「海の近くと山の近く、住むならどっちがいい?」
「どっちでもいいですよ、まほさんがいるなら」
「俺がいるなら……そうだなぁ、どこだろうな。俺もお前がいればいいよ」

 そんな話をしながら、豊かな黒髪を梳かして茶色のゴムでひとつに括ってやった。小さく、可愛く、しなやかで強い印象を持たせる恋人。男と付き合うとは考えたことも無かったが、思考の一部に交えてみると拒否する要素もなかったので受け入れた。
 一緒にいて居心地がいいというか、座りがいい。隣が居場所なのだと自然に思う。
 後ろから抱きしめてやると、嬉しそうに笑う。
 どんな場所でも、一緒にいられたらきっとどこだっていいんだろう。
 そして当たり前に、一緒にいられるのだと思っていた。

 あの悪魔に、偶然出会ってしまうまでは。

「やめろ! そいつに手ぇ出すな!」

 俺が何をしたわけでもない。
 ただ、いつもと違う道を通って、悪魔に出会った。

「そう言われてもねえ。かわいい子が好きなんだよね。かわいい子も苦しむ顔も好き。どっちも味わえるってなかなかないからね」

 暴力とは無縁の恋人が、目の前で、為す術も無く蹂躙されていく。足も腕も動かない俺はただその姿を見ているだけしかできなかった。涙も出ない。目を逸らすことさえも。
 きれいな髪が地面に散り、真っ白で美しい肌が傷つけられていく。内も外も血を流している。

 俺は初めて、人が壊れる瞬間を見た。大切なたいせつな人で、その瞬間を。





「……北山さん?」
「あ、すみません。……手当てしましょうね」
「お願いします」

 満和さんが美術の夏休みの課題で作らなければならないものがある、と言ったので、その様子を見守っていた。線を引いてカッターを当てて、手が滑って、刃で指を切ってしまった。
 真っ白な指にぷくりと咲いた赤い血。満和さんはとても似ているから、あの日が戻ってきたかのようで眩暈がした。消毒液と絆創膏を持ってきますと言ってティッシュを渡し、廊下に出る。壁に手をついて、息を整えた。
 過ぎ去ったこと。
 その言葉に意味がないのは良く知っている。けれどそう呟かなければ、頭がおかしくなりそうだ。

「どうかされましたか、大丈夫ですか」
「静かにしろ。何でもねぇから」

 声をかけてきた若いのの手に、封筒を見つけた。和紙のような質感の、薄い紫がかった見慣れた封筒。

「あ、これ、わか……北山さんに、お手紙です」
「部屋に置いとけ」
「はい」
「ついでに棚の黒い箱持って来てくれ」
「わかりました。……本当に、大丈夫ですか」
「誰にも言うなよ。俺がふらふらしてたなんて、格好悪いだろ?」

 そうすね、と笑った若いのは、部屋に向かった。息を吐いて、立つ。

「……具合、悪いですか」
「満和さん、すみません。なんでもないですよ」
「ぼく、いつも誰かに手当てしてもらっているので、看病とか、結構得意なんです。だから、体調悪いときは、あの」

 無理しないでください。ぼくが面倒見ます。
 一生懸命そんなことを言うものだから、可愛らしさに頬が緩む。そしてやっぱりその姿が重なって見えた。

「ありがとうございます。満和さんはいい子ですね」

 頭を撫でて褒めてあげると嬉しそうに笑った。

「高牧くん、どうしたんだ。こんな廊下で」
「お帰りなさい、有澤さん」
「その指はどうした」
「今切っちゃったんです。でも平気です」
「……そうか。あんまり深くなさそうだな」
「今、手当てします」
「俺がやる」
「わかりました。今、持ってきますので」

 若いのが、ちょうど箱を持って戻って来た。それを受け取り、居間のテーブルに。満和さんはこちらをちらちら見ていて俺は、大丈夫です、と言う代わりに微笑んだ。

 傷が覆われたのを見届けて部屋に戻り、封筒を開ける。
 そこには、整然とした字が並んでいた。こうしてきちんと字が書けるまでに長い年月を費やしたことを、保存してある今までの手紙が語っている。
 封筒と同じ薄紫のやわらかな便箋、様々なことが書いてあった。生活について、最近読んだ本について、食べたものについて、リハビリの過程、新しく担当になった訓練士について――。
 最後には「あなたにもあなたの子どもたちにも会いたいけれど、まだ早いから我慢します」と書いてある。少し遠いがいつだって会いに行くのに。だが向こうが会いたくないと言うのなら仕方が無い。焦らせることもない。

 傍らに置いて、引き出しから新しい便箋を取り出した。雪に霞む家々の墨絵がある、今の時期に相応しいであろう便箋。緑のインクを詰めた万年筆のキャップを開けて、ゆっくり文字を書き出した。
 あの事件以来、趣味はすっかり手紙になった。
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