている)が強く再会を望む存在が気になって仕方なかった。
秘書の柳さんがお茶を出してくれた。
金で美しい模様が描かれた白いカップに、琥珀色の馨しいお茶。この国の水でしか出ない特有のまろやかな味わいを持った飲み物だと、教授からは聞いている。
「おいしいです」
口に広がる優しい茶葉の味。確かに、飲んだことの無いような深みだ。濃いのに全くしつこくも渋くもない。
「バスマもそれが気に入りだった。この国の果物、文化、宗教……あらゆるものを楽しんでくれた。叶うならばもう一度会って、楽しい時間に感謝していると伝えたいのだがなかなか、な」
見つからないことを心底悲しがっている、と聞いていたがその通りのようだ。彫りの深い端正な顔に宿る陰。それは紛争の疲れと、愛しい人が見つからない寂しさ。
柳さんを見上げる。ハキム氏の後ろに立つ巨人のような彼は、俺と目が合うとすっと逸らした。違和感。
「そろそろ夜になる。お客人は宿に帰ったほうがいい。ハイズンに送らせよう」
外国人は夜間の外出禁止令が出ている。
また明日、と見送られて宿への道を歩く。紺色の空、端が僅かにオレンジがかって美しい夜の始まりだ。
「……柳さんは、その子の行き先を知っているのではありませんか。名前も、どこにいるかも」
ハキム氏は何も知らないと言っていた。
不自然なほどに。
しかしこの、誰より信頼されている側近が全て手続きをしたとしたら。情報を止めていたとしたら。そうなれば説明がつく。近しいゆえに疑わない。
柳さんが、俺を見下ろした。苦く笑って。
「君の国の人はみんなそうなのか。バスマもよく本質を突いてきた」
「やはり」
「わかってほしい。ラシェッドは知らない方がいいと。あれは今、身動きが取れない。大事な祖国のために尽くす必要があるからだ」
先頭に立ち、紛争で心が折れそうになる民衆を励まし続けた英雄は今やこの国の復興を担う臨時大総統となった。
一度瀕死になった国を支え、再興するのは容易なことではないだろう。ハキム氏の寿命が尽きるまでにできるかどうかもわからない。そんな最中にいる親友に、余計なことを言いたくないのだ。
「……いつか、教えてあげるんですか」
「そうだな。ラシェッドが自由になった日に」
宿へ戻る。ハキム氏の友人だと紹介してもらったホテルは小さいが清潔で、毎回おいしい食事を用意してくれるにこにこ顔が素敵なご主人がいる。
柳さんが挨拶をし、引き上げたあと。
部屋に戻ってスーツケースを開けた。メッシュポケットにしまってきた、一通の手紙。旅立つ日の朝に教授から渡された。
「もし渡せるようなら、ハキム氏に渡して欲しい」
渡せないかもしれない。
頭痛がするほど悩んでしまった。封筒の表に書かれた『愛するラシェッドへ』という、ちょっと歪んだこの国の文字を眺めながら。
柳さんの気持ちもわかる。
会いたいというハキム氏の気持ちもわかる。
そしてきっとこの封筒の中には、バスマさんの気持ちも詰まっている。教授が直接送らなかったのは柳さんの目を気にしたからだ、きっと。俺ならば直接渡すことが出来るから託された。
「うーん……」
渡すべきか否か。
……決めた。
翌日、朝早くにハキム氏の家を訪ねた。
朝食を共に、と言っていると宿のご主人が伝えてくれたのだ。喜んで出掛けてきた。
さわさわ、早朝のまだ暑くなる前の爽やかな空気が居間を吹き抜ける。伝統的な複雑な模様が織り込まれた大きなふかふか絨毯に座り、大皿から取り分けるスタイル。お米は水分が少ない長米、それに茶葉の香りがついていておいしい。スパイシーな炒り卵や温野菜などを好きなように盛り付けて、スプーンで食べる。
「ハキム氏は、なぜその子の笑顔が見たかったのですか」
「可愛らしいからだ」
即答だった。
「明るく、優しく笑う。月みたいに美しい顔に広がる笑みはなにより素晴らしかった。今でもわたしの一番素敵なものだと言える」
そうですか、と頷き、手紙を差し出した。柳さんがなにか言おうとしたが、それよりも早くハキム氏が受け取り、開封する。
何回も、最初から最後まで読み返していたハキム氏が、丁寧に便箋を畳んだのは時間が経ってからだった。
「お客人は、この手紙の内容を?」
「読んでいませんから」
差し出され、躊躇しながら受け取る。
少し歪な文字を、右から左へ読んでいく。
『親愛なるラシェッド
ぼくのことを覚えていますか。
すっかり大人になりました。でも、あの時のことは忘れていません。ラシェッドはいつも優しく、たくさんのことをぼくに教えてくれました。本当にありがとう。
今は、ある国で暮らしています。
ニュースを新聞やインターネットで見ていました。不安で、怖くてたまらなかったです。でもラシェッドが無事だって聞くと安心しました。ハイズンも無事だし、みんな無事ってことだから。
いつか、ラシェッドが全部のことを終わらせたら会いに行きます。何年後でも、何十年後でも。大人になったぼくを見て欲しいし、たくさんのことをがんばったラシェッドとハイズンに会いたいです。今度はぼくが、何か役に立てますように。
大好きなラシェッドへ バスマ』
「……バスマが無事なら、それでいい」
ハキム氏は深く息を吐いた。ふ、と笑う。
「何とかこの国を立て直そう。そしてバスマが来られるようにせねばな」
たくさんの思い出話を聞いた。それを録音し、書き起こしたものに英雄の素顔というタイトルをつけてメモリーカードで教授に提出した。
写真も撮らせてもらい、添付してある。
柔らかく笑う、若い教授。
「どうだったかな、ハキム氏との時間は」
「素晴らしかったです。とても良くしてくださいました」
「そう。よかった」
端末に差し込み、ファイルを開いて、教授の動きが止まる。
「……バスマ、手紙をありがとう」
映し出された、ハキム氏からのメッセージ動画。
「本当は会いたくてたまらないが、バスマが待つならば俺も待とう。良い国にして、帰ってきてくれるのを待つ」
ふふ、と笑う低い声。
「こんなに近くにいるとは思わなかった。本当の名前はこちらなのだな。だが俺にはいつまで経っても可愛らしいバスマとしか思えない。もしよかったら今度、顔を見せてくれないだろうか。インターネット越しでも構わない」
後ろに、仕方ないな、顔の柳さんが映っていた。笑って手を振る。
「大人になったバスマの姿を見せてくれー」
「ハイズン、諦めろ。俺は必ずバスマと再会する。それを妨げにはさせないくらいの仕事ができるつもりだ」
「お前は誠実だからな、我が友」
「ああ」
だそうだ、諦めた方がいいな。と言いながら肩をすくめる。教授は笑って、終了した動画をもう一度見ていた。
「会いにいかないんですか」
「それはまだ先、かな」
「どうして?」
ゆっくり瞬きする、目力の強い大きな目。
こうして見ると仕草が不思議なくらいハキム氏と似ていた。
「今行ったところで邪魔になるだけ。ぼくはラシェッドの役に立ちたいからね」
だからか。と思った。
あの国の文化を専門にしながら、一方であの国のインフラや公衆衛生についても研究していたのはないずれ復興する頃を見据えての事だったに違いない。
「教授、俺も一緒にやっていいですか」
「研究?」
「はい」
――十数年後、復興したとある国。
その国に多大な貢献をしたとして、新たに立った大総統から表彰を受けた二人の外国人がいた。片方は前の大総統の古くからの友人だと紹介された。
インターネットの動画サイトにはこんな会話が残されている。ゆったり水辺で話す、表彰式後の様子を撮った姿だ。
「友人なの? ぼく」
「……今はな」
「今は? 昔と違って可愛くないからだめ?」
「いや、今も昔も変わらない。バスマの笑顔が俺を支えてくれている」
ふたりして照れる姿に、呆れた声がどこからかした。
「付き合っちまえよーさっさとー」
「いや、まだ」
「なーんだよラシェッド、らしくねぇぞ」
「……そういうのは、もっとプライベートな時間に」
ちら、とカメラの方を見る前大総統。
笑い声がして動画は終了した。
動画の名前は「夜明け前」になっていて、悲劇の舞台だったその国を一躍、幸せの国として有名にさせたのだった。
その動画にはSNSのアカウントが書かれており、世界中の人がフォローしている。
仲良く過ごすふたりを見たいがために。
ちなみに、もっとも『いいね』がついたのは果物をおいしそうに食べる姿を前大総統が撮ったものと、筋骨隆々とした秘書が犬にべろべろ舐められて眉間に皺を寄せつつも熟睡する短い動画だった。
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