ヒーロー本編 | ナノ

きみをおいかけどこまでも。

 現実と幻想の狭間にふわふわと浮かぶ、そんな夢見心地を切り裂いて。つんざくような目覚ましの音。
 耳障りな音を思い切り叩き潰して、迎えた今日という日常は、驚くほど昨日までと何ら変わりないものだったのだ。


 きみをおいかけどこまでも。


「っと、ちこぉぉぉぉぉく!!!」

 ……前言撤回。今日という日常は何とも慌ただしい幕開けとなった。
 思い切り叩いた目覚まし時計の悲鳴のようなその音が停止するのを待つや否や、わたしは無情な現実に直面する。二つの針が指し示す時刻は午前8時5分前。通常のわたしの起床時間は午前7時前。なんということだろう、空前絶後の大寝坊だ。

 何で誰も起こしてくれなかったのか。起きられなかった自分を棚に上げ、怒りの矛先を家族へと向ける。慌てて制服に着替えると朝の準備を素早く済ませていく。起床してから準備を終えるまでの最短記録を更新して、すでに誰もいなくなった家の玄関を飛び出す。おっと、鍵を閉めるのを忘れるところだった。用心用心。

 いつもは徒歩のわたしだが、こういう場合の最終兵器・自転車を使用する。
長いこと放置していてタイヤの空気はすっかり抜けていたが、それでも歩いていくより遙かに早く学校までたどり着ける。幸いなことに、家から学校までは下り坂が多いのだ。なんとか間に合うだろう。

「よし、いってきます!」

 誰に言うわけでもない出掛けの挨拶を叫ぶと、わたしは勢いよくペダルを踏み込んだ。



 通学時間の記録まで塗り替えてしまったかもしれない。驚くほどの速度で通学路を風のように走り抜けたわたしは、時間ギリギリ、HRの直前に席に腰を下ろすことに成功した。未だ荒い呼吸音と滴る汗が、熱き戦いの何よりの証拠だ。

「智沙子、珍しいねえ。ぎりぎりじゃん」

「ちょっとね、油断したわ……」

 後ろの席のクラスメイトの耳打ちに、苦し紛れの笑顔を返す。
 するとまもなくして、我らが担任小林先生がけだるそうに教室のドアを開いた。35歳独身。全てにおいてやる気のないことで有名な高校教員だ。

「うい〜っす」

 朝一番にも関わらず開口真っ先の間の抜けた挨拶は聞くもの全てのやる気を削いでいく特大効果を発揮する。
 長話の嫌いな小林は挨拶と簡単な出欠確認だけ済ませると、さっさと教室を出ていってしまう。ゆえに我がクラスのHRは他のどのクラスよりも最短を誇っている。

 一見目の授業は英語だったか。どの教科もけして得意ではないわたしにとって、正直授業時間は苦痛でしかない。加えて朝の全力疾走の効果もあって
朝一番の授業に望むコンディションは最悪だ。
 それに何よりの気がかりがある。そのことでわたしの思考回路は昨日からフル活用されている。はじまった授業は上の空。わたしは昨日のことを思い返す


 わたしを助けてくれたのは、間違いなく淳平だった。わたしの三列はさんで右斜め前方に座り、ワックスで固めた黒髪を早くも前後に揺らしているあの男だった。
 そのことを奴に問いただしたくて、だから朝一番の出会い頭真っ先に突撃してやろうと思っていたのに。目覚まし時計を聞き逃すほどの眠りについていた自分を激しく恨む。
 けど、まだ一日は長い。問いただすチャンスはたくさんある。まずはこの退屈な異国言語の時間を乗り切って、それからだ。
 とりあえずは授業に集中。わたしが黒板に書かれた解読困難な筆記体をノートに写し始めたのと、英語教員のチョークによる制裁がついに机に突っ伏した淳平に下されたのはほぼ同時だった。


 チャンスはまだある――はずだった。
 しかしその期待はことごとく外れることになる。

 一限目終了後、さっそく淳平のもとに突撃を試みたわたしの前に立ちはだかったのは移動教室。しかも体育。移動と着替えに時間をとられ、ついに突撃は叶わない。
 次は二・三時限目の休み時間。体育から戻ってきて淳平を探すも、なぜか見つからない。次の休み時間も、その次の休み時間も、誰かの陰謀かと疑うくらいに、わたしの突撃は失敗に終わってしまった。

 そして、なんということだろう。本日最後の授業終了のチャイムが鳴り響く。放課後だ。放課後まで会話一つ出来ないとは一体どういう事なのか。普段であれば嫌というほど顔を合わせるというのに。

 もしかして、避けられている? 
 そんな不安が頭をよぎった。しかし、今は放課後。授業時間という制約から解き放たれたわたしは完全なる自由の身。もうわたしを邪魔するものはいない。


 さあ、突撃だ!


「淳平!」

 昇降口で、やっと奴の捕捉に成功する。このやろうHRが終わった途端全力疾走で帰宅を試みやがった。慌てて追いかけたわたしの息は絶え絶え髪はぐちゃぐちゃ。乙女が男子と対面するには、最悪の見た目だろう。

「ちさ……そんなに慌ててどうした? 変なもんでも食ったか?」

 こっちがこんなに必死で呼び止めたというのに、淳平の様子はいつも通りだ。そんな態度がむかつく。いや、一番むかつくのはいつも通りを装っていることだ。嘘が下手なくせに。ばればれだ。

「聞きたいことがあるんだけど」

 単刀直入だ。乱れた髪をただして、淳平の目をしっかりと自分の目に写す。昨日のことに関しては、奴が何を隠そうともうバレバレなのだ。さっさと訳を話してほしい。というか話しやがれこのばかやろう。

「俺、急いでるんだけど」

「じゃあ手っ取り早く話してよ。昨日のあれ、何?」

「き、昨日? 何言ってんだちさ、意味わかんねー……」

「とぼけんな」

 まだしらを切るというのか。わたしはかつてないほど冷徹な視線で下手くそすぎる誤魔化しを続ける馬鹿を睨んだ。

「――ちさ! お前きっと疲れてんだよ、だから今日はゆっくり休め! な! それじゃあ!!」

「ちょ……待ちなさいよ!」

 あまりにも強引すぎる。無理矢理話を切り上げて、淳平は脱兎のごとく走り去る。速い。多くの部活動から助っ人を頼まれる脚力は、他の追随を許さずあっという間に昇降口から消えていく。だが、そんなことに後れをとるわたしではない。今日のわたしはひと味違う。今日のわたしには秘密兵器、自転車がついている!
 寝坊したことにこれほど感謝することはないだろう。わたしは相棒の鍵をポケットから取り出し、教室に置き忘れた鞄のことなど気にもとめず、まっすぐに馬鹿の後を追いかけた。


 正直、余裕の勝利だった。文明の結集たる自転車に人の足がかなうわけがない。校門を出てすぐ、あっという間にわたしは全力疾走をする淳平の姿を見つけることに成功した。こうなれば追いつくことも容易いのだが、それではつまらない。
 有能なわたしは一つの作戦を思いついたのだ。その名も尾行! 聞き出しても教えてもらえない事も、淳平の後を追えばその謎が解けるかもしれない。出来るだけ距離を置いて、気づかれないように音を殺して彼の背を追う。しかし馬鹿は前だけしか見ていないのか。追いつけられはしまいという余裕からか、先ほどから淳平は後ろを振り向くことをしない。おかげで簡単にその後を追えるのだから、馬鹿にはたまには感謝しなければならない。

 しかしこれだけの距離を走り続けてもその勢いが止まらないなんて、頭があれな分体力だけは有り余っているようだ。その走り去る背にほんの少しときめいて……いや、そんなことはない。この状況でときめくなんてわたしは馬鹿以下か。それはさておき、思考を払うべく首を振る。どうやら淳平は商店街へと向かっているようだった。
 
 月見町商店街。お世辞にも都会とは言い難いこの町の活気の中心地だ。アーケードに囲まれ、数々のお店が並んでいる。もちろん町民の一人であるわたしの生活にもなじみ深く、日頃から大変お世話になっている場所である。だが、淳平が商店街へと向かう理由は何なのだろう。タイムセールの買い物でも頼まれたのだろうか?
 
 そうこう考えているうちに、淳平の姿は商店街の人混みにとけ込んでいく。さすがは町の中心地。夕方の買い物時ということもあって、人通りは多い。見失わないようにしっかりとその背を見つめる。
 すると、動きがあった。疾走を続けていた淳平が、その速度を緩めたのだ。走りを止めたその視線の先には……『八百屋タカサキ』?

 慌てて自転車を止めて、店へと向かっていく淳平を追う。本当に八百屋のタイムセール目当てだったのか? 意外と家庭的じゃないか……と関心するも、店頭に安売りの張り紙が貼ってあるわけではない。というか、タイムセールでないのならここの八百屋は水曜日に行った方がお得なのだ。淳平が急ぐ理由は安売り目当てではなさそうだ。

 ならば一体どうして。
 その謎は、案外すぐに解決した。店内に入っていくと思われた淳平だが、その目的は別のところにあったらしい。彼が向かったのは八百屋の隣の小さな路地。普通であれば入ることを躊躇うであろう狭く暗い通路へ、彼は何の迷いもなく進んでいったのだ。
 見失わないようにすぐにその後を追う。この八百屋は我が家も日頃からお世話になっているのだが、その隣の路地など今まで気にとめたこともなかった。あまりこそこそしては商店街を歩く人たちに怪しまれてしまうので、出来るだけ堂々と足を踏み入れる。
  通路の先にあったのは、小さな階段だった。八百屋のある建物の二階へとつながる、狭い階段。金属で出来たそれは建物の外壁に比べると少しばかり新しいもののようで、おそらく増築か何かであとから付け足したものだろう。その階段を淳平は何の躊躇いもなくのぼり、ついにはその先の扉を開き、中へ消えていってしまった。

 さて、淳平の居場所は突き止めた。だけど、ここからどうしよう。
 勢いに任せて彼を追ってきたまではいいが、わたしの知りたかったことは何一つ分からないままだ。放課後に全力疾走してまで、淳平は八百屋の二階に何の用があるというのか。売れ残った野菜のバーゲンセールでも開催しているのだろうか。そんな馬鹿な。
 
 こんな路地で突っ立っていても何も解決しないのは分かっている。どんなに考えても、わたしの平均的な脳味噌じゃ昨日の出来事と淳平の行動、そして八百屋の二階のつながりの意味するものを導き出すことは出来なかった。ここで引き返して、明日淳平に再び問いただそうとしたとしても、きっと彼は何も教えてくれないだろう。だったら……

 一歩、わたしは前へと進む。ローファーの靴底が、カツリと金属を踏む音。

 聞いても答えてくれないのなら、自分で知るしかないじゃないか。

 階段を一段のぼるたび、胸の高鳴りが大きくなるのを感じる。大きく息を吸って、吐き出す。深呼吸。目の前にあるのは磨り硝子の扉。扉と言うほど立派なものではなくて、それはまるでどこにでもある、ベランダの窓のようだった。

 よし。覚悟を決めた。扉に手をかけ、再び大きく息を吸って……叫ぶ。