北山 真秀(きたやま まほ)
波積(はづみ)
*
有澤さんは満和さんの傍らで勉強を見ていたが、ふと顔を上げて部屋の隅に控えている俺を見た。
「北山」
「はい」
「明日からしばらく出るんだろ」
「はい」
「気をつけてな。ゆっくりして来い」
「ありがとうございます」
「今日はもういいぞ」
「失礼します」
頭を下げ、廊下に出ると満和さんが「明日北山さん、いないんですか」と訪ねている声。有澤さんは「大切な休みだ」と答えていた。
翌朝、自分の車を動かし早めに家を出て、高速道路を快適に走ることしばらく。山が多かった景色がビルになり、海になり、また山へ。
途中休憩を挟みつつ走って、見慣れた出口で下り、山際の道を辿る。その半ば、道端にぽつんとある和菓子屋。駐車場に車を停めて引き戸を開ける。通い始めてしばらく経ったので、店のお姉さんが俺を見て微笑んだ。
「お久しぶりです北山さん。あんドーナツですね」
「お久しぶりです。お願いします」
「できてますから、すぐ詰めますね」
ガラスケースなどはなく、お菓子はすべて予約制。取りに来る時間に合わせて作ってくれる。
茶色く丸い鈴のようなかたちで、中にあんこが入っていて揚げてある。更に粉砂糖。とてもおいしいドーナツは多くのファンがいるようだ。
少しして裏から戻ってきた。箱は丁寧に袋に収められ、お金を払いながら二言三言会話をかわして店を出た。
山道を登る。
必ず四駆の車を買うのはこういうわけで。逢瀬を楽しむための必須アイテムである。これを登りきると山上にお城があり、いちばん景色がいいところで大切なお相手が待っている。だが、果たして待っているのは俺か、あんドーナツか。
山頂に広がるのは、一見すると瀟洒な別荘群。その一件一件が独立した施設だ。専用のヘルパー、療法士、栄養士、調理師、心理士もいて安定した生活が送れる。外出も自由、外泊も。
一件の隣に車を停め、楽なスロープをするする歩いて洋風のドア横のチャイムを鳴らす。リンリン、鈴に似た音。
「はーい」
ドアを開けて顔を見せたのは、すっかり馴染みのヘルパーさん。年齢を聞いたことはないが同い年ほどの男性だ。すっきり短い黒髪、がっちりした身体。昔はラグビーをしていたらしい。爽やかに笑って中に入れてくれる。
玄関からすぐが広いリビング、右手にキッチン真ん中にダイニングテーブル、左手はテレビや本棚、いろいろ。目当ての人物の姿はない。
「あ、これいつものです」
「ありがとうございます。北山さんが買ってきてくれたときしか食べないんですよねー」
「昔から少し変わってるので……困ったりしてませんか」
「とってもいい人ですから。さっきまで北山さんを待っていたんですけど、眠くなったらしくて寝室に行きましたよ。お邪魔しませんからごゆっくり」
白い歯を見せて笑う彼に肩をすくめ、テレビの脇にあるスライド式のドアを開ける。景色の良い大きな窓の脇に備え付けられたベッド。頭のほうが僅かに起こされているので、寝顔がよく見えた。
ベッドの脇には濃い紫の電動車いす。愛用品だ。
眠り姫は黒く艶やかなショートカットの髪、色が白く、唇だけが鮮やかに赤い。長い睫毛はふわりとした頬に影を落とすほど。
ベッドに腰掛けても目を覚ます気配はない。頬に触れると昔と変わらず柔らかだ。前髪を払うと、ちょうど生え際真ん中あたりから毛の中へ伸びる縫合痕。今は豊かに髪があるのでわかりにくいが、かなりの範囲にそんな痕がある。頭部に深刻なダメージを受けた形跡。
思い出したくもない記憶。
あの日、たまたまあの道を通らなければ。
あそこにいなければ。
あの道に悪魔がいると知っていたら。
なんの非もなかった。いっそあったほうがここまでの気持ちを抱えなかっただろう。殺されたほうが楽だったと思ったことも何度もある。
記憶の魔の手を振り切れたことはない。いくら時間が経っても、消えない。
「……波積」
はづみ、と、何度か小さく名前を呼び、額へ口付ける。すると睫毛がひくんと動き、ゆっくり目が開いた。その様子はさながら花が開くようで昔からとても好きだ。変わらない柔らかさの美しい瞳が俺を見上げる。
「……まほさん」
俺を見て微笑み、ゆっくり腕を持ち上げた。抱きしめられ、頬に唇が触れる。
「まほさんだ……」
「久しぶりだな。また若返ったみたいに見えるが?」
「まほさんは老け、ましたね」
美少年のような顔を笑みでいっぱいにして、首のあたりへ額を擦り付けてくる。ベッドと背中の間へ腕を通して抱きしめると、寝ていたせいかとても温かかった。
「昨日の夜から……まほさんが来てくれるの待ってました……待ってたから、眠れなくて」
「可愛いな」
その顔はやはり満和さんと重なる。こんな風ににこにこする顔は見たことないが、もし笑えばこんな感じに違いない。
「はづ、どうだ、調子は」
「まあまあ……です。相変わらず忘れっぽいけど……」
目が覚めているのかいないのか、いつも変わらないやわやわぷかぷかした口調。おっとりのんびりしている、とでも言ったらいいのか。
「まあまあならいい」
「なんでも忘れちゃうんですけど……まほさんのことは忘れないですよ」
「……そうか。ありがとな」
唇を重ね、起きると言う波積の頭の横にあるリモコンで頭側へ更に角度をつけてやる。腕の力で身体を持ち上げ座り直し、俺の手を握って嬉しそうな顔。
俺も今、同じような表情でいるに違いない。思えば気味が悪いからなるべく考えないようにした。
「まほさん、浮気……しました?」
「なんでだ。はづがいるのにするわけねぇだろ」
「もてるから心配……」
「暇も興味もねぇよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
「よかった」
ぎゅっと握った手の甲を頬へ当てる。波積が何をしても可愛らしく見える。有澤さんや鬼島さんが満和さんやナツさんを見るとき、きっとこんな思いなのだろう。
「眠いなら寝てもいいぞ。あと四日ある」
「うん……」
「その代わり目が覚めたら、相手しろよ」
「うん」
とろとろ、再び目を閉じた。
眠気も記憶障害も、すべてあの日の後遺症だ。けれど幸か不幸かあの日のことも覚えてはいないらしい。苦しむのは俺だけで構わないからこのまま忘れていてほしい。
手を持ち上げ口づけて、繋いだまま寝顔を眺める。これさえ飽きない。
俺のことは忘れない、というのは本当らしく、診察のたびに電話をくれる担当医師も興味深そうに口にする。
目が覚めたらちょうど昼の時間になるだろう。箸を使ったりものを食べたり識別したりがかなり上手にできるようになって、本人も食に楽しみを覚えるようになった。吐き戻しも減った。
癇癪を起こして箸を投げたり泣き出したりなんてしょっちゅうだった。歩行も、行動も、発声も、最初の頃は本当に大変だったことを思い出す。嫌がって泣いて、思うように動かなくて泣いて怒って、ヘルパーさんだったり俺だったりに当たり散らした。
記憶が混乱して誰だかわからなくなって、俺がいるのに「まほさんに会う、なんで来てくれないの」と泣いたりもした。目の前にいるのに認識してもらえないのは実に辛かった。
今は比較的平和だ。
本人が猛烈に努力した結果。
天気がいいから外を少し歩くのもいい。きちんと整備された遊歩道や公園が敷地内にあり、この施設の利用者がよく散歩している。車いすを押されると一緒に歩けない、と唇を尖らせるが、俺は結構好きだ。
この家の中では手すりを伝ってよく歩けるようになったが、杖だけではまだ心もとないらしい。まほさんと一緒にあるけるようにがんばる、と励んでいるようで、愛しくてたまらない。
何をするか考えていたら、こんこん、とノックの音。返事をすると幅広のドアがゆっくり動いた。
「お邪魔しないって言ったのにすみませーん……」
ドアをスライドさせ、僅かに隙間を作ってそこから顔を見せたヘルパーさん。
「あ、また睡眠中ですか」
「です。昨日の夜眠れなかったらしくて、電池切れ」
「今日、調子良さそうなんで肉食べられるかなって」
「あー」
「でもそんなに何度も寝るなら危ないかもですね」
「チャレンジで」
「北山さんもいますしね」
「役に立たないですけど」
「何言ってんですか。学校通って資格とったプロのくせにー」
「錆びてますよ」
「お昼、北山さんの分もきっちり用意しますからお楽しみにです」
「いつも期待してます。うまいから」
「伝えときます。北山さんファンなんで喜びますよ、調理師さん」
静かにドアが閉まる。優しい人たちに囲まれて安心だ。良い施設を探し続けたかいがあった。
「いつか、一緒に暮らそうな」
海でも山でも、お互いがいればいいって。
そう言ったことも覚えてるのかいないのか。
例え忘れていてもきっと波積は同じ事を言ってくれるはずだ。一度俺を忘れて、でももう一度好きになってくれた波積だから。そして思い出してくれた。それからは二度と忘れない。
「愛してる」
この言葉はきちんとこの小さな身体の中に染み込んでいるだろう。