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「やっぱり、おいしいですね。この前はちゃんと味わえなかったんですけど、ゆっくり飲んでると甘みを感じます」
まりはミルクもなにも入れていない淹れたてのコーヒーを一口飲んで、ほうと息をついた。鼻に抜ける香りと、口全体にじんわりと広がる苦みがひどく心地よかった。
「わかります?」
「はい、苦さの中にほんのり。あたしこのブレンド、すごく好きです。えっと……ケ……そう、ケニア豆のブレンドですよね?」
「ええ、そうです。これ僕が調合したんですけど、よろしかったら帰りに差し上げます。あまり多くはないんですが、六杯から八杯くらいは楽しめるはずです」
冷蔵庫からてのひらサイズの瓶を持ってくる光彦。蓋が木製で、洒落ている。これはキャニスターというコーヒー豆の保存容器で、その入れ物はしっかりと自身の役目を果たしている。ぎっしりと詰まった豆を見て、まりは目を丸くして喜んだ。
「いいんですか?」
「もちろんです。ほとんど僕が招待しているようなものですから。家にミルはありますか?」
「ええっと、確かあります。電動のやつが」
(新一さんが持ち込んだやつがあるはず)
自分で豆を挽いて飲むなんてことをしたのは快斗が訪れたときだけで、しかも片手で数えられる程度だ。だが、操作はとても簡単なので心配ないだろう。
「じゃあ、大丈夫ですね。」
キャニスターを冷蔵庫に戻して、食器を乾いたタオルで拭き始める光彦。
「そういえばまりさんは普段、何をされてるんですか?」
コーヒーセットのケーキにミルクレープをつけてもらったまりは、その美味しさに舌鼓を打っていたのだが、さりげなく出されたその話題に、思わず咀嚼していた顎の動きが止まる。
(……なんて答えよう)
学生と言っても構わないかもしれない。だが、それは"だった"だけの話だ。
「そうですねえ、あたし、会計士か税理士になりたくて。とりあえず、基本だけは学んだので、今は独学でやってるんです」
(大学に戻った時に必要以上に苦労しない程度の勉強しか出来ていないけど……まあ、嘘は言ってないもん)
堂々と大学生だと言えないことに対して内心苦笑いをしながら、まりは平然と答えた。彼女ははっきりとした嘘をつくことは苦手だが、ごまかすことはうまかった。
「光彦さんは、ここで働いてるんですか? あ、もしかして店長さんだったりして」
ここの店員は、未だ光彦しか見ていない。もしかするとここは彼のお店なのかもしれないと言う想像が頭をよぎる。まさかとも思っておどけて聞いてみると、光彦ははにかみながら首を振った。
「ただのアルバイトですよ。けど結構長いこと続けてるので、たまに任されることもあるんです」
「へえ、そうなんですね。そしたら……学生さんですか?」
「いえ。学生でもなくて……ちょっと、大学院に入るための準備期間と言いますか。
僕、一度は教師を目指してたんですけど……卒業間際になって弁護士に進路変更したんです。大学に入り直すよりも法科大学院に行った方がいいかと思って。
卒業してからは適性試験の勉強をしながら、ここのアルバイトで少しづつお金を貯めてるんです」
「弁護士に? わ、すごく思い切ったんですね」
「ええ、心から憧れる弁護士さんができたんです。絶対にあの人みたいになるぞって。目標は高いですけど、頑張るって決めたんです」
まりは思っても見なかった回答に、目をぱちくりさせた。人生は何が起きるか分からない。恐らく、とても大きな転機が光彦に訪れたのだろう。それがいいことか悪いことか分かりはしないが、光彦はその転機をチャンスとして捉えたようだった。
きらきらと目を輝かせる光彦を、明るい未来を見据える彼を、まりは心から応援したくなった。
「あたし、応援します。ほんと」
(……羨ましい)
笑みを深くして、少しだけうつむく。
「ええ、ありがとうございます……って、え、ええっ、まりさん!?」
「えっ、どうかしたんですか?」
「だ、だって……ええと、ええと」
なぜか動揺する光彦は、危うい手つきで手にしていた皿を置き、まりの側からは見えない引き出しを開け閉めし始めた。そして、綺麗に折り畳まれたナプキンを取り出し、まりに差し出した。
「あの、これで……その涙を受け止めてください」
「涙?……あれ、ほんとだ。おかしいな……」
いくら目に力を入れても、溢れ出るものは止まらない。
(あたし、泣いてばっかだなあ)
この世界に来てから何度目かもわからない涙をこぼしながら、まりは自身と光彦を重ね合わせる。ついこの前まで学生だった自分たち。無事卒業できた点と突然行くことができなくなった点は異なるけれど、「なりたい職業の足がかりにするための勉強をしている」という点ではどちらも同じだ。けれど、孕んでいるモチベーションにはひどく大きな差があった。
(……たぶん、悔しかったんだ)
まっすぐに努力できていない自分を見てしまったことに。まっすぐに夢を語る光彦が、ただただ眩しかったことに。
そして、気づいてしまったのだ。一寸先は汚泥かもしれない境遇の中で、自身が荒み始めているということに。
目標に向けて努力することの気高さを、見失っていたものの尊さを、ここに来て、まりは思い知らされた。
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