ヒーロー本編 | ナノ

2



 ◆

 ちさの様子がおかしい。
 そのことに気づけたのは、あいつが生徒会に入ったと言う話を後輩である八戸から聞いたときだった。
 この前急に張り出された生徒会の掲示。生徒を順位付けして、生徒会の方針に従わない奴らを名指しで公表し、退学という脅しをかけて従わせようとするくそみたいな政策。それを作ったのがあいつであると。あいつが学費の免除を条件に、生徒会のスパイとして一般学科のクラスメイトたちの情報を売ったのだと。

 正直、冗談だろうと思った。
 けど、あいつはそれを否定しない。クラスから孤立して、友達からも距離を置かれて。ひとりぼっちになっても、否定することをしなかった。
 話を聞こうと思っても、いつの間にかあいつは姿を消してしまう。だから、本当のことは何一つわからない。
 少しくらい話してくれてもいいじゃねえか。と思う。一応、幼馴染みなんだし。相談の一つくらい、してくれてもよかったじゃねえか。
 むかつく。
 でもそれは、あいつにだけじゃない。
 よく考えれば、前兆はあった。帰宅部のはずなのに、妙に放課後忙しそうにしていたし。暇なのかと思うくらい顔を出してた由良さんちにも、ここ最近はめっきりこなくなっていたし。 
 腹が立つのは、自分自身にだ。あいつが抱えていたものに、何一つ気づいてやれなかったのだから。

「長谷せんぱーい! 先輩のマネージャーとして、今日もすみれがご自宅まで送ってさしあげますよお! 部活で疲れたお身体を、すみれが全身全霊で癒して差し上げます!」

 野球部の練習が終わり、着替えをすませ部室から出た俺を待ちかまえていたのだろう。八戸が右腕にしがみついてくる。
 ここの所、夏の大会に向けて助っ人として部活を手伝っているのだが、毎日のように彼女は俺を待っている。助っ人をいたわるのはマネージャーとしての大切な責務。だと彼女は言うが、本当にそうなのだろうか。後輩として慕われるのはまあ、悪い気はしないが。マネージャーが優先すべきは、俺よりも他の野球部員じゃないのだろうか。

「八戸、別に毎日家まで付いてこなくていいぞ? 俺ただの助っ人だし。蹴人とか、部員のサポートに専念しろよ」

「それはマネージャー先輩である向井さんのお仕事なので、すみれはいいのです! 汗くさい坊主頭の相手なんてしたくないですから……じゃなくて、すみれはせんぱいの担当って決まってるからいいんです」

「本当かよ」

「ほんとうですう」

 小さく作った握り拳を顔の前に二つ並べて、八戸はにっこりと微笑む。野球部のマネージャーといいつつも、彼女が練習に参加しているところは見たことがない。制服のまま日傘を差して、木陰で俺の応援をする。というのが彼女の部活動らしい。なるほど、蹴人が頭を悩ますわけだ。

「ささ、帰りましょう長谷せんぱい! 帰り道の交流を深めましょうー!」

 がしりと掴んだ右腕をぐいと引っ張って、八戸は俺を引きずっていく。こんな感じで、ここ最近は毎日彼女と帰り道を共にしている。蹴人たちに悪いなと思いつつも、その熱意に気圧されるのと、断る理由が特にない、ということでずるずると彼女のなすがまま腕を引かれて歩く。
 蹴人や部員の何人かはこの後も自主練習を続けるようで、日が完全に沈んで球が見えなくなるまでノックや走り込みをしている。そのかけ声を聞きながら一足先に校門を後にしようとしたところだった。

『緊急放送――緊急放送――』

 校舎の方から、ただならぬ警告音が聞こえてくる。

「? なんですかねぇ。東棟で爆発? めずらしい事もあるんですね。まあ、エリート学科の校舎なら消火装置も最新式でしょうし、問題はないでしょう。でも、万が一の事がありますから、危険が及ぶ前に帰りましょう」

 ざわざわと騒がしさが学園中を伝搬している。
 なんだかいやな予感がした。
 本当にただの爆発なのだろうか。そんな疑念が浮かんだが、それが膨らむよりも早く、八戸が俺の手を引く。
 ――きっと気のせいだろう。
 もし宇宙人の仕業であれば、その前に由良さんからの連絡が来ているはず。考えすぎだと、いやな予感は忘れることにする。

「長谷!」

 歩きだそうとした時、後ろから呼び止める声がした。

「横山?」

 息を荒らげて走ってきたのは、クラスメイトの横山小彩だった。

「どうした?」

 ただならぬその様子に、思わず問いかける。

「智沙子、見なかった?」

「ちさ? 今日はさっさと帰ったんじゃないのか」

 放課後、ちさが生徒会室のある中央棟ではなくまっすぐ昇降口に向かっていったのを見た。だからとうの昔に家に帰っているはずだ。しかし、横山は首を振る。

「これ……」

 彼女が差し出したのは、見覚えのある鞄。それは紛れもなく幼馴染のもの。

「男子生徒が持ってるの見て、変だと思って問いただしたの。そしたら、エリート科の生徒に頼まれたって……東棟に連れて行かれたみたい。……どうしよう。智沙子、まだ東棟にいるかもしれない!」

 横山の声は震えていた。声だけじゃない。その瞳も鞄を持つ腕も、その身体で抱えきれない、どうしようもない不安を叫んでいた。
 俺は彼女の肩を掴んだ。

「大丈夫だ」

 そして、走り出す。
 呼び止める八戸の声。東棟から聞こえる警報の音。すべてを追い越して、走る。
 助けを求める声が、確かに聞こえたから。


 ◆


 東棟に足を踏み入れるのは初めてだった。
 普段自分たちが使っている西棟よりも古くからある、この学園の歴史とか成り立ちとか、正直あまり興味はないが由緒正しき伝統ある校舎、という話は何かにつけて聞かされる。とはいっても、ぱっと見た様子だとあまり古い感じはしない。むしろ新設された西棟よりも設備が整っていて、手が込んでいる気がする。
 校舎の様子をよく見て回る余裕はない。急いでちさを探さなければ。
 爆発が起きたという放送が合った割にはあたりの様子が落ち着いているように感じられた。既に下校時刻を過ぎ、校内に人気が少ないせいもあるだろうが、それにしても爆発や火事があったならもっと騒ぎになっていても良い気がする。煙のにおいもしなければ、火災警報機が作動している様子もない。爆発があったというのはただのデマなんじゃないのか? 
 そう思いながら校舎内を走り回っていると、倒れ横たわる生徒を発見した。もしかしたら、爆発に巻き込まれたのかもしれない。急いで駆け寄る。

「おい。大丈夫か!」

「……」

 返事はない。
 まさか、いやな予感にあわてて呼吸を確かめると。

「ぐう……」

 驚くほど間の抜けた寝息が吐き出された。
 どうやら、この生徒はただ眠っているだけらしい。慌てて損した気分だ。しかしなんで、こんな何もない廊下のど真ん中でこの人は眠りこけているのだろう。
 見ると外傷も服の乱れも一切ない。この生徒は本当にただ眠っているだけなのだ。
 
「おーい」

 ぺちぺちと頬をたたいても、目を覚ます様子はない。ぐっすりと夢の世界に浸ってしまっている。とりあえず彼を移動させて、廊下の壁に寄りかからせる。
 そのとき、開いていた教室のドアが目に入った。その中で、数人の生徒が同様に倒れ突っ伏している。机に突っ伏している物もいれば、教壇をベッドにしているものもいる。誰もがみんな、すうすうと穏やかな寝息をたてている。
 一体なんだ? エリート科の一般人にはわからない流行か何かか?
 異様な光景に、まばたきを二回。

 ぐらり。
 突然襲った振動が、平衡感覚を狂わせる。

「おっとと……」

 何とか体制を立て直して、転ぶことは避けられた。
 
 ずん……ずん……

 何かが這いずり回っているような、おだやかなテンポで響く大きな足音のような、そんな振動が校舎全体を振るわせている。
 地震、ではない。この振動は覚えがあった。なら。生徒たちが眠っているこの異様な光景も、きっとすべて元凶はひとつ。
 携帯の画面をみる。しかし、由良さんからのメールは来ていない。
 けれど、この感覚は。心臓が高ぶる、行かねばならぬという衝動に突き動かされるような感覚は、紛れもなくこれまで対峙してきた侵略者たちの気配だ。
 ポケットから取り出したのは赤い宝石。悪と戦うための力の結晶。それを天高く掲げて、思い切り叫ぶ。

「変身!」

 全身に力がみなぎる。正義の力、戦うための、守るための力を纏う。

「ヒーローレッド!」

 変身した俺は全速力で廊下を駆ける。ヒーロースーツは身体機能を格段に向上させてくれる。直感が導くまま、たどり着いたその先に待ち受けていたのは廊下を所狭しと埋め尽くす、大きな岩。もとい、岩のような表皮を持つ亀のような宇宙人。

「やっぱりおまえか、タトールゥ!」

「アデ? レッド? ナゼコナトコニ?」

「なぜって、それはこっちの台詞だ。もしかして、またただ歩き回ってるだけなのか?」

「ウウ? チガウダヨ。コンドハチガウ」

「違うのか?」

 よくわからないが、今回はただ動き回っている訳ではないらしい。じゃあいったい何のために。聞こうとしたそのとき、突如紫色の粉塵が視界のすべてを埋め尽くした。

「っ……!?」

 ただの目くらましかと思ったが、どうやら違う。ヘルメット越しに吸い込んだ空気に、視界がくらりと歪む。
 とっさに後ろに飛び退き、紫色の煙から距離をとる。

「遊んでる暇はないぞ、タトールゥ」

 ノイズ混じりの声とともに、煙の中から新たな敵が姿を現す。
 両手の鋏と巨大な尻尾。赤紫の堅い甲羅に全身を覆われたそいつはまるで二足歩行のザリガニのような姿をしていた。

「アソンデネエド。レッドハトモダチダデ」

「ふむ。なるほど。そいつがおまえの言っていた同族狩りか。確かに同胞の気配をまとっている」

 煙幕の中で、なにやら話し声が聞こえる。タトールゥに比べて、ザリガニ野郎はいくらか頭が良さそうだ。今まで戦ってきた宇宙人たちに比べても知的な雰囲気を醸している。

「おわっ!」

 一体何を話しているのか、その声に気を取られていると、煙の中から一撃が飛んでくる。間一髪でそれをよける。先ほどまで自分が立っていた場所に大きな穴があいていた。

「学校壊すんじゃねえよ!」

 廊下に穴をうがったそれは、ザリガニ野郎の尻尾。槍のように鋭くとがった先端が、強靱な尾とともに振り回される。次々と襲い来る一撃をなんとか避けるも、校舎への被害はどんどん大きくなるばかり。
 四つの節から成り立った巨大な尾を巧みに用いたその攻撃からみて、ザリガニ野郎というよりはサソリ野郎と言った方が正しかったようだ。

「タトールゥ、こいつ止めてくれ! んで前みたいに大人しく家に帰れ! このままじゃ校舎がめちゃめちゃになっちまう」

「スマネエダ、レッド。ソレハデキン。キョウハサンポトチガウ。シャルロットサマノメイレイダデ」

「シャルロット……?」

 初めて聞く名前だ。そいつがタトールゥたちのボスか何かか?
 考えるまもなく、再び鋭い一撃が頬を掠める。直撃はしていないというのに、風圧だけで気圧される。よろめいた身体に、たたき込まれる一撃。

「ぐっ」

 内蔵をえぐる重い衝撃。勢いのまま壁に叩きつけられ、背骨が軋む。むせかえる痛みと吐き気に思わずせき込む。

 ――こいつ、強え!

「レッド、スマネエダ!」

 続けてタトールゥがその拳を振り上げる。
 岩のように堅いその塊は、いともたやすく人間の体を吹き飛ばす。

「ぐあ……」

 とっさに防御するも、構えた腕ごと打ち砕かれる。宙に浮いた身体が再び地面に叩きつけられ、ごろごろと転がる。
 今まで対峙してきた敵よりもはるかに強い。敵として俺を倒そうという明確な意志がそこにある。倒れ込んだ床の堅い感触が全身の骨を軋ませる。スーツに守られているはずの身体に、激しい痛みが走った。 

「終わりだ!」

 かけ声と共に、サソリ野郎の尻尾がものすごい早さで飛んでくる。避けなければ、そう思うのに身体が言うことを聞かない。


「な、なんだお前等はァ!?」

 そのとき、どこからか怯えに満ちた叫び声が聞こえてきた。
 突然の声に驚いたのか、サソリ野郎の動きが止まる。
 教室のドアを開いて、突如紛れ込んできたのはゆるくウェーブのかかった黒髪が特徴的な一人の男子生徒。目の前の異形の集に驚き、腰を抜かしている。

「邪魔を」

 サソリ野郎の瞳がぎらりと男子生徒を睨む。
 そのとたん、蛇に睨まれた蛙みたいに男子生徒は竦み上がる。と、思えばその眼球がぐわんと上を向き、ばたんとその場に倒れ伏す。サソリ野郎の放つ眠り粉のせいだろう。
 意識を失った生徒に、無情の矢は注ごうとする。サソリ野郎の尻尾がぎゅんと弧を描き、生徒の脳天をめがけて一直線に飛ぶ。

「させねえ……!」

 目の前の人を助ける。それこそがヒーローの存在意義だ。
 めいいっぱいの力を振り絞り、最高速のスピードで、俺はサソリ野郎の攻撃を受け止めて防ぐ。なんて重い一撃だ。あまりの衝撃に全身が後ろへと持って行かれる。倒れそうになる足を何とか踏ん張って凌ぐと、鋭いサソリの尻尾をがしりと両腕で掴む。
 こうして掴んでしまえば、振り回されることはない。

「離せ! くっ、何をしているタトールゥ! こいつを引き離せ!」

「ア、アイヨ……!」

 尻尾を捕まれたサソリ野郎から余裕が消える。眠り粉を辺り一帯にまき散らして、力任せに尻尾を振り回そうとする。
 指示を受けたタトールゥが、ためらい混じりの返事と共に前進してくる。そのままこちらにタックルをかまして、無理矢理引き離すつもりなのだろう。
 そうはさせねえ。奴がこっちに来る前に、ケリをつけてやる!

「うおおおらああああああ!」

 さらに力を振り絞り、俺はサソリ野郎の尻尾をがっしりと掴んだままその場でぐるぐると回転をはじめる。サソリ野郎の図体がゆっくりと浮き上がり、俺を軸に円を描き始める。ぐんぐんとその速度が速まっていくと共に、風を巻き上げ、すべてを巻き込み旋回する。それはまるで竜巻のように、校内を満たす煙を、暗雲を吸い上げ、タトールゥをも巻き込んで巨大化していく。

「飛んでけええええええええええ!!」

 回転がピークに達すると共に、俺は掴んでいた尻尾を話して遠くへと放り投げた。

「あああああああああ」

「ナンダズウウウウウ」

 フルスピードの勢いのまま、宇宙人たちは飛んでいく。窓ガラスを突き破り、雲に穴をあけて、その空の彼方まで。
 キラーン。
 遠くの空の星となる。これぞ必殺・超☆砲丸投げ!

「はあ、はあ……やったか」

 なんとか勝つことができたようだ。よかった。安堵と共に息を吐く。
 砕け散った窓ガラス、穴のあいた廊下に、そこらじゅうひびだらけの校舎の壁。なかなかの損害だが、はたしてこれは爆発事故の範疇に収まるのだろうか。
 頭を悩ませたのは5秒だけ。金持ち私立校の校舎だ、寄付金とかできっとなんとかなるだろう。それより、ここにいて誰かに見つかる方がまずい。
 宇宙人たちの気配はもう感じない。これ以上被害が出ることはおそらくないだろう。だが、肝心のちさがまだ見つかっていない。

「あいつ……どこにいったんだよ」

 独り言ちたそのすぐ後、きらり、視界の先で何かが光った。
 それは倒れている男子生徒すぐそばに。おそらく掌からこぼれ落ちたのだろう。何かと思い近づいて拾い上げてみると、光の正体は金色に輝くバッジだった。

「なんか、見覚えが……」

 思考をフル動員させて、記憶の箱を片っ端からひっくり返す。
 そして、思い出す。
 あいつの襟元で輝いていた、金色の光。 

「おい、起きろ! おい!」

 そうだ、これは生徒会のバッジだ。
 なぜ男子生徒がこれを持っているのか。見る限り彼は生徒会の人間ではない。ちさ以外の生徒会の二人が、バッジを無くすとも考えにくい。このバッジはちさの物で間違いないはずだ。
 どこかで拾ったのか。それなら一体どこで。それらを聞き出すためにも、話を聞きださなければ。
 しかし、どれだけ揺さぶっても、頬をたたいても、彼を深い眠りから引きずりあげることはできない。

「くそ……」

 彼から情報を聞き出すことは出来なさそうだ。
 手がかりはこの生徒会バッジのみ。だが、間違いなくちさはこの校舎のどこかにいるばずだ。他になにか手がかりはないか。辺りを見回す。
 そういえば、戦いの中この男子生徒はこの教室から出てきたのだった。見上げると、『科学準備室』のプレートが掲げられている。一般科とエリート科は違うのかもしれないが、授業で実験を行う時くらいしか出入りしないような場所だ。 
 どうしてこいつはこんな所から出てきたんだ?
 浮かび上がった疑問符が、輝いた黄金色と結びついて一つの答えが生まれる。
 
 俺は勢いよく、科学準備室の扉を開け放った。 

 ◆

「…………」

 遠くで、近くで重音が響く。そのたびに起きる振動が、身体と心をひどく揺さぶる。
 あれからどれくらいの時間がたっただろう。暗闇の中に取り残されて、なにもかもがわからない。ひしめく恐怖と不安が波のように寄せては返し、なんだかひどく疲れてしまった。
 お腹が空いた。それに、なんだかとても寒い。膝を抱えて小さく身体を丸めて、わたしは必死に心細さに耐える。
 はじめは大げさに思えた恐怖が、時がたつごとに現実味を帯びていく。このまま誰にも見つけてもらえず、そのまま死んでしまうのではないか。
 もし、そうなったとして。きっとだれも私の事なんて気にとめやしない。だって私は皆を裏切った、最低の人間なのだから。

――そう、これは当然の報いなのだ。
 仕方なしとはいえ、わたしは皆に黙って生徒会に荷担したのだから。
 ううん、違う。わたしが生徒会に従ったのは、自分の身を守るためだ。
 皆を巻き込みたくなかったなら、学校を辞めることになったとしても生徒会に入ることを拒めばよかったのだ。けれど、それができなかった。私は、何より自分を大切に考えてしまったのだ。

「……っ」

 ごめんなさい。ごめんなさい。
 責められたって、どんなひどい目に遭わされたって、全部当然のこと。全部わたしが悪いのだ。これはきっと、罰なんだ。
 視界がぼんやりと霞んでいく。瞳にたまった滴が、ぼろぼろとあふれてくる。
 助けなんてこない、来るはずがない。私がここにいることを誰も知らない。いなくなった私を気にとめて、探してくれようとしてくれる人ももういない。みんなみんな、私がその手を振り払ってしまったのだから。
 淳平の顔が浮かぶ。来るはずがない。彼は、この世界のために戦っているのだから。私になんて気づくはずもない。当然のことだ。
 それでも、愚かにもわたしは願ってしまう。

「……たすけて」

 力ない声は暗闇にのまれて、誰に届くこともない。嗚咽だけがただ、無機質なコンクリートに反響していた。



――みつけた。

 声が聞こえた。それはとても優しく、懐かしく、強く。
 それとほぼ同時に、世界を覆っていた暗闇に一筋の光がはしる。ゆっくりと開かれたドア、そこからあふれたまばゆい光。

「ちさ!」

 まっすぐにのばされた掌。

「うそ……」
 
 これは、幻だろうか。まぶしさに目がくらんで、一時の夢を見ているのだろうか。
 けれど、名前を呼ばれた瞬間にそれが確かに目の前にあることに気付く。そして。私の心はこれ以上ないほどの安心に満たされていく。

「助けにきた」

 
 真っ赤な色をまとった、正義のヒーロー。
 光をその背に受けて、真っ暗な闇を一瞬で振り払ってしまう。ヘルメットに隠されたその顔は、きっとまぶしいほどの笑顔なのだろう。
 はらはらと、止めどなく涙があふれてくる。それの持つ意味は、さっきまでとは全く違っていた。
 
「きてくれるなんて……思ってもみなかった」

「ばーか」

 あたりまえだろ。日溜まりのような声が、凍えきった世界を溶かしていく。
 
「助けにくるに決まってんだろ。俺は、正義の味方だぜ?」

 涙を拭って、その掌を掴む。
 伝わる体温。暖かい温度。それだけで、これまでの孤独と不安もが嘘みたいに吹き飛んでしまう。

「……ありがとう」

 彼は正義の味方。世界のために戦うヒーローだ。
 けれど、いまこの瞬間だけは誰にとってでもない。私だけのヒーロー。暗闇を引き裂いて、世界を光で満たしてくれる。
 その姿がまぶしくて、握りしめた掌にぎゅっと力を込めた。


 ◆


 校舎から出ると、時刻は夜の8時半。
 下校時刻を過ぎているうえ、東棟の調査のため生徒たちのほとんどは帰宅させられており、学園内はしんと静まりかえっていた。
 あれだけの騒ぎのあとだ、もう少しその余韻がのこっていてもおかしくはないはずだが、騒ぎの拡大を押さえるために学園側が手を回したのだろうか。
 そんなことを考えていると、前方からある人物が走ってくる。その姿に私は驚き、同時に胸の奥がすうっと楽になるような安堵を覚えた。

「智沙子!」

「小彩……どうして?」

 こちらにかけてきたのは小彩だった。
 心配そうに眉根を下げた彼女は私が無事であることを確かめて、それからふうと息をついた。その手には大事そうに私の鞄とジャケットが抱えられていた。

「横山が教えてくれたんだ。ちさが東校舎に連れて行かれたって」

「そう、なんだ……」

 あの一見以来、小彩と顔を合わせるのは久しぶりだった。
 気まずさを感じているのはお互い様のようだ。ぎこちない動作で、小彩は私に鞄を差し出した。

「見覚えのある鞄を知らない男子が持ってたから、気になって……聞き出したの。中身は無事だと思う」

「ありがとう……小彩」

 小彩から鞄と上着を受け取る。その瞳はそらされたまま。
 それでも、うれしかった。たとえ許してもらえなくても、小彩の優しさが本当にうれしかった。

「……」

 受け取ったはずの鞄。しかし、小彩はその手を離さなかった。

「小――」

「ごめん」

 やっと振り絞るように、彼女の唇から言葉が紡がれた。
 そして、はじめて目があった。

「ごめん、智沙子。私、友達なのに……あなたに酷いことをしてた。学校の中でひとりぼっちだったこと、わかっていたのに見て見ぬ振りをした。ごめん、本当に。ごめんなさい」

 まっすぐに見つめてくれた瞳は、深い後悔の色に染まっていた。
 小彩は、小彩なりに悩んで。心を痛めてくれていたのだ。
 そんなことない。彼女が謝る必要なんて、苦しむ必要なんてこれっぽっちもないのだ。

「謝るのは私の方だよ。大事なこと、小彩に、皆に黙って。そして裏切ったんだから。生徒会長が言ったことは本当だし、いいわけするつもりはない。全部私がやったこと。悪いのは、私なんだから。謝ったって、許されることではないけど……ごめんなさい」

 鞄をぎゅっと掴んだまま、わたしは深く深く頭を下げた。
 許してもらえなくても、この気持ちだけは伝えたかった。

「もうさ、仲直りって事でいいんじゃねえ?」

 そう言ったのは淳平だった。
 気まずさや、ためらいをすべて無視して、放たれたのはなんとも彼らしい一言。それは、今のわたしと小彩の間にある壁を壊すには十分すぎる効果をもっていた。
 ちらり。わたしは小彩に視線をやって、その意志を確かめる。
 小彩も同じように、緊張した面もちでわたしを見つめていた。

「ふふっ」

 小彩が吹き出す。

「そうだね。なんか、馬鹿みたいだもんね。こんな風にぎくしゃくするの。友達なのにさ。考えてみれば、智沙子が生徒会ってだけでおかしな話なのにさ。何か訳がないはずがないって、どうして考えられなかったんだろうね」

 やわらかな小彩の笑顔。久しぶりにわたしに向けてくれた、屈託のない感情。からかうようなその口振りも、すべてが優しく輝くようで。

「わたし、信じたい。智沙子のこと。だから話して。理由があったんでしょ?」

 小彩はまっすぐな視線をわたしに向けてくれる。
 あのときの疑念に満ちた瞳とは違う。何もかも受け止めようと意志を秘めた強く優しい瞳だった。
 その瞳に応えずして、彼女の友達であろうなど言えるはずがない。

 わたしはすべてを話した。
 生徒会に選ばれたこと、それを断ることが出来なかったこと。誰にも話してはならなかったこと。
 誰にも話せなかった秘密が、ひとつ、ひとつ解けていく。
 その度に、わたしをがんじがらめになっていた糸が消えて、すうっと楽になっていく。わたしを縛っていたそれは愚かで、自分勝手な弱さ。汚く、狡猾な脆さ。
 頑なに抱え込んでいたそれらを、二人は受け入れ、笑ってくれた。

「そんな大事なこと、何で言ってくれなかったのよ!」

「そーだぞ。相談くらいしてくれてもよかったじゃねえか。幼馴染みだろ?」

「だから、言える訳ないじゃない! ばれたら大変だし。何より巻き込んで、迷惑をかけちゃう」

「馬鹿ね。巻き込まれるくらい、どうってこと無かったのに。友達を信じられなくなるより、数倍マシ」

「そうだ。横山の言うとおり。変な気を使ってんじゃねえよ。大変な時は遠慮なく巻き込めよな。力になってやる。どんなときだって味方になってやる。それが友達だろ」

 小彩の、そして淳平の。迷いのない強い言葉。
 不思議だ。今までの苦しさが、不安が、立ちこめていた暗闇が晴らされていく。

「……ありがとう」

 もう、ひとりじゃない。
 ひとりで戦おうとも思わない。
 こんなにも心強い味方が、すぐそばにいてくれたのだから。
 頬を伝う滴はぬくもりを得て、もう冷たさなんて感じなかった。


 ◆


「おはよ! 智沙子」

 昇降口に響いた元気な声がわたしの肩を叩く。
 ざわ、周囲の空気が驚きに揺いだ。

「おはよう。小彩」

 昨日の一件から、小彩は以前のようにわたしに接してくれるようになった。彼女は許してくれたのだ。そして、一緒に戦ってくれる道を選んでくれた。
 生徒たちの中では、相変わらずわたしは裏切り者の生徒会役員だ。わたしのしたことは覆らないし、広まった認識は簡単には塗り替えられない。それでも。

「よお、ちさ。横山」

 後ろから声をかけてきたのは淳平だ。

「長谷! 朝からあんたがいるなんて珍しいじゃん」

「まあなー。俺だってたまにはちゃんと登校するっての」

「たまには、じゃなくて毎日朝から来るのが普通なの。ね、智沙子。家となり同士なんでしょ? あんたが面倒見てあげた方がいいんじゃない」

 にぎやかな二人の声が、周囲のざわめきを打ち消していく。
 たった二人の味方。それでも、これ以上ないくらいに心強い。

「あれ? そういえば智沙子、リボンは?」

「ああ、昨日の騒ぎの中で無くしちゃったみたいで。あとで購買で買ってくる」

「生徒会役員が服装乱してたら元も子もないもんね」

 茶化すように小彩が言った。
 それとほぼ同じタイミングでこちらに人が駆け寄ってくる。

「小彩! 大変大変。みた? 生徒会の新しい掲示が出てるって」

 小彩と同じバレー部の子だろう。親しげな様子だが、わたしの顔に気づくや否や顔色を変えて立ち去ってしまった。
 やはり、わたしと一緒にいるのは小彩にとってよくないことなのではないか。そうよぎった思考を、ぐいっとひっぱる掌が振り払った。

「見にいこ、智沙子。長谷も。……なんか聞いてる?」

 ううん、そう応える代わりに首を横に振る。
 休みを言い渡されてから、ここ数日生徒会室には行っていない。何かをすると言う話も当然耳にしていない。
 今度はいったい何なのだろう。いやな予感が拭えない。
 校舎一階の大掲示板。先日の掲示を塗り替えるようにそこに掲げられたのは新たな知らせ。
 形式ばった文章で綴られたそれは――

『先日の掲示を撤回する。
 あれらは本学園の秩序維持・規律強化を目的としたものであり、
 本校に相応しい生徒で在れという戒めの一環である。
 ゆえに名を掲示された10人の生徒の処罰は不問とする』

 僅かな綻びも、この学園には不要である。己の素行を改め、この学園の名に恥じぬよう精進するように。
 そう結んで。突然の掲示は会衆の視線を釘付けにして、堂々と掲示板の真ん中に鎮座していた。

「一体、どういうこと……?」

 動揺が口からこぼれる。
 一度発表した掲示を無かったことにする?
 あの生徒会長が、何の意味もなしにこんなことをするとは思えない。
 要するに、わたしのした調査やそれを元にした掲示は皆に学園の品位を再認識させ、緊張感を持たせるための作為的な政策だったっと。目の前の掲示をみて考えるに、そういうことなのだろう。
 納得が出来るかと言えば、ぜんぜん納得できない。それだけのためにわたしは巻き込まれ、利用されたのだろうか。そんな迷惑な話があってたまるものか。

「よかったな、ちさ。お前のせいで退学の危機に陥る奴はいないってことだ」

 胸の奥をちりりと焦がす怒りを一瞬で消し去る、お気楽な淳平の笑顔。
 確かにそうだ。自分のせいで誰かの人生を台無しにしてしまうその恐怖がなくなったのだ。それにはすこしだけ、胸のつかえがとれた気がする。
 
「生徒会のやることなんざ気にすんな。一件落着、それでいいじゃねえか」

 うんうん。そうひとりで納得して、淳平は一足先に教室へと向かっていった。
 彼の言うとおり、ひとまず安心してよいのだろうか。
 それでも、心はふたたびざわめきはじめる。いろんな可能性が過ぎっては、混雑した感情を生んでいく。

「わたしたちも教室行こ」

 小彩が私の手を引く。
 きっと、このまま考えていたって何もわかるはずがない。
 確かめなくてはいけない。そう思った。
 生徒会長に直接その意志を確かめる。
 それはとても、勇気のいることだけど。
 大丈夫、わたしには味方がいる。繋いでくれる手の心強さ。もう独りじゃない。

 登校してくる生徒が増えていく。それに連なって大きくなるざわめきを背に、わたしはひとつ、決意をかためた。