ヒーロー本編 | ナノ

1



「おっす、ちさ!」

「あ、淳平。おはよ」

 何気ない日常が大切だと気づいたそのときから。
 この他愛のないやりとりが、どうしようもなく愛しいのだ。


 
 襲撃すとろべりぃみるく



「朝の時間に会うなんて、珍しいね。しかもこんな、家の目の前で」

 そういって、わたしは淳平と並んで歩く。
 朝の通学路、照らす朝の日差しはどこまでもあたたかく。高揚した気持ちは、いつもと同じ朝日でさえも希望も予感のように思わせる。

「確かにな。おまえいつも朝おっせえもんな。こんな時間に出てるのか?」

「遅くないわよ。普通よ、普通。淳平がいつも無駄に早いだけでしょ」

 現在時刻は七時三十分をすぎたところ。通常徒歩で通学するわたしは、いつもこの時間に家を出ている。ここから学校まで歩いて三十分程度なので、登校時間の八時二十分まではかなり余裕がある。
 それを遅いという淳平は、馬鹿みたいに早くから起きて登校しているのでこんな風に通学時間が一緒になることは滅多にない。

「そうなのか? 俺、寝坊しちまったと思って焦ってたのによ。ちさはずいぶんと余裕だから、カルチャーショックだわ」

「なによそれ」

 異文化交流において衝撃を受けた外国人を彷彿とさせる、大げさなジェスチャーをする淳平に、そこまでの程かと呆れるわたし。
 部活動の朝練があるわけでもないし、勉強するわけでもない。それほど朝早くに学校へ行ったとして、別段よいことがあるとは思えないのだが。何が淳平を駆り立てるのだろうか。

「……それにしても、めずらしいね。寝坊なんて」

「そうなんだよ。俺もビビった……。昨日ちょっと帰りが遅くなっちまってよ。普段もゲームしたりして寝るのが遅くなったりすんのは良くあるんだけど、寝坊するとは思わなかったわ。不覚」

「そう……」
 
 聞きながらわたしは気づいた。淳平の腕には、昨日まで無かった包帯が巻かれている。制服の袖口からわずかに見えるだけだから、普通に見ていたら見落としてしまうだろう。それ以外にも指先のテーピングだとか、小さな傷は彼の身体の至る所にあった。

「昨日も、戦ってたの?」

「まあなー。そんな大したこと無いんだけどな。図体でかいだけなんだよ、あいつら」

「そうなんだ。大変みたいだから、ちょっと心配。怪我してるし」

 いくら強い力を得たからと言って、淳平は一介の高校生だ。おまけに馬鹿だ。宇宙人を相手に日夜戦うことが大変でないわけがない。毎日少しずつ増える小さな怪我が、やがては取り返しのつかない大怪我になる可能性だってあるのだ。
 何も言わず見守ろうと、そう決めていたけれど。どうしたって、不安になる。

「あー、これか?」

 そういって、こちらの心配に気づく様子もなく、淳平はぐいと袖を引いて包帯を見せてみせた。手首に巻かれた包帯は、彼の健康的な肌の色と隣り合って、そのコントラストが不似合いで尚更目立ってみえた。

「これはさ、違えんだよ。ちさ」

「ん?」

 違う、とは一体何か。首を傾げたわたしに、「聞いてくれよ」淳平は顔をしかめた。

「昨日託仁とバスケやったんだよ。あいつ、バスケ部らしくてさ。俺もバスケ好きだから負けてらんねえと思ってさ! ワンオンワンで挑んだわけだ。そしたらよお……あいつ身長に物言わせやがって、容赦なくてさ。惨敗した上に手首まで痛めて、散々だろ? 悔しいよな。世の中ってやっぱ身長なのかな……いや、でも俺は負けんぞ。身長差なんて今に覆してやる!」

 言いながら、昨晩の悔しさを思い出したり、再戦への熱意に燃えたり、ころころ変わる淳平の表情。しかし、そんなものにいちいち心動かされるわたしではない。彼の尽きない闘争心や挑戦心はどうでもよい。

「つまり、その手の怪我はあんたの変な対抗心によって生まれたと。そういうこと?」

「変な対抗心とはなんだ! 強い相手とは戦いたいだろ、そして勝ちたいだろ! おまえにはそういうのないのか」

「ない!」

 ぴしゃりと言い切って、持っていた鞄を思い切り淳平へと叩きつけた。

「痛って……! なにすんだおい」

「ふんだ」

 突然の鞄攻撃や、わたしの怒りの訳も分からず。困惑する淳平を置いて、学校へと向かう。

 ――こっちの気も知らないで。心配して損した!

「なんだよ急に……。意味わかんね」

 ぼそり、淳平が呟くのが聞こえた。
  

 それから三十分間、わたしと淳平は奇妙な距離感を保ったまま一言の会話も交わさずに学校へとたどり着いてしまった。
 校門が見えてきた時点で、わたしは大いに後悔した。せっかく朝の登校を共にできる機会だったのに。それを無駄にしてしまったではないか!
 歩きながらわたしの怒りはとうに静まっていたのだが、変な意地を張ってしまい、後ろを歩く淳平を振り返ることが出来なかったのだ。くそう、わたしの馬鹿野郎。
 しかし、淳平も淳平だ。少しくらい追いかけて、怒りの理由を聞いてくれてもいいじゃないか。

 校門をくぐる直前。わたしは足を止めた。同じ制服をまとった生徒たちが、不思議そうな目で横を通り過ぎていく。
 このまま変な空気を抱えたまま一日を過ごすのは嫌だ。ここは一つ、わたしが折れて淳平と仲直りしようではないか。その決心を心に固めて、くるりと後ろを振り向く。

 こちらに歩いてくる淳平の姿が見えた。寝坊したと焦っていたわりには、その歩みはゆっくりとしたものだった。わたしが振り返っていることに気づいて、淳平の視線がこちらへとむく。

「淳ぺ――」

「きゃーん! 長谷せんぱいっ」

 わたしの言葉をかき消して、やけに甘ったるく、甲高い声が文字通り淳平へと飛びついてきた。

「のわっ」

 突然飛びつかれて、淳平の身体が傾いた。そんなこともお構いなしに、強襲者はしっかりと彼の腰に手を回して甘いショートケーキのような声をあげ、しっかりと上目遣いで淳平を見上げる。

「おはようございますー。長谷せんぱいっ。朝からせんぱいに出会えて、すみれ感激ですぅ。これって、運命ですかっ? きゃっ」

 なんだなんだ、いったいなんだ。
 朝から胃がもたれそうな特大ストロベリーパフェに、さらに練乳とメープルシロップをトッピングしたものをチョコレートで口に流し込まれたような、そんな気持ちだ。
 肩に掛けていた鞄の持ち手がずるりとすべり、その重さで身体が揺らめきそうになる。

 そのあまいあまい声の主は、その見た目もなかなかにあまったるい少女だった。小動物を思わせるような小柄な身体に、フリルをあしらったふりふりの衣装に包んでいる。よく見ると学校制服をアレンジしたもののようで、うちの学校の生徒だと言うことが辛うじてわかる。
 彼女に触発されてか、例えすら甘ったるくなってしまう。ミルクティーをふわふわの綿飴にしたようなウェーブのかかった髪をツーサイドアップにしており、動きに会わせてゆれるそれは垂れたウサギの耳を思わせた。そこに、これでもかと飾られたのはまるでケーキのイチゴのように目を惹く、大きな真っ赤なリボン。長いまつげに彩られたくりくりとした大きな瞳はまっすぐに淳平を映しており……

「ちょっと待ったぁ!」

 あまりにも突然、なおかつ濃すぎる人物の襲来に呆気にとられていたわたしだが、このまま勝手に淳平に甘えられる訳には行かない。というかいつまでくっついている気だ。
 思わず大きな声が出てしまい、通行人の視線が一気にこちらに注がれる。そんなことも気づかないくらい、わたしは必死だった。離れていた淳平までの距離を一気に詰めて、鬼の形相で少女と対峙する。

「きゃっ、なんですかぁ……」

 わざとらしく怯えた小動物のような瞳がこちらを見上げてくる。

「すみれ、怖い……!」

 そういいながら、これ見よがしにますます強い力で淳平にしがみつく。

 ――この女どう引っ剥がしてやろうか……。

 ふつふつと煮立っていく、地獄釜のような感情。
 少女はともかく、淳平の方もこころなしか怯えているようにも見える。そんなにも酷い顔をわたしはしているのだろう。
 
「おい、ちさ。いきなりどうしたんだよ。落ち付けって」

「そうですよぉ。ていうかあんた。誰ですか?」

 ――それはこっちの台詞だ。というか、こちらに対する口調が完全に本性だな。このやろう。
 
「わたしは淳平の、幼馴染みですけど!」

 幼馴染み。このステータスは我ながら強いと思う。ぱっとやってきたよくわからない女に対して、これほど有効な一手はない。負けてたまるかという意地もあって、わたしの口調は強くなる。
 しかし、相手は怯む様子を全く見せない。むしろ、次の一言でわたしの思考はぴたりと停止する。

「幼馴染みがなんですか? すみれは、長谷先輩の彼女ですけど!」

「はっ!?」

 『彼女』予想外の一言に、わたしは次の一手を完全に見失った。
 嘘、まさか、そんな。停止した思考に、『彼女』の言葉がエコーする。

 ――淳平に彼女? しかも、こんな。ぶりぶりしてる子が? こんな子がタイプだったの? というかぜんぜん聞いてない!

 どさり、ついに滑り落ちた鞄が地に落ちる音がした。
 そんなことも気づかぬほど、わたしは呆然と立ち尽くしていた。視界の中で、寄り添う二人の姿がかすんでゆく。
 にやり、勝ち誇ったような笑だけが、鮮明に写った。

「おいおいちょっと待てって――」

 淳平が何か言おうとしていたが、そんなものはどうでも言い。今更説明なんて、必要ない。

「……お、お幸せに!」

 捨て台詞のように叫んで、わたしは思いっきり校舎の方へ走り出した。 校門の目の前で繰り広げられていた私たちのやりとりは、登校途中の学生たちの格好の注目の的になっていて。気づけば周囲をぐるりと人だかりに囲まれていた。
 そんな人の森をかき分けて、わたしは走った。思考回路はもはや『彼女』のことでいっぱいで、無我夢中になっていたわたしは見物人たちのことすら見えていなかった。


「鞄、忘れてってるし……」

 人だかりの真ん中に残された淳平が、ぽつりと呟いた。


 
 ◆


「ぶあっはっはははは……! マジで、マジでおなか痛い……! ウケる……!」

 時は流れて、昼休み。
 お弁当を食べていた小彩は、ばしばしと机を叩いて笑いこけていた。呼吸が出来なくなるほどおもしろおかしい話の内容は、今朝の私たちのことだった。

「……そんなに、笑わなくても……」

 対してわたしは、未だに癒えない『彼女』出現のショックに苛まれてそれどころではなかった。
 今朝の出来事は朝の登校時間、しかも校門前で繰り広げられていたということもあって、かなりの生徒に目撃されていたようだった。わたしは全く気づけなかったのだが、あのとき、私たちを中心としてぐるりと囲うように出来た人だかりは広い範囲に及んでいたらしい。
 噂が噂を呼び、ものの数分間の修羅場は、たちまち学校中に広がり私たち普通科の生徒をはじめ教師陣、そして他校舎の上級特進クラスにまで広まっているようだ。
 大型公演を控えた演劇部の客引きのためのゲリラ公演だったのではだの、汚職スキャンダルで苦境に立たされた政治家の選挙運動の一環ではだの、生き別れの兄妹の再会に偶然兄を狙う刺客の襲撃が重なって乱闘寸前の騒ぎになっただの、突拍子もない憶測まで飛び交っている始末だ。
 学校中で話題になっている噂の、その渦中の人物が目の前のわたしだと知って、小彩は先ほどから――正しくは最初に話した朝の時点から話を思い返しては、笑い転げている。

「しかし、長谷に彼女とは。だいぶ信じがたいんだけど。本当にそう言ったの?」

 笑うことをやめた小彩は、突然にしてわたしの傷口をえぐってくる。

「うっ……やめてよ小彩。だって、そう言ってたんだもん……」

「長谷が? 直接奴から聞いたの?」

 小彩が身を乗り出してくる。そういえば、『彼女』発言はあの女の子の口から出たもので、淳平本人に聞いたものではなかった。
 
「いや、聞いてない」

「だったら、まだその子の言葉を鵜呑みにするには早いんじゃない? 長谷に聞いてきなよ」

「う、うん。そうだね」

 わたしは食べかけのお弁当をお茶で流し込んで、急いで立ち上がる。だが、淳平を探そうと教室を見回しても彼の姿はない。
 
「あ」

 思い出したように、小彩が口を開いた。

「そういえばあいつ、昼休みに補習の呼び出し食らってなかった?」

「補習?」

「うん、たしか。あいつ最近出席悪いじゃん。だから、教師陣にも目を付けられてるらしいよ。授業でなかった分、罰として昼休み返上らしい」

「そうなんだ……」

 そんなことになっていたとは。まったく気づかなかった。世界の平和を守るために戦うという立派な事情も、教師の前では授業をさぼるという悪行にしかならないとは。淳平も大変だ。
 しかし、補習を受けているとなると淳平と話をすることはできない。あきらめて、わたしは再び着席する。せっかく意気込んでいたのに肩すかしを食らって、拍子抜けしてしまった。深いため息とともに、そのまま机へと突っ伏した。

「でもさ、何者なんだろうね。その子」

 小彩は今朝の少女の事へと話題を変える。同じ学校の生徒、かつ下級生。そのくらいしかわかっていることはない。

「すっごい目立つ子だったから、調べればすぐにわかりそうな気もするけど。でもなんか、あんまり関わりたくないなぁ」

 思い出すだけで胃がもたれそうだ。ただでさえ、無理矢理流し込んだお弁当が腹部を圧迫しいているのだ。よけいなストレスは受けたくない。

「名前とかわかんないの? 私、個人的に気になるから調べてきちゃう」

「名前? そういえば、すみれとか自分のこと呼んでたような」

「ほうほう。高校生にもなって自分を名前呼びとは……なかなかだね。その子。わかった! ちょーっと聞いてくるから!」

 そう言うと、唐突に小彩は立ち上がり教室を出ていってしまった。好奇心にかられた彼女の行動力には目を見張るものがあるが、正直あの子に深入りはしたくない。なるべく波風を立てず、事の真相だけ聞けないものかと思うのだが。こうなってしまった小彩は誰にも止められないのだ。
 小彩が去って私は特にすることもなく、机に突っ伏したままぐるぐると思考を巡らせた。手っ取り早く淳平本人に聞くという手段がとれない今、悶々と考えることしかできない。
 こうなるなら朝淳平が落としたまま放置された鞄を届けてくれたときに聞けば良かった。今更悔いても仕方はないのだけれど。


 それから十分後、小彩が戻ってきた。
 満腹の状態で突っ伏して考え事をしていたわたしが、そのまま午後の眠気に船をこぎ始めていた時だった。進み始めていた船をそのまま波止場に引き戻して、船員にむかって突然冷や水を浴びせるような、小彩の様子はそんな慌ただしさだった。

「聞いてきた! ちょっと智沙子、やばいわよ。その子!」

「へ?」

 テンションの緩急差についていけず呆然としていると、小彩はばんと机を叩いた。それから、教室内で異様に目立ってしまった事に気づいて、いそいそと先ほどまで自分が座っていたわたしの目の前の席に腰掛ける。

「その子のこと、知ってるって子が隣のクラスにいてね。野球部のマネージャーの子なんだけど。後輩なんだって」

「野球部? あの子が!?」

 汗、努力、涙、青春!
 その象徴といえる野球部と、あまいお菓子から細胞ができているようなあの少女が結びつかない。むしろ全く逆のタイプだろう。

「それって本当なの?」

「ほんとよほんと! 向井ちゃんが嘘をつくはずがないもん」

 向井、というのは話を聞いた野球部のマネージャーのことだろうか。にわかには信じがたいが小彩が言うのだ。間違いはないのだろう。

「あーっと、大事なのはそこじゃなくて。で、向井ちゃんから聞いた話なんだけど、そのすみれって子の名字。八戸(やと)って言うんだって」

「八戸?」

 どこかで聞いたことがある名字だ。漁業が有名な都市……ではなくてもっと身近で。

「ヤトデパートの八戸!」

「あ!」

 そうだ、思い出した。わたしは小彩と顔を見合わせる。
 ヤトデパートとは数年前に駅前に建てられた超大型百貨店で、地元の人ならば知らぬ人はいない人気店だ。そこに行けば全てが揃い、全てを得られる。そんな謳い文句で多くの市民を引きつけては連日大賑わいを見せている。おかげで地元商店街の売り上げが低迷しているなど、必ずしも地元への貢献を果たしているとは言えない面もあるのだが、そんなデパートを経営している社長の名前が八戸というのだ。

「え、ちょっとまって。じゃああの子、デパートの社長の娘?」

「そうみたい。長谷もえらい子に好かれたもんね」

「ど、どうしてそんな、何でもって淳平?」

 口の中が急激に乾いてきて、残っていたお茶を一気に飲み干す。
 確かに、あの子には妙な品があったというか。持っている物一つ一つから高級感のようなものが漂っていたような気もする。そんな子が一体どうして、淳平なんぞの『彼女』を名乗っているのだろうか。

「まあ、あいつ顔はそれなりだもんね。他を見たら彼女を名乗ろうなんて、そうそう思えないけどさ」

 小彩の発言がさりげなくこちらまで貶してきたことは置いておいて。淳平の顔がそれなりによいことは間違っていない。去年の文化祭で行われたイケメンコンテストにおいて、奴は8位の座に輝いている。
 微妙と言えば微妙だが、この巨大校の全校生徒のなかから選ばれたと思えばかなりの好成績といえる。とはいっても、票のほとんどは一位に選ばれた生徒会長が占めていたので、淳平をこの順位まで押し上げたのは彼の広い交友関係がなせる多大な身内票の恩恵なのだが。
 それでもコンテストの影響で文化祭後一月ほど、淳平目当てで教室にやってくる女子生徒が多かった。しかし、ミーハーな女性とも彼の日頃の素行を見て幻想を砕かれたのか、一時を境にぱたりと人は来なくなった。あとにも先にも淳平の最大のモテキはその一月だけだろう。
 
 話は逸れたが、顔という点なら社長の娘に好かれる理由として納得できなくはない。

「それはそれとして。社長の娘ってことは、エリート科の生徒ってことだよね。でも、なんで一般生徒の部活に所属してるの?」

 この尚陽学園ははっきりとした二層構造で成り立っている、かなり特殊な学校だ。
 本来この学校は、一握りのお金持ちだけを養成する超エリート校だった。政治家とか大物俳優とか、財力を持つ優れた血筋だけが通うことを許され。初等部からなる一貫教育によって、エスカレーター式で国の将来を担う存在が養成される、そういう学校だったのだ。
 しかし、ある時からわたしのような何の変哲もない一般人も、生徒として募集するようになったのだ。普通の私立校と同じようにある程度の学力とお金を払えば高等部からその門をくぐる事が許された。
 しかし当然、一流の血筋とそうでない者たちとの間には、しっかりとした壁がある。わたしたち一般人は一般学科として、優れた者たちは上流特進学科――通称エリート学科として、完璧に分け隔てられている。
 一般学科とエリート学科では学校の校舎すら異なる。組まれているカリキュラムも違えば、所属する部活動も別々に分けられている。そしてその待遇も月とスッポン、天と地ほどの差がある。
 部活動に関しても、与えれられる予算は大幅に違うし、大会等の出場枠も基本的にはエリート科が優先となる。生徒会や委員会などの学校運営のための組織もそのほとんどはエリート科の生徒たちがによって独占されており、一般科の生徒はその指示のもと動く、いわば駒のような扱いでしかない。
 このように、明瞭な二層構造、ヒエラルキーが形作られている我が校では、通常であれば両者が混じり合うことはまずあり得ない。近づこうとも
思わないほどに、お互い住む世界が違うのだ。そのはずなのに。
 続く小彩の言葉に、わたしは思わず耳を疑った。

「うーん、それがね。彼女、一般科の生徒らしいのよ」

「えっ」

 一般学科は受験さえ受かれば誰だって入ることができる。それは当然、エリート学科の生徒であってもだ。しかしわざわざそんなことをする生徒なんていない。社長の娘であれば、エリートコースをただ歩んでいるだけで一般庶民にはとうてい想像もつかない素晴らしい人生を送ることができるのだろう。それなのになぜ、わざわざヒエラルキーの下層に降りて学園生活を送ろうなどと思ったのか。

「なんか、不思議よね。お金持ちの戯れ、なのかしら。理解できないわ。したいとも思わないけど」

 先ほど教室を出たときに買ってきたのだろう。紙パックのイチゴオレにストローを突き刺して、小彩は悪態をつく。

「そうだね」
 
 わたしはうなずく。小彩の言うように、金持ち故の遊び心なのだろうか。自分と全く違う世界を生きてきたであろう人間の思うことなど、皆目検討もつかない。考えるだけ無駄、のようにも思えてくる。

「向井ちゃんも苦労してるみたいよ。マネージャーといってもほとんど顔出してないみたいだし。たまに出しても部員たちを顎で使うだけで全く練習にならないって。顔がかわいいから、部員も彼女の言いなりらしいし。ほんと、野球部を自分の城か何かと勘違いしてるんじゃないでしょうね。お金持ちだからって、後輩のくせにすっごい上から目線らしいよ。やな感じ」

 あっという間に飲み干されたイチゴオレが、ずずっと最後の音を立てた。それを捨てようと小彩が立ち上がったところで、予鈴のチャイムが鳴り響く。

「とにかくさ。後で長谷にちゃんと確認しな。そしてどうなってるかちゃんと教えて。気になるからさ」

「ん、わかった」

 そう答えたところで、小彩は自分の席へと戻っていった。次の授業の担当は時間厳守にうるさい先生だからか、皆余裕を持って席についている。
 補習を受けている淳平が戻ってくるのは授業が始まるぎりぎりになるだろう。すぐに聞くのは諦めて、放課後まで待った方が良いかも知れない。
 次の授業の教科書を机に広げて、わたしは意識を学業へと切り替えた。