平凡な女子高生の、されど平凡ではない戦い
非日常に直面した。
突然やってきた事態は、普通じゃとても信じられないくらいに非現実的で不可思議だ。
『わたしの幼なじみは世界を守る正義の味方になっていたのです。』
その事実を知って、わたしの世界は色味を変えた。
世界のために命を懸ける。そんな彼らに力を貸したい。
そう決意したあの日から、わたしの日常は一変。正義と悪の狭間に両足を突っ込み、いつやってくるかもわからない世界の危機に怯え、それでも正義を信じて戦う。そんな日々がやってくる。
そう思ったのだけれど。
実際、わたしの人生における変化は些細なものだった。世界の危機を知ったものの、自分にできることなどはほんの些細なものだけだった。
わたしは実際に悪をどうこうできる力をもっているわけでもなければ、奴らと戦い平和に貢献できるわけでもない。
できることと言えば、正義のヒーローたちの身を案じ、たまにコンビニスイーツを差し入れることくらいだ。思った以上に、私自身の日常はこれまでとそれほど変わりはしない。
だけど、その些細な変化が重大なことだったのだ。
平凡な女子高生の、されど平凡ではない戦い
「えー、この数式は……であるからして……」
小気味よいテンポで、黒板が白く染め上げられていく。
やや閑散とした後頭部をこちらに向けて、数学教師がよくわからない数式を書き上げていく。
国語は割と得意だが、正直数学は苦手だ。
そんなに長く数字を並べてまで、一つの答えを導き出そうとする必要性が解らない。
お昼休みを終え、お母さん自慢の弁当によってもたらされた満腹感が安らかな眠気を誘う。ばれないように退屈をかみ殺して、黒板をノートへと写す。
数式の意味は依然としてわからないうえ、説明を終えた数学教師は書き上げたばかりの数字たちの上に容赦なく黒板消しを滑らせていく。
まだ写し終わっていないのにもかかわらず、慈悲も何もない。このままでは、数式の意味はおろか、数学の存在意義さえ永遠に解らないままだ。やがてやってくるテストの結果が今から危ぶまれていく。
まあ、数学とか試験とか。正直そんなことはどうでもいいのだ。
三列はさんで右斜め前方。
今日の景色はなんだか物足りない。いつもならば黒髪を前後に揺らしているであろう奴は、いまはこの教室にはいない。
授業が始まる数分前、突然の腹痛に襲われた彼は教室を飛び出していった。クラスメイトの目にはそう映っているのだろう。
しかし、私は知っている。
彼は今頃、世界のために人知れず戦っているのだ。
クラスメイトが正義のヒーローだなんて、いったい誰が考えるだろう。
少なくとも教室の中のほとんどの学生は、そんな妄想さえ抱かないのではないだろうか。
戦いにいく彼が少しでも早く、そして無事にこの教室に戻ってきますように。
今私ができることは、人知れずそう願うことだけなのだ。
◆
終業のチャイムが鳴る。
意味の分からない授業から解放されて、私は盛大なあくびをかまし、大きく伸びをする。人目を気にしないその様子に、背後から友人の声。
「あんたは親父か」
「……親父じゃないよ。失礼ね」
「うら若き女子高生なんだから、もうすこーしおしとやかさがあっても困らないとは思うんだけどね」
どかりと一つ前の席に腰掛けて、さわやかなショートカットが笑う。彼女は横山小彩。中学の時からの私の友達である。
スポーティでさばさばとした性格の彼女は一緒にいて居心地のいい存在で、細かいことを気にしない堂々とした振る舞いは憧れさえ抱かせる。
「それにしても、長谷は何してんのかしらね。腹痛で保健室に駆け込むようなタイプではなかった気がするんだけど」
どきり。突然出された名前に肩がはねる。
「さあね。お弁当に変なものでも入ってたんじゃないの」
知られないようにしなければならない。そう思うと妙にぎこちなくなる。聞こえてくる自分の声は、どうしたって不自然だ。
「長いこと教室に放置された牛乳飲んでも何ともなかった腹がその程度で壊れるとは思えないけどねえ」
智沙子、何か知ってるんじゃないの?
小彩はじっとりとした視線をこちらへと向けてくる。
「知らないわよ、淳平のことなんて」
できるだけ平然を装って、わたしは机の上の教科書を整える。
確かに、淳平は鉄の胃袋の持ち主だ。昔から何を食べても平気だったし、つい先日、机の中から発見された少なくとも一月は放置されたであろう牛乳を間違って飲んでしまってもぴんぴんとしていた。
放たれる異臭にも動じず、「なんかまずい」の一言ですべてを片づけてしまった彼の伝説は『長谷牛乳事件』としてクラスメイトの思い出を彩っている。そんな奴が腹痛を理由にいなくなるなど、設定として無理があるのだ。
突如としてやってくる危機は高校生の理想的な授業カリキュラムなどお構いなしだ。今後も授業中に抜け出す機会は増えていくだろう。それに際して、もうすこし自然な理由を作り上げるようアドバイスしなくては。
そう言えば、たまきちゃんと託仁さんは同じ進学校に通っているのだった。二人は、どうやって授業を抜け出しているのだろうか。その難易度は偏差値平均レベルをうろつくこのクラスより遙かに高いだろう。コツを今度ご教授願おう。きっと参考になるに違いない。
「ふーん。まあ、わたしにしたらどうでもいいんだけどね。最近授業居ないこと多いみたいだし、智沙子ちゃんは心配してるんじゃないかしらー、と思ってね」
授業抜けだしアドバイスに思考を傾けていたわたしだが、含みのありそうな小彩の発言はその思考を一気に現行系でなされている会話へと引き戻す。
「何でわたしが淳平のことなんて心配しなきゃいけないのよ」
「え? 心配じゃないの?」
言いながら小彩は表情をにやつかせている。
わたしは淳平にことに関して彼女に何かを言った覚えはない。しかしどうしただろう。彼女はすべてを見透して「わかってるわよ」といった顔をしている。
「まあ、多少は、ね」
一体どこまでをわかっているのか、それは果たして本当なのか、ただのわたしの思いこみなのか、波立つ心情を濁した言葉で誤魔化す。
しかしそれすら彼女の前では意味をなさないらしい。
「あんた、言っておくけどばればれだからね」
「ば、ばればれって……何が!?」
「ご想像にお任せするわ。ほら、次って移動教室でしょ。急がないと授業始まっちゃうよ」
そう言って、小彩はさっさと立ち去ってしまう。
ばればれ……? 一体何がばればれなのか。まさか本当に、淳平が正義の味方であって、授業を抜けだして悪と戦っているという事実がばればれなのだろうか。
その真意はいかに。小彩の言葉の意味を聞こうとしたが、動揺している間に、すでに彼女は教室の外。すぐに後を追おうとしたが、移動教室の準備などすっかり忘れていたために準備不足。慌てて教科書を用意するものの、わたしは完全に出遅れてしまった。
教室を飛び出す。
授業の合間とはいえ休み時間。廊下には生徒の姿も多い。
いつのまにか時間はぎりぎり。急がなくては。校則違反を知りつつも、走りだそうとしたその時。
「あ、ねえねえ。そこの君」
聞き覚えのない声に呼び止められた。
いったい何だろうか。
振り向くと、見覚えのない顔がにこにことしている。その出で立ちは周りと一風変わっていて、なんというか派手だ。一度見たら忘れそうにない、明るい髪の色に、着崩した制服。廊下を走ろうとしたわたしなんかよりも遙かにずっと校則に喧嘩を売っている。一言で言えば、金髪の不良少年。
「今これ、落としたよ」
にっこりと笑顔でこちらに向けられた手の中には、猫の模様がプリントされた黄色のタオルハンカチ。
「あ! ありがとうございます」
それはわたしのお気に入り。急いでいて落としたことに気づかなかった。あやうく無くしてしまうところだった。誰だか知らないが、悪そうな見た目に反して親切な人だ。勢いよく頭を下げて、ハンカチを受け取る。
「いいよいいよ。気にしないで。ハンカチなくすのって地味にショックだもんね。お役に立ててよかったよー」
依然としてにこにことした笑顔がわたしに向けられる。
悪い印象ではないのだが何故だか居心地が悪い。その笑顔の下の感情が全く読みとれないからだろうか。初対面にも関わらず物怖じする様子の全くない、社交性全開のその態度もまた印象的にはさわやかではあるのだが、どうにも距離感がとりにくい。
「拾ってくださってありがとうございました。それじゃあ……」
次の授業の時間も迫っている。お礼を述べたことだし、いかなくては。
わたしは早々に立ち去ろうとする。しかしそれはうまくいかない。
「君、智沙子ちゃんでしょ」
「へ?」
突然名前を呼ばれて、困惑する。
この人とわたしは初対面だし、名乗った覚えもない。そもそもこんな風貌の人、一度知り合ったらそうそう忘れられないはずだ。
なぜ、わたしのことを知っているんだろう。もしかして、わたしのファンなのでは……
「教科書に書いてある名前、見えたんだ。なんで知ってるの? って思った?」
ずばり、わたしの心情を見事に見抜いた金髪君はにっ、と歯を見せて得意げだ。
なんだ、名前を見ただけか。
我ながら自意識過剰だったようだ。ファンという可能性をわずかでも思い描いたことは、胸の奥底の秘密にしておこう。
「嘘。実は前から智沙子ちゃんのこと知ってたよ。実は俺、君のこと気になってたんだー」
「え……」
やっぱりファンだったの?
さらりと告げられた一言で、やはり過剰なわたしの自意識は奥底に隠したはずの可能性を驚くべき早さで再浮上させる。
しかしいざ期待が現実に現れると、それはそれでどうしてよいのかわからない。『気になっていた』という言い方をどうとらえればよいのか。良くある女子トークでは『気になる』イコール『好き』とみなされることが多いのだが、この場合はどっちなのだ。
「な、なんで……」
動揺が手に取るようにわかる。実際に握りしめた手の中が急激に汗ばんでいく。いや、きっと考えすぎだ。おそらく言葉そのまま。単に気になっていたというだけだろう。そうだ。そうに違いない。しかし、なぜそれをわたしに伝えるのか。
困惑は動揺を生み、思考回路はさらなる困惑を招く。
でも、わたしには淳平がいるんだ。
金髪君には悪いけど、ここははっきりとお断りしなくては……
「えっと、ごめんなさい!」
過剰すぎる自意識に弄ばれ、勝手きわまりなく出した結論を声高に述べたところで、返ってくるのは不思議そうな視線。これまでの困惑の根元である金髪君はいったい何のことやらと、きょとんとした表情でこちらをみている。わたしと彼の間には、妙な温度差が存在していた。
私は思わず我に返る。それと同時に、言いようのない恥ずかしさがこみ上げてくる。オーバーヒートした脳味噌に冷水をぶっかけたい気分だ。一気に気化した水蒸気がぶわっと天上に昇り、徐々に頭が冷静さを取り戻してくる頃に、笑い声が響く。
「あはは。智沙子ちゃんっておもしろいな。長谷が君のこと話してたからさ。どんな子なのかなーって気になってたんだよね」
「え? あ、あははは……」
人目を気にせず笑う金髪くんはおなかを抱えている。わたしは先ほどまでの飛躍しすぎた思考を思い返して、南極の氷の下に永住したい気持ちになった。言いようのない恥ずかしさをとりあえずの苦笑いで誤魔化してみる。
「俺、何もいってないのに振られちゃった」
「ご、ごめんなさい……!」
ため息とともに金髪君は大げさな素振りで肩を落とす。
からかわれてのことだろうが、どうぞいくらでもからかって欲しい。それほど気にしていない様子ではあったが、初対面の相手にとても失礼なことをしてしまったのは確かだ。反省しなくては。
「そんなに気にしないで。俺、ぜんっぜん気にしてないし。勘違いして慌ててる智沙子ちゃんが可愛かったから、それでオッケー!」
そう言うと、ぐっと親指を立ててウインクをひとつ。こちらとしては穴を掘って埋まりたいくらいの恥を晒してしまったわけだが。相手が軽いノリで受け流してくれるというなら有り難く思うとしよう。うん、オッケーだ。有り難う御座います。
と、一件落着したところで先ほどの会話の中でさらっと出されたとある名前を思い出す。
それどころではなかったのでそのときは追求できなかったが、今なら大丈夫だろう。
「ところで、さっき長谷がって言ってたけど……」
「ん? ああ。そうそう! 俺、長谷と友達だからさ! 幼なじみがいるって聞いて、長谷の幼なじみ! しかも家が隣! こりゃ何かある、ないわけがないと思いまして! そんなわけで一度君と話してみたいとおもってたんだよ」
なるほど、そう言うことだったのか。
何故か楽しそうに語る金髪君。幼なじみということが、そんなに彼の興味を引くのだろうか。まあ、わからなくもないけれど。
それにしても、淳平は本当に顔が広い。彼の交友関係の多様性はずいぶん昔から変わらずだが、その幅の広さには驚かされる。
「この前長谷ともんじゃ行ったでしょ? 実はあれって俺のおかげだったりするんだよ」
もんじゃ。
その単語によって、いろんなことがあって、すっかり忘れていた怒りがどこからかこみ上げてきた。
そうだ。もんじゃ、あいつにすっぽかされたままだ。
結果的に淳平に助けてもらった訳だし、正義の味方として戦わなければ
ならないという事情がある。しかし、それはそれだ。理由も告げずに約束をすっぽかしたこと自体はやはり許せない。
「俺、あそこでバイトしてたことあってね。それで店長と仲いいんだ。まあ、それでも予約取るの大変だったんだから。感謝してくれると嬉しいなーって、どうしたの智沙子ちゃん、顔怖いよ?」
「ううん、なんでもないよ」
いけないいけない。ついつい淳平への怒りに思考が向いてしまった。行けなかったとはいえ、予約のチケットをくれた金髪君には感謝しなければならないのに。
「予約チケットありがとうございました」
「いえいえ! 智沙子ちゃんのためなら俺、頑張ってチケット取っちゃうから。もしまた欲しくなったら言ってね。もちろん、もんじゃ以外でも協力できることがあればするからね」
「あ、ありがとう……」
溢れんばかりの社交力と、満面の笑みがとにかくまぶしい。
ほぼ初対面の相手によくそんなことができるなあと不思議に思うが、まあ、いただける好意はありがたくいただいておこう。
「そんなわけで、これからもよろしくね! 俺、二階堂千隼!」
「あ、うん。よろしく」
そう言うと、金髪君改め千隼くんは躊躇いもなくわたしの手を握ってぶんぶん握手をする。
友達の友達は友達! そんな思考タイプなのだろう。わたしの意志などお構いなしに、ぐんぐんと距離感を近づけてくる。わたし個人としてはもう少しゆっくりとその距離感を詰めてきて欲しい。
悪い人ではないが、なんというかやはり、馴れ馴れしい。
キーンコーンカーンコーン
温度差のある友情の握手が交わされている頭上から、始業のチャイムが聞こえてくる。
「おっと、もう授業始まっちゃうね! それじゃあまたね! 智沙子ちゃん」
素早く手を離すと、千隼くんはあっという間に教室へと吸い込まれていった。
始業チャイムが鳴って、いつのまにか廊下にいた生徒たちの姿はない。そこにはわたしだけが取り残されていた。
「って授業!」
鳴り終えたチャイムが告げるのは、無情にも授業の始まり。
本来ならば机に座って教科書ノートを広げ、やがてくる先生を待つだけの状態でなければならないこの時間に。あろうことかわたしは廊下の真ん中。教室までの距離は遙か。
ああもう。
移動教室を忘れていたわたしが悪いのか、薄情にも置いていった友人が悪いのか、引き留めた隣のクラスの金髪君が悪いのか、それともそれらの接点である幼なじみが悪いのか。
結論として、わたしはすべての責任を淳平に押しつけて、廊下を駆け抜けた。
◆
「……散々だった」
本日何度目かのチャイムが鳴る。放課を告げるその音に、わたしは開放感を覚えて机に突っ伏した。
本当に散々だった。間に合わなかった授業はよりにもよって地学。地学担当は地層をこよなく愛するとともに、時間にものすごくうるさい。遅れてやってきた生徒は先生の目の前に用意された特等席にもれなく招待され、授業時間めいいっぱいの集中砲火を浴びせられるのだ。
それはわたしも例外ではなく、これでもかという特別待遇を存分に味わうこととなった。「お前が無駄にしたこの5分も、地層を形作るためにはなくてはならない5分間なのだ」というスケールが違いすぎるがゆえにピンとこない説教を食らいつつ、黒板を消す度巻き起こるチョークの粉にまみれながら50分を過ごす精神的苦痛はわたしの肩の筋肉を見事なまでにばっきばきにしてくれた。
「バカね。何であんなに遅れたのよ。それならいっそのことサボった方がましだったんじゃない。それこそ保健室に行って、長谷といちゃついてくればよかったのに」「そうかもね……って、は!?」
頭上から聞こえた小彩の声に、途中まで突っ伏したまま応えていたが、聞き捨てならない物言いに思わず跳ね起きる。
「ななな何言ってんの!? いちゃつくわけないじゃん!」
「智沙子、動じすぎ」
小彩は慌てふためくわたしとは対照的に落ち着いた様子で、しかしその口角はしっかりと楽しげだ。
「動じてない」
「あんたってわかりやすいよね。長谷のこと気にしてるの丸わかり」
「な……」
なんということだ。言葉が出ずに、わたしの口はぱくぱくと意味なく開閉する。
「言ったでしょ、ばればれだって。まあ、あたしは楽しく応援させてもらうからさ」
「ち、違うよ!?」
「誤魔化したって無駄だからね。みんな何となくわかってるよ。気づいてないの、本人だけ」
「なんと!?」
ばればれというのは、わたしの気持ちの方だったのか。
今日はやたらと動揺する日だが、これが最高潮かもしれない。
ひっそりと隠していたはずなのに。おかしい。なにがどうしてこうなった。
驚愕に打ち震えるわたしを、小彩は楽しそうに眺めている。
「まあ、そういうわけだからさ。頑張んなさい。それじゃああたしは部活だから。また明日」
「あ、ちょっと小彩!? 待ちなさい……」
引き留める言葉も意味なく、小彩はさっさと行ってしまった。
どうしたものか。いや、どうしようもない。
小彩にばれてしまっているなんて、予想だにもしていなかった。しかも彼女の言い方からすると、ほかのクラスメイトにもばれてしまっているらしい。
このうえない恥ずかしさがこみ上げてくる。
ここが自室だったなら、布団を被って転がりながら謎の奇声を上げたいところだ。残念ながらここは教室の中。まだ帰っていないクラスメイトも何人か残っている。こんなところでそれを実行してしまったら、それこそ恥ずかしいどころの騒ぎではなくなる。変人認定をされ、残りの学生生活を奇異な目で見られて過ごすことになるだろう。それだけは避けたい。
……とりあえず、帰ろう。
帰りながら、歩きながら落ち着いて整理しよう。
わたしは荷物を鞄にまとめて、机から立ち上がる。
教室を出る時、三列はさんで右斜め前方。そのままになっている荷物が目に付いた。
淳平はまだ、戦っているのだろうか。
随分と長い間、彼は戻ってこない。大丈夫だろうか。怪我をしていないだろうか。無事帰ってくるのだろうか。
急激に不安が押し寄せ、心配になる。だけど、どうしようもない。自分の気持ち以上に、どうすることも出来ない。
わたしに出来ることは、待っていることだけ。
何も出来ないことがこんなにももどかしいとは。
彼のいない景色が、こんなにも寂しいとは。
会いたいな。
傾きかけた夕日、夕暮れの帰り道がどうしてか胸を締め付ける。
まだ、春のにおいが残る風が吹く。
わたしは走り出していた。
◆
すっかり人気のない教室はやけに静かだ。
窓から差し込む夕日を穏やかに受け入れてその色を優しげな橙に染め上げている。
時折聞こえる、部活動の人の声。バットがボールをとらえる音。
窓から見下ろすグラウンドの景色、そこにいる人たちがとてもまぶしい。
「あれ? なんでいるの?」
待ちわびた声は、期待していたものより素っ頓狂だ。
わたしが待っているなど、思ってもみなかったのだろう。
「待ってちゃ悪い?」
「いや、悪くないけど。お前、いつもすぐ帰るじゃん。ドラマの再放送だなんだって」
「今日、最終回だったんだから。淳平のせいでみれなかった」
「まじかよ。なんで帰んなかったんだよ。俺のせいにするなよ」
「でも、いいの。待ってたい気分だったから」
射し込む夕日はわたしだけでなく、淳平も同様に照らしていた。
白いシャツが夕日色に染まっていて、これではレッドと言うよりオレンジだ。
教室を飛び出す前は貼られていなかった絆創膏。小さな擦り傷は一つだけではないようだ。
会えないことが心配だったのに、会ってしまったら余計心配が増えてしまった。きっと心配が尽きることはないのだろう。
「なんだよ、ちさ。黙ってみてるだけとか気持ち悪いぞ?」
「気持ち悪いとか失礼ね。ほら、さっさと教科書片づけてよ」
「へいへい」
心配させないで。
そんなこと、頼めやしない。
彼が戦う限り、心配しない日なんてない。
一緒にいたい。
それは、なおさら頼めやしない。
わたしは一緒に戦えやしないし。それに、そんなこと言ったら伝わってしまいそう。
だから、わたしが頼むのはこれでいい。
「もんじゃ」
「へ?」
エナメルバッグを肩に掛けた淳平がきょとんとする。
「もんじゃ食べに行きましょ。今度こそ一緒に」
「……ぷっ」
すこし間を空けて、淳平は大笑いする。
「なんで笑う。わたしはすっごく行きたかったのに。淳平のせいで行けなかったんだからね!」
「ああ、わかったよ。行こうぜ。もんじゃ」
「よし! じゃあ行こう! 今!」
「今!?」
「もちろん淳平の奢りね」
そう告げたわたしの笑顔は、おそらく今日一番。
はやく、そう淳平をせかして。わたしたちは夕暮れの教室を後にする。
不思議だ。
あれだけ胸を締め付けていた感情は、もう何処かへと行ってしまった。
代わりに今は、いつもより速くなった鼓動がこの胸をあたたかさでいっぱいにしている。
淳平といるから。
理由がそこにあることを、認めるのはすこし悔しいけれど。
わたしはもう、この気持ちに嘘はつかない。
予約満員のもんじゃ屋さん。
もちろんその日も満員で、だからもんじゃは食べれなかった。
だけど、それでいい。
久しぶりに一緒に過ごせた。
また、次回。その約束ができた。
それだけで満足。
世界の危機を知ったとしても、わたしの人生は平凡で劇的な変化は訪れない。だけど、わたしにもわたしの戦いがある。
訪れた些細な変化。いつもの日常から少しだけ、淳平の姿がいなくなる。
たったそれだけ。それだけのことが、わたしにとっての戦い。
君がいることが私の日常の大前提。
だからこれは、紛れもなく世界の崩壊の危機だ。
君といられる日常を守り抜くために。
わたしもまた、この身を賭して戦うのだ。