02
丸い氷が入ったグラスをコナンの口元に近づければ、よほど喉が渇いていたのか、流し込むように喉を潤し始めた。無理もない。時折ピナコたちが口を潤させてはいたが、そんなものは微々たる水分でしかなかったのだ。
未発達の喉が何度も何度もひくつき、孫娘お手製の経口補水液はすぐに飲み干された。まだ飲むかい?とピナコが尋ねるが、コナンは首を振って断った。
「僕……思い出せないんだ。わかるのは名前だけで……あとは何もーー」
ややあって、コナンはそう切り出した。途方にくれた顔つきで、コップを所在なく何度も持ち替えている。どうやら彼は記憶を失っているらしかった。
「……高熱で記憶がブッ飛んじまったのかねえ」
ピナコは腕を組み、口をキュッと結んでコナンを観察する。まあ、ない話ではない。
彼女は外科専門なのでそのような分野はからっきしではあるが、長生きをしていれば記憶を失った患者を見たことくらいある。明確な原因や治療法はなく、記憶が戻るかどうかも不確かな病だ。
見たところ、この近くの子どもではない。ここら一帯の人間とは顔見知りである自信があるピナコだが、彼を見たことはない。
それどころか、アメストリス生まれなのかすら怪しい外見だ。どちらかと言うとシンの辺りの人間の方がずっと近い容貌をしているだろう。
家族とこちらの国に来たはいいが、生きることもままならずに、止むを得ず畑に捨てられてしまったのだろうか。そんな哀れな境遇に身を置いているのかもしれないと、想像が働く。
(いいや、……)
しかし、この予想は違うということにピナコは気付く。彼女が思い浮かべるような身の上にしては、彼はいい洋服を着込みすぎていたからだ。
何処かの正装だろうか。カッターシャツの上から羽織っていた上着は、型は違えどアメストリスの軍服と似たような色をしていた。生地はそこら変の安物よりもずっと上質な繊維で作られており、その上蝶のような形をした装飾までしていたのだ。
とても貧しい出で立ちとは言い難かった。けれども、名家の出だとも思えない。彼の使うアメストリス語は流暢ではあるが、聞いたことのない癖がついているのだ。
(こりゃ、厄介な拾いモンしちまったかねえ)
しわがれた指で煙管に刻みたばこを乗せ、火をつける。んぱ、と少しずつ肺に入れていく様子は非常に様になっていた。
「ま、しばらくウチにいたらいいさ」
医者であるピナコにも、記憶喪失である人間の先のことはわからない。いつ記憶を取り戻してもおかしくないからだ。それに、記憶喪失については医学的にもまだまだわからないことだらけで、アメストリス国内の医療では、治療法の糸口さえ見つかっていないのである。
「あの、おばあさんは」
「私かい?ピナコだよ」
「ピナコおばあさん。ーーは、僕を助けてくれたの?」
「ああそうさ、近くの畑で熱だしてぶっ倒れてたんだよ」
「そうなんだ……ええと、ありがとう」
「おや、随分落ち着いてるんだね」
「わからないことだらけすぎて、逆に冷静になっちゃって」
幼い少年とは思えないほど、大人びた顔で笑うコナン。ピナコはその寂しそうな表情に、彼の孤独を強く感じとった。
「今日はしっかり眠るといいさ。明日からアンタにもしっかり働いてもらうよ」
ピナコはコナンの頭をぐしゃりと撫でた。
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