箸が上手に使えるようになり、小さめに切られた肉を挟んできちんと口まで運び、食べる波積を隣で柔らかく微笑って見守る北山。自分も食事しているが、ついついそちらに目をやってしまう。

「おいしい」
「ああ、おいしいな」
「うん」

 汁物や水分が多いものを口にする時はむせないか心配になったが、うまく飲み下してほっとした。うまくやれると食べることが楽しいようで、ゆっくりながらすべてを食べ終えた。

 食事はかなりの集中力が必要で、波積にとってはそれなりに疲れる重労働だ。片付けを手伝い、食器を洗う北山に「ごめんね」と言って車いすを操作しソファへ行き、自力でそちらへ移ってぐったり。

「たくさん食べられたな」
「まほさんといると、食べ過ぎちゃう」
「そりゃよかった。はづは痩せ過ぎだからもっと食えよ」
「お腹、ぱんぱんです」

 しばらく休んで次は入浴。
 波積が実は楽しみにしているらしい、と聞いて可愛らしさに笑ってしまう。自分で入れるから、入ってから呼ぶ、と言う波積に従い、呼ばれるのを待つ。脱衣所のドアの前で待つ。傍らには車いす。

「いーですよ」
「はいはい」

 脱衣所に入って左側の浴室を見ると、すでに波積は心地良さそうに湯の中。ささっと脱いだ北山は身体と髪を洗い、浴室に身を沈めた。広々した浴室には転倒や事故防止のためのいろいろな工夫が見え、壁にはナースコールもついている。
 この敷地の中には医師と看護師が常駐していて、家の中のあちこちに彼らへ直通のコールボタンがある。玄関、キッチン、寝室、リビング、トイレ、ベランダ……クローゼットの中。

 しっとり濡れた黒髪を後ろに流してやると、おそろい、と笑う。縫合痕がちらりと見えた。切なさを振り払うように、頭のてっぺんへ口づけ。
 身体のあちこちにもあの日の痕がある。波積は忘れているが、縫った痕、切り傷、あざ。どれもあの日のもの。その前はしみひとつない美しい身体だった。髪もさらさらと伸ばしていて、けれどあの日以降、嫌がるらしい。ある程度まで伸びると、ときに自分で切ってしまうとヘルパーさんに聞いていた。
 忘れている、のは、あくまで忘れているだけ。消えたわけじゃないのだと北山は思う。

「はづ」

 頬にキス。振り返ったので、唇にも。
 そっと触れるだけのそれに、照れたように笑うのがまた可愛らしい。

「まほさんのキスはいつもきもちいいです」
「そりゃよかった。愛情のせまくってるからだな」

 歩く練習をしているのでそれなりに筋肉がつき、ハリのある足。それができなかったときには痩せて、まるで腰から下だけ別人のようにも見えた。
 記憶の混乱、変化する身体。
 波積を見失ったことがなかった、と言ったら嘘になる。帰りたい、まほさんに会いたい、もう嫌だと、おぼつかないながら泣きわめいて訴える姿を見たとき、自分が愛した波積はどこか他所にいるのではないか、と思った。

「あなた、だれ。しらない、まほさん、まほさんは?」

 まほさん、と繰り返す。怯えて泣く。
 何度も見ているうちに、波積の中には漠然とした「まほ」しかいないことに気づいた。反射のようなもので、正確には覚えていないのだと。
 ならばもう一度始めればいい、と、ある日ふと気づいた。苛立つのも悲しむのも無意味だ。だったら、もう一度始めたらいい、と。

 北山真秀、と名前を教え、寄り添い、見守り。また好きになってくれたらいいと、期待を込めて。

「まほさん……?」
「また好きになってくれてありがとう、波積」
「……まほさんみたいに素敵な人に、もう一度、恋できたなんて、幸せ」
「俺も、はづみたいに可愛い子にもう一回好いてもらえて幸せだ」
「幸せ?」
「もちろん」

 波積を抱っこして風呂から上がり、洗い場の椅子に座らせて身体中を拭く。服は自分で、と言う波積を脱衣所に広げたタオルの上へ下ろして自分も身体を拭く北山。

「ヘルパーさんにね、まほさんのからだにたくさんきれいな絵があるって言ったらね、怖がってた」
「そりゃそうだろうな」

 肩から背中、尻、太ももの裏、腕は七分袖あたりまで極彩色に彩られた北山の身体。振り返ると寝間着を着た波積が見上げていた。

「きれい」
「そうか」
「シャツいりませんね」
「いや、普通の人より要るから」

 黒のスウェットのズボンだけを穿いた北山。風呂から水を抜いて軽く掃除をする。その間に波積は自分で車いすへ乗り、操作をしてキッチンに到着、コップに水を汲んでゆっくり水分補給。
 髪を乾かし、寝室で可動式のテーブルを引き寄せ、日記を書く。さんぽをしたとか、食事したとか。最低三行、なんでもいいから記入する。

「まほさん、あしたはなにする?」
「なんでも」
「うん」

 並んでベッドへ横になり、厚みのある胸にぎゅっとする。先に寝てしまったのは北山で、胸のあたりにちゅぅっと口づけられても目を覚ますことはなかった。
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