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「あ、これ」

 まりが手にするのは、半分に折られた紙。手帳に挟んでおいたことを今の今まですっかり忘れられてしまっていた、悲しき手紙だ。これは、空宿に迷い込んだその日に喫茶店の青年に貰った連絡先である。携帯を手に入れたらと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。

「どーしよ……見なかったことにするか、メールだけでも入れるか……」

 何ヶ月も前のことなのでもう顔すら思い出せない。だが、入れてもらったコーヒーの味はよく覚えている。あれはまり好みのコーヒーだった。お代わりをする度にさりげなくどんな味がいいのか聞いて来るものだから、最後の方なんて完璧にまりのためのコーヒーへと仕上がっていた。

 それを思い出して、まりはきちんと連絡を入れることにした。悲しいことに未だ友達の一人も出来ていないので、これを機に、という衝動が芽生えたせいでもある。

「よし。ええっと、m.tsuburaya@……
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 ん、できた」

宛先:光彦さん
件名:こんにちは▽・x・▽
本文:この前連絡先を貰ったまりっていいます!覚えてますか?
連絡が遅くなってしまって本当にごめんなさい(;_;)
また光彦さんのコーヒーが飲みたいので、お仕事がある日を教えていただけませんか?
お返事待ってます♪


 送信ボタンを押して、色良い返事が来ることを祈った。

「さて、仕事仕事……」

 そろそろ準備を始めなければと顔面に貼り付けていたパックを剥がし、歯ブラシと口をゆすいで寝間着を洗濯機に放り込む。
 まりが選んだのはブロックスストライプのカッターシャツと、特徴的なプリーツのスカート。普段着と仕事着はしっかり分けており、自分を武装するという意味も込めて気持ち露出が高い。
 化粧を施して、一度も染めたことのない艶やかな髪を丁寧に巻き上げ、飾りのついたゴムでまとめて、気に入ったアクセサリを取り付けたパンプスを履く。
 営業用の笑みを浮かべて玄関に取り付けられた全身鏡を覗けば、そこにはレイカが映っていた。完璧だと笑みを深くして、鞄を持ち上げる。中には緊急時の服と化粧品、アイロンとアニメティセットが入っているので、それなりの量だ。

「いってきまあす」

 わざと声のトーンを上げて、何ヶ月経っても慣れない出勤前の憂鬱さを押し殺し、約束の場所へ向かった。

 ・

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 ・

 深夜0時。

「ただいま……」

 まりは疲れた様子で自宅の扉を開く。そしてさっさと全裸になって洗濯機に全てを投げ込み、タンスに入れた下着と寝間着を引っ掴みに寝室へと向かった。

「あーっもう!むかつくむかつく!むかつく!」

 下の住人にも聞こえそうなほど大きな足音を立てるまり。彼女の怒りがありありと見て取れた。

「普通に生活しろよだって!?それが出来たら私だって苦労してないわ!親御さんが泣いてるよって!?知ってるよ!」

 本日最後の客が嫌味や自尊心という言葉を鍋で煮詰めたような性格の男で、終始自分の自慢とまりをこき下ろすばかりの話を笑顔で聞かねばならなかったので、まりの気分は最低最悪だった。出禁の制度があまりしっかりしていないので、もしかしたらまた遭遇するかもしれないと思い、更に気分が下がる。

「〜〜っ!」

 頭を冷やすために、冷たい水を頭からかぶる。反射的に身体が跳ねて全身が総毛立つのもお構いなしに、芯まで冷えるのをじっと待つ。

「……さ、さむ」

 そしてやっと落ち着いた頃にはもう、奥歯が噛み合わなくなってしまっていた。急いで温度を上げて、ようやく一息つく。

(こんなに頭きたの久々だわ……でも、もうちょっと理性的にならないとなあ)

 怒りに任せてものに八つ当たりするような年でもないだろうにと、荒々しく服を扱ってしまったことを反省した。
 防水のスピーカーでお気に入りの音楽を聴きながら、全身をくまなく洗う。
 毎日複数回入浴せざるを得ないので、髪や肌を痛めてしまわないように低刺激・高保湿のバス用品を使っている。

「あ、そういえば」

 まりの好きな香りが辺りを覆ったところで、ようやくメールのことを思い出した。
 客からのラブコールに混じって光彦から返事があったことにはとっくに気づいていたが、全て終わらせてからではないと読むことすら憚られたので、まだ開いていない。
 どんな返信をくれたのかとわくわくする気持ちが湧き上がり、何時もよりも少し短い時間で風呂を上がることができた。


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