それでも好きです

「え、えっと……」

ベッドの横で、書くように頼まれていたカルテに取り掛かる。辺りは暗く、手元に置いたオイルランプだけが頼りだ。文字を書くには十分でも、辺りを見渡すには少々頼りない。そんな程度の明るさのランプは、長年この机で使われてきたのか、随分と年季の入ったものであった。


患者名 アレン・ウォーカー 16歳 男性
入院時診断名 1)右腕橈骨骨幹部骨折 (うわんとうこつこっかんぶこっせつ) 2)発熱 3)脱水症状 4)腹部裂傷創 5)左後下腿挫滅傷(ひだりこうかたいざめつしょう)
入院目的 治療 手術


カリカリ、カリカリ。と、紙に引っかかる万年筆特有の音だけが周囲に響き渡って、なんだか薄気味悪い。手を止めて溜息を吐くと、夜の静けさが沁みるようだった。

「う、うう……」

時折うなされている声が背後から聞こえる。今すぐにでも駆け寄りたいという思いが湧き上がるのをぐっと堪えて、カルテに向かう。さっきまでずっと側に居たので、事務仕事が溜まってきているのだ。小康状態に落ち着いているのだから、と私は自分をなだめすかして手を動かす。

今日は珍しいほど患者が少なく、カルテに載った人物だけが入院している。それゆえ、いつもならうるさいくらいに聞こえてくる寝息もない。慣れない静寂に気を取られて私が肩をさすりながら後ろを振り向くと、あまり穏やかとはいえない顔で眠りにつくウォーカーさんの横顔が見えた。

「っ」

ああ、ウォーカーさんは夢の中で一体何に脅かされているのだろう。体の内側の胃や心臓のあたりが、やたらめったらに私の胸を叩いて囃し立てる。

彼は先日街中で発生したAKUMAとの戦闘で人を庇って、不運にも腕を折ってしまい、その上腹部の裂傷から菌に入り込まれ、意識が朦朧とするほどの高熱に苛まれているのだ。
不運が重なり合って運ばれてくるのが遅く、治療が遅くなってしまったがゆえにここまで悪化してしまった。

心配で心配でたまらなかった。ただの看護師見習いに何ができるのかと思っていたけれど、偶然当直として一晩中様子を伺うことを任されて、舞い上がらなかったと言えば嘘になる。一瞬でも長く側に居たいとも思う。
けれどこんな形で叶うのは本意ではないので、私は高揚した気分を押さえつけて、自らをいさめた。

「ああ、だめ、だめだ私。ウォーカーさんの様子を伺ってないと、何も手につかない」

とうとう堪えきれなくなって、机の横に積み上げていた書類と部屋の隅に倒れていた木製の丸椅子を拾い上げ、ベッドの横に置き、座る。

机を移動させるわけにもいかなかったので、やろうとしていたことの順番を少々入れ替えることにする。

あまり脚の高くない椅子なので、足が組みやすい。上に来た太ももを机代わりにしながら、ウォーカーさんの姿を視界に入れつつ、書類を眺め始めた。
私が読んでいるのは、ウォーカーさんが以前入院した時のものだ。記録を読み比べたり、調べたりしながらでないとカルテ一枚も書ききることもできない下っ端中の下っ端なので、調べつつ調べつつ進めていたのだけれど、まとめて調べて、あとで一気に書き上げてしまうことにした。せめて一度目を覚ますまでは、こうして様子を伺っていよう。

頭の中で作成途中のカルテに何を書き込むべきか、後で何を調べるべきかを組み立てながら、時折ウォーカーさんの額から滲み出る脂汗を拭った。

するとウォーカーさんは、女性の名前をうわ言のように口に出し始めた。
絞り出すような声。何かを乞うような、望むような、懇願するような。そんな必死な声色で、その人を呼ぶ。
あんまりにも必死そうだったものだから、戯れになあに、と呟き返してしまった。

「あ、なたが、すきです…好き、なんです……う、あ……」

「……」

心臓に長い釘を打ち込まれたような衝撃を食らって、胸からお腹にかけて沸騰したように痛む。頭の中が白くなって、目眩すらも覚えた。

返事なんか、するんじゃなかった。
ひどく後悔した。

「どうしてだろう」

自分でも聞こえない位の大きさで呟く。
苦しくって切なくって、既につけられていた傷を抉られるような痛みが走る。
この人にこんなことを言わせられる女が私じゃあないことが、恋慕されるあの方が、こんなにも、どうしようもなく、妬ましかった。
嫉妬に狂えるほど理性を放棄しているわけではない。けれど、腹に渦巻くそれは、間違いなく醜い感情だった。

ねえ、どうしてなの。どうして。
どうして私は見ていることしかできないの。
どうして私は想うことを止められないの。
そう思わざるを得なかった。

私はこの人が、アレン・ウォーカーさんが、好きだ。
私が彼について知っていることといえば、ほとんどがカルテから入ってくる情報だけ。
名前はアレン・ウォーカー。15歳の男性、174cmで56kg、血液型はO型、国籍は大英帝国。アレルギーはなく、左眼がAKUMAの呪いに侵されており、左腕に寄生型のイノセンスを所持している。そのため大食漢で、見た目からは想像がつかないほどの食料を摂取する。
たったこれっぽっちだ。
あとは仕事上交わした会話から、とても紳士的な男性だということとか、笑顔が素敵な方だとかくらいしか知らない。
私はウォーカーさんがどんな人なのかを知ることができるような立場にも、それを無闇矢鱈に語ることができるような立場にもないのだ。
だけど、心の底から大好きだ。理由なんて後付けにすぎない。

初めて見た時から、私はウォーカーさんにずっと惹かれていた。
私の心全てが、この人自身を求めてやまなかった。

私の気持ちに気付いた同僚に何も知らないのに好きだなんておかしいと言われたこともあったけれど、彼らは尊い使命のために自らの命を投げ打っているのだ。理由なんてそれがあれば十分すぎるほどだった。

唇を噛み締めながら、再び顔を拭く。今度はただの布ではなく、冷たい水で固く絞ったタオル。冷たさが心地いいのか、厳しい顔つきが少しゆるまって、目蓋がぴくりぴくりと痙攣し始めた。

「っ、う………」

と唸るウォーカーさん。あっと思った時には長い睫毛が揺れて、灰がかった銀の瞳と視線が重なり合っていた。

「!」

突然のことに体が跳ねて、心臓が走り始めた。
目が、目が合った。ウォーカーさんと、目が合った。

「あれ、ここ、は…」

私の緊張をよそに、視線を彷徨わせ始めるウォーカーさん。

「お、おはようございます、ウォーカーさん。こ、こは、教団の医務室ですよ」

声が上ずらないように努めながら、冷静になろうなろうと考える。顔色の変化しないタイプでよかった。もし赤面しやすかったら、今頃私は耳まで真っ赤に染まっていたことだろう。

「……おはようございま、あす……あ、そっか僕……たおれて……」

なにがあったのか思い出したらしく、ウォーカーさんは擦れた声と舌足らずな口調でそう漏らした。

「ええ、でもしばらく安静にしていればーー」

と、つとめて看護士らしく振舞おうと口を開いた時、廊下を走る音が聞こえたかと思うと、扉が勢い良く開いて意識が逸れたため、続きを紡ぐことは叶わなかった。

廊下の薄暗い明かりが黒い姿を背後から照らす。顔は見えないが、その特徴的な格好だけで、誰であるかということはすぐにわかった。

ああ、もう来てしまった。

心臓のあたりが冷えて、手先が痺れた感覚に陥る。

「アレン君!」

無意識に一歩、ウォーカーさんのそばから後退してしまう。

もう、終わりなのか。私の出番は。

ウォーカーさんの顔はもう私を見てはいない。
彼は足音が反響し出した時から既に、扉に釘付けだった。
あわてて入ってくる少女の団服はあちこちが擦り切れていて、露出されたカモシカのように美しい脚には数箇所包帯が巻かれている。
こんな夜更けに飛び込んできたのは、恐らく今まで仕事だったからなのだろう。


「心配、したの…!」

「すみません、油断してしまって……」

ベッドに横たわるウォーカーさんに視線を合わせるために、聖職者にのみ許される黒を纏った少女は、膝を折る。

「ほんとによか、った」

「え、わっ、僕は大丈夫ですから、そんな、泣かないでください」

途端ほっとしたように声が潤み始めた様子を見て、ウォーカーさんは目覚めたての身体をよじって顔を寄せて、彼女に労わりの言葉をかける。

神の命を受けたエクソシスト様二人が私の目の前で、睦言を交わすように囁きあっているのだから、それが私の目には、絵画のようにすら思えた。

けれど美しいはずのその光景を私はどうしても見ていられなくて、こっそりとベッドの横を抜けて、扉の向こうへ駆け出してしまった。

「っは、は、……はあ」

廊下を早足で通り過ぎて、角を曲がったところで、地面に膝をつき、ため息を吐いた。

いずれは諦めなければならない想いなのだと、分かってはいる。
分かってはいるのだ。

けれど、心が着いていかない。

どうしたら諦められるのか、検討もつかない。

いつも思っているのだ。
神の使徒とされる方に愛されたいと思うなんて、なんと身分不相応な願いなのだろうと。

「う、うっ」

けれどはやるこの心臓は駆け出したままで、元に戻ってはくれない。

溢れそうなこの気持ちを律するための努力はできても、私の心は奪われたままで、いつまで経っても帰ってきてくれない。

「っふ、」

どうしたら。
どうしたら、いいのだろう。

「う、ううっ……」

ああ、そういえば。

今私は仕事を投げ出してしまっているのだ。
看護士見習いとして、あってはならないことだ。

「っひく、あ、っぅく」

バレれば、仕事を失ってしまうかもしれない。
それはいけない。
とてもいけない。

「あ、ああああっ」

検診のために、早くドクターを起こしに行かなければ。

今すぐこの涙を止めて、私の仕事に戻らなければ。


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