ロマンスに望め(鋼)
「用意は出来た」
がらんどうの空き家で男は呟く。
大して広くもないその部屋はあちこちに埃が降り積もっていて、隅には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされている。
男は片手に燭台を握っていたが、ロウはもうほとんど溶けてしまっていて、今にも消えてしまいそうなほどか弱い炎が灯るのみである。部屋の四隅に立てられた数本の蝋燭もそれとあまり変わりがなく、部屋は辛うじて薄暗さを保っているだけだった。
男には悲願があった。それを達成すべく、彼はここにいる。
「これ以上ない、完璧な理論だ……」
しみじみとした面持ちで、自らの組み立てたロジックに思いを馳せる。
たった一つの目的のために、何もかもを犠牲にしてきた。だが、それもこれも全てが報われるのだ。男は感動に打ち震えながら、顔の皮膚を細かに痙攣させた。
複雑な錬成の陣が床一面に書き込まれ、中心にはタライが置いてある。そこには水と何種類もの何らかの物質が入れられており、来たるべきその時を座して待っていた。
「為し得ない筈がない。遂行できない訳がない」
男は手のひらにナイフを滑らせて、タライに血を垂らす。
よほど深く切ってしまったのか、彼の心拍に合わせてぼどりぼどりと大きな粒がタライに吸い込まれていったが、痛みはない。極度の緊張と興奮のためか、男は脳に響く甘い痺れだけを感じとった。
「私が君ともう一度出逢うために……今度こそ最後まで添い遂げるために!」
男は錬成陣に両手のひらを置く。頭の中でも陣を描きながら、最愛の存在を思い浮かべた。
もうすぐ、逢えるのだ。
そう考えるだけで今までの苦労が全て、愛する者との睦言のような、幸せな時間であったかのようにすら思えた。
まずは抱きしめよう。そして引き裂かれていた間の話をしよう。自分がどれだけ努力をしたか。どれだけ財を投げうって、どれだけ研究を重ねたか。どれだけ自分たちが愛し合っているか。語らおう。夜が明けても、日が落ちても、いつまでも。笑うために。幸せになるために。
「必ず成功させてみせるッーー!」
その決意の言葉とともに、ほとばしる練成反応。
「お、おおっ……っ!?」
タライの中身が盛り上がり始める。
男は感嘆の声を上げた……が、それはすぐに異変を悟った声色に変わる。
錬成反応の色が、次第に不穏な空気を纏いだしたのだ。
「待て、なんだこれは……!?おい!待ってくれ!!」
気付けば、自らの手足が分解され始めていた。螺旋を描くように、体がパラリとほどけていく。
どんどんどんどん、消えていく。
男は必死にあがいたが、逃げようにも、実体のわからない黒いものが体に貼り付いて、体を何処かに引きずり込もうとしてくるので、どうにもならなかった。
禁忌とは何か。なぜ禁忌とされたのか。人体錬成を成功させられない人間が妬んだせいだろうと思ってきたが、それは間違いであったのだと思い知らされる。どこで構築式を誤ったのかと自問したが、完璧なはずの錬成陣に欠陥があるとはどうしても思えなかった。
「構築式……ッ! 錬成、錬成は!?」
ハッとして、錬成陣の中心がある方に目を向ける。せめて、錬成だけでも成功してくれていれば……そんなすがるような気持ちだった。
しかし、そこに横たわっていたのは、似ても似つかぬーー
「だ、誰だ、あああ!こんな、こんな筈では……アアッ、やめ、やめてくれ!!!嫌だ、嫌だァァアアアッ!!」
錬成反応の青い光と数多の漆黒の手は、男と彼の悲痛な叫びとともに、暗闇に吸い込まれてかき消えた。
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