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――それからのことはよく覚えていない。
ただ、今までにないくらい息を吸うのが苦しかった。
周りの視線や囁く声から逃れるように、教室から出ようとした時だった。
「生徒会室へ来なさい」
直央様がお呼びだわ。
凜凜たる、麻織先輩の声が告げた。
戦え! ロンリーガール!
「――晴れてお前も正式な生徒会役員だ。これからはその肩書きに恥じぬよう、選ばれし人間として励め」
私が生徒会室に足を踏み入れるやいなや、尊大な声が響いた。
それは賛辞なのか、それともただの皮肉なのか。美しく歪んだ口元からは心というものが全く読みとれない。
「麻織」
深く椅子に腰掛けた姿勢のまま、生徒会長は合図を送る。
「はい」
それに一切の無駄のない動きで応えると、麻織先輩はどこかから用意した小さな箱をこちらに差し出した。
透明なプラスチックケースの中、紅緋のスエードに包まれて輝く金色。よく見るとそれはこの学園の校章を模した小さなピンバッジだ。
「それは生徒会役員のみ身につけることを許されたバッジだ。お前が生徒会役員であるという、絶対的な証となる。本来なら、一般生徒はふれることすら許されぬ光輝だ。光栄に思って、恭しく受け取るがいい」
生徒会役員の証。選ばれた物しか与えられることのない絶対的な栄誉。
それが今、私の目の前に差し出されている。これを受け取れば、私は正式な生徒会役員としての地位を手にすることができる。でも――
「受け取れません」
目の前に差し出された餌に、ためらいもなく食いつくほど私は愚かじゃない。勇気を持って、わたしは拒否する。
生徒会長たちになにか企みがあることは、朝の一件で痛いほど思い知らされた。軽率にその言葉を受け入れて、痛い目を見るのは自分だということは分かり切っている。
しかし、そうして放った自分の勇気を、三秒後には後悔することになる。
「お前、一般生徒の分際で直央様のご意志に逆らうなど――」
ぞっとするほどの寒気を感じて、私は身震いした。心臓を鷲掴みにされたような威圧感。野鼠をたやすく殺す毒の視線。それを放っていたのは、目の前の麻織先輩だ。これはまさしく、マンガや映画で耳にする殺気という奴だ。
血の気がすうっと引いていく。殺される、そう思った。
「麻織」
生徒会長の声が静かに響く。
麻織先輩の肩がびくりと震えた。
「なぜ拒む? その権利がお前にあるとでも?」
生徒会長の言葉は私へと向けられていた。
麻織先輩とは違う圧力に、口の中が一気に乾いていく。
やはり、拒むことなど出来るはずもなかった。そもそもそれができたなら、はじめから私は生徒会の仕事なんて引き受けていない。
それでも、簡単には承伏できない。そう思うには訳がある。
「ちゃんと……説明してください」
「説明?」
生徒会長がわざとらしく疑問符をつける。
「どうして公表したんですか。私が生徒会として仕事を引き受けた事。公表しないって、言ってたじゃないですか」
「今朝の朝礼が不満だったのか? 一般生徒から生徒会役員を選ぶ。これはこの学園にとっての改革にほかならない。そんな大きな転換を、公にしなくて何の意味がある。それくらい少し考えれば判るだろう」
そんなことかと、少しつまらなそうな声が言う。
「公表することを伝えなかったのは貴様への配慮だ。公表の機会があると知れば不必要な緊張から醜態をさらすことになるだろう。事前になにも知らなかったからこそ、最低限の醜態ですんだというものだ。むしろ、お前は俺に感謝するべきだ。日の目を浴びることの永劫ないであろう凡人である貴様に晴れの舞台を用意してやったのだ」
私は言葉を失う。なんということだろうか。彼には、善意も悪意も何一つない。ただ発する言葉の通り。凡人へのお情け程度にしか、この事態を受け止めていないのだ。
生きる世界が、感じる思いが全く違う。わかりあえることのない、大きすぎる溝。
「……調査のことだって、聞いてませんでした。あんな風に皆を脅すために使うのならわたしは協力なんてしたくなかった」
それでも勇気を振り絞って言う、精一杯の抵抗。
「その件関しては朝礼で言ったとおりだ。同じ事は二度は言わん。調査の結果をどうするか、それを知ればお前はかならず私情を挟むだろう。支障をきたさず、正確な情報を把握するための最善だ。かつ、お前はただの一役員。己の仕事の真の意味など、知る必要はない」
「……っ」
立っている足にうまく力が入らない。怒りも、悲しみももはや生まれてこなかった。ただただ、どうしようもない脱力感。
私はそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。
「言いたいことはそれだけか? ならば、俺の気が変わらぬ内にバッジを受け取ることだな。貴様は生徒会役員だ。その利用価値を買ってやる。今後はよりいっそう気を引き締めろよ。惨めな醜態をさらすことなく、学園側の人間として凡人どもの監視を徹底することだ」
――そうして、私は生徒会役員の証を手に入れた。
ブレザーの襟元で輝くその金色はまばゆい輝きを放って、視界の全てをくらますようだった。
◆
ひそひそ、ざわざわ。
居心地が悪い。あちこちから聞こえる声が、すべて自分を否定し、非難する指弾に聞こえた。
放課後の楽しげな声も、部活動に励む全力のかけ声も、なんだかすべて遠い世界のもののようで。ひとり真っ暗な世界に投げ出された気分だった。
それもこれも、みんな生徒会に関わってしまったせいなわけで。
夕日を受ける襟元の輝きが憎らしい。なにが光輝だ。こんなもの、手足を縛る枷でしかない。出来ることなら今すぐにでも投げ捨ててしまいたい。
すべてなかったことになればいいのに。胸の内から広がった憂鬱が、ため息となって吐き出される。これからどうなってしまうのだろう。考えるだけで、不安で押しつぶされそうになる。
早く帰ろう。帰って寝てしまおう。どうしようもないときはそれが一番だ。
歩く速度を速め、校門を出ようとした時。
「ちーちゃん!」
こちらに向かって走ってきたのは千隼君だった。
なんだか胸が熱くなる。彼にはいろいろなことを謝らなくてはならない。あれから彼とは話す機会がなく、すっかりタイミングを見失っていた。
「大丈夫? ちーちゃん。なんか大変なことになっちゃったね」
「ううん。それより、ごめんね千隼君。せっかく協力してくれたのにこんなことになっちゃって……」
「いいのいいの! 俺は元々生徒指導の常連だし! 気にしないで。それに、ちーちゃんはなんも悪くない。全部生徒会の企みだ。ごめんね、助けてあげられなくて」
謝るべきは私の方なのに。むしろ、彼から責められたっておかしくないのに。千隼君は申し訳なさそうな顔をして、わたしの心配までしてくれる。
「ごめんね、千隼君。……ありがとう」
「いいって。ホント。こっちもおせっかいだしさ。気にしないで。困ったときに力を借すのが友達ってやつだしさ! これからも困ったときはこのちーくんを頼るがいいさ!」
にっかり笑って親指を立てる千隼君。
夕日に照らされたその笑顔がまぶしくて、涙が出そうになる。
「ありがとう」
ありったけの感謝その一言に込めて、私は千隼君と別れた。
送っていくよ、と言ってくれたのだがそれは断った。これ以上彼に迷惑をかけたくない。それでも帰り道、私の心はほんの少しだけ軽くなった。
けれど。
今日は最悪な日。
最後の追い打ちは、玄関先で私を待ちかまえていた。
と、いっても私の家の前ではない。隣である淳平の家の前。そこにいたのは淳平だった。ここは彼の家なのだから、彼が居るのはおかしくない。しかし問題は、その隣に寄り添う少女の姿だ。
「あれぇー? 生徒会の井上センパイじゃないですかぁ」
甘ったるい生クリームのように、わざとらしく間延びした声。
ふわふわのサイドテールに、真っ赤なリボン。たっぷりとフリルをあしらった特別仕様の制服。一度みたら忘れられない、特徴的な美少女――八戸すみれ。
彼女はあろう事か淳平の腕に手を回して、ぴったりと身体を密着させている。愛らしい口元を彩る得意げな笑み。まるで私をあざ笑うかのようだ。
「すみれ、今朝はびっくりしちゃいました。あなたみたいな人が生徒会に選ばれるだなんて」
わざとらしい声が楽しげに傷口をえぐってくる。こういうときは相手にしない方がいい。わかっているのだが、ついつい勘ぐってしまう。どうして彼女がここに、しかもよりにもよって淳平と一緒にいるのだろう。もやもやとした疑問が暗雲となって心に陰を生んでいく。
振り切るように、私は彼女を無視して自宅の門をくぐる。
「友達やクラスメイトを裏切るのはどんな気持ちなんですか? そうしてまで、生徒会に取り入ろうだなんて必死すぎて引いちゃいますぅ」
「――っ」
そんなわけないじゃないか。
わたしは思わず、八戸さんをにらんでいた。
「きゃ、こわーい。ね、長谷センパイ」
わざとらしい猫なで声で、彼女は淳平の腕にしがみつく。それがまた苛立ちを大きくさせる。
淳平も淳平だ。何か言ってくれればいいのに。不機嫌にとがった私の瞳が、八戸さんを越えて淳平を映す。
お昼頃、遅れて教室にやってきた彼は集会での出来事はしらないだろう。。けれどきっと、クラスの中に蔓延する異様な空気は感じただろうし、誰かにしら大方の話を聞いているだろう。
皆に黙って生徒会に協力していた私のことを彼だってきっと、軽蔑したに違いない。
「ちさ。八戸から聞いた。お前、生徒会に入ったんだってな。なんで何も言ってくれなかったんだよ」
わたしは答えに詰まる。まっすぐな淳平の視線から逃れるように、目をそらした。
「言える訳ないですよね。皆に黙って生徒会に情報を売ってるだなんて。低俗すぎですもの。ねえセンパイ。そんな下劣な手を使ってまで、生徒会長に気に入られたかったんですか?」
彼女の言葉はもっともだった。私に否定する権限はない。どんな言葉を返したところで、それにもう力はない。
何かを言い返す気力さえなかった。わたしは無言のまま、玄関のドアへと手をかける。
「おい、ちさ――」
力一杯しめたドアの音で淳平の声を遮った。そのあとの言葉を聞くことが怖かった。きっと彼も皆と同じように、わたしに失望しただろうから。彼にだけはやっぱり嫌われたくない。でも、きっともう手遅れだ。
ドアに鍵をかけてへたりと座り込む。わたしは独り、力なくドアにもたれた。
◆
それからの日々は、夕立の前の暗雲がいつまでも立ちこめているかのようだった。どんよりと沈んだ重苦しい空気が息を吸う度、鉛のように肺を侵していく。
裏切り者。
わたしはすっかりそのレッテルを貼られてしまって、クラスメイトだけでなく全く知らない学校の生徒達にも冷ややかな視線を向けられる。
周囲から切り離されて、そのまま宙に浮いてしまったみたいだ。それは日を増すごとに悪化していく。いっそ空気みたいに希釈して、きえて無くなってしまえたら楽だろうかと、馬鹿げた考えが幾度となく頭をよぎった。
小彩とは相変わらず一言も会話を交わしていない。言葉を交わすどころか、目を合わせることも避けられているようだった。もともと交友関係が広いわけではなかったから、小彩は唯一ともいえる気の置けない友人だった。だからわたしはすっかりひとりぼっちになってしまった。お昼休みも、移動授業も放課後もたったひとり。当たり前のように小彩が隣にいた日々が、遙か遠くの事のように感じる。
先生の態度も変わった。わたしが生徒会役員になった途端、気味悪さを覚えるほどに皆気を使ってくるようになった。授業で当てられることも、話しかけられることもなくなった。理事長の息子である、生徒会長の陰がちらつくからだろう。
ただひたすら息苦しくて、居心地が悪い。
「はあ」
そんな毎日。ため息しかでてこない。
淳平ともあれから顔を合わせづらくて、ろくに話もしていない。ただでさえ元々、淳平は戦いに追われて駆け回っている。こちらが避けていれば当然すれ違う時間が増すだけ。
けれど、考えてしまう。もしすべてを話せたら、助けを求めたら、彼は力になってくれるだろうか。その手を差し伸べてくれるだろうか。
いいや、そんなの身勝手だ。望んではいけない願いだ。助けてほしいだなんて、そんな虫の良い事を言えるわけがない。
どうしようもない無意味な葛藤。結論はでてこない。でてくるのは、やはりため息だけだった。
そんな息苦しさも葛藤もお構いなしに、休み時間や放課後は毎日生徒会の仕事にかり出される。
正式な生徒会役員になったことで、仕事の量は格段に増した(とはいっても、重要な仕事はすべて麻織先輩が一手に引き受けているので、押しつけられる雑務の量が増えたというだけなのだが。)。下らないことに矮小な脳を使う暇があるならば、少しでも生徒会の役に立て。そう言わんばかりに忙殺される日々が続く。
けれど悪いことだけじゃない。皮肉なことだが、目の前の仕事に没頭しているうちは教室でのことは忘れられた。忙しさという逃げ道が与えられていたことは、不幸中の幸いといえるのかもしれない。
しかしながら、そんなものは一時の逃避にすぎない。
それを知らしめるように、日常の荒波は急激に激しさを増していく。
「あれ?」
なんだこれは。
昇降口。開いているのはわたしの下駄箱である。そこにあるのはいつもの履き慣れた何の変哲もないローファー。しかし、明らかな異常が発生していた。
うかつに足を踏み入れれば身を切り裂くトラップ。靴底から天井へとのびる三個の棘が、安価な金属光沢に照明を反射させて私を待ちかまえていた。
仕掛けられていたのは画鋲だ。靴底に画鋲とはずいぶんと古典的だが、誰かが仕掛けた嫌がらせだ。
あたりを見回しても、周囲に人影はない。念のためもう片方の靴を確かめてみると、ご丁寧にこちらにも画鋲が仕掛けられていた。
いったい誰が……。
わからないが、私のことをよく思わない生徒の誰かの仕業なのだろう。姿の見えない悪意に、ぞっと背筋が凍った。ローファーを持つ手が震える。
――大丈夫。些細なことだ。気にしない。気にしない。
そう自分に言い聞かせる。割り切るのだ。多少の苦難は仕方のないことだと。
画鋲をゴミ箱に捨てて、何事もなかったかのように靴を履く。けれど、ばくばくと速まる鼓動は、どうしようもなく不安な気持ちを体現していた。
それがはじまりだった。
日常の中で、小さな悪意がじわじわと牙をむく。
あの日から毎日仕掛けられるようなった画鋲。そこから日を増すごとに、嫌がらせは悪化していった。心ない言葉が綴られた呪いの手紙。机の中の教科書が忽然と姿を消し、どこから聞こえるくすくすという姿のない笑い声。
負けるものか。そう思っても、さすがに堪える。
学校に行きたくない。そう思うようになったのは、この16年間生きてきた中で初めてだった。誰ひとり味方はいない。世界のすべてが敵に見えて、痛いほど孤独を痛感する。
誰か、助けてほしい。
淳平のことが頭をよぎった。けれど、すぐに振り払う。
だめだ。彼に頼っては。これはわたしの問題。わたし自身で解決しなければならないのだから。世界のため、忙しなく奔走している彼を求めてはいけない。
彼はまっすぐに前だけを、皆の平和のためだけを思って戦ってくれればいい。その掌は世界のためにある。わたしのために差し伸べられるものではない。
望んではいけない。期待してはいけない。わたしは、淳平の足を引っ張りたくないのだ。だからこれでいい。彼は何も気にせずに、皆のヒーローで在ってくれればいい。
戦うのだ。ひとりで。
言い聞かせるように何度も心の中でつぶやいて、わたしはばしんと掌で自分の頬を叩く。
「あ、ちーちゃん。今帰り?」
よかったら一緒に帰ろ! 依然と何らかわりのない、朗らかな声は千隼君のものだった。一般科の生徒の中で唯一事情を知ってくれている彼の存在は、張りつめた心を少しだけ解してくれる。
あの日からも何一つ気にすることなく、変わらず声をかけてきてくれる。この上なく有り難く、これ以上ない救いだった。
「ううん。これから生徒会。じゃあね」
けれど、私はその声を遠ざけて、生徒会室へと向かう。
千隼君は優しい。裏切り者の私にも笑顔を向けてくれる。それだけでなく、自分の身など気にせずに力になってくれようとする。そのせいで、あんなにも迷惑をかけてしまったというのに。
私は彼をもう巻き込みたくない。わたしに及んでる嫌がらせの矛先が千隼くんに向いてしまったら、考えただけでぞっとする。そうならないためにも、わたしはひとりで戦わなくてはならないのだ。
◆
「前回の集会以降、一般学科において生徒会への悪評が増えていると聞く。なにか身を持って感じる変化や耳にした情報はあるか?」
あなたのせいで今まさにその悪害を受けているところです。
そういいたくなる気持ちをぐっとこらえて、わたしは背筋をぴんと張りつめる。
「そう、ですね。やっぱり反発の声は多く聞きます。宣言の撤回を求める声も。一般科全体から、生徒会を不審に思う雰囲気が漂っている。そんな実感はあります」
あくまで報告は端的に、私情は挟まず、学科の総意を伝える。それが生徒会長が私に求める役割だ。それを逸脱することは、学園の意志に反する行為と見なされる。
彼は少しの油断も間違いも許さない。生徒会長の前に立つときはいつも緊張で胸がつまりそうになる。
「そうか。大方予想したとおりの反応だな。それで? 何か生徒側達に大きな動きはあったか?」
「大きな動き、ですか?」
「言わないとわからないのか。まあ、良い。その様子ならもうしばらく時間をおいてみてもいいだろう。判った、他に報告がなければ下がれ。今日はもう帰って良い。それと、しばらく暇をくれてやる。また雑務がたまったら使ってやるから、それまでは己の仕事に専念しろ」
「え? あ、はい……」
つまり、しばらく私に用はない。ということか。就任して数週間。早くも暇を出されてしまった。勝手に任命しておいて、こき使って、必要が無くなれば放り投げられる。なんて身勝手、なんて理不尽なのだろう。
それでこそ生徒会長、この学園の王様なのだろう。彼が何を思って事を成しているのか、わたしなどには到底理解し得ない。けれど、彼の理不尽が単なる日常であることに残念ながらわたしはすっかり慣れてしまった。
異議を唱えるのは鉄パイプを掲げて雷雨の屋上に飛び出すのと同じこと。疑念をかみ殺して、おとなしく承伏する。それが正しい、もっとも安全な道なのだ。
ならば、言われたとおり教室を出ていこうと、一例の後くるりと踵を返す。
「待ちなさい」
そんな私を麻織先輩が呼び止めた。
「はい?」
そちらを向くや否や、麻織先輩は私の襟元をむんずと掴む。
何事かと思えば、その指先はリボンへと。
「曲がっています。直央様の前に立つというなら、それらしく身なりを整えてからになさい。失礼だわ」
いつの間にか曲がってしまっていたらしい。麻織先輩の指が離れると、胸元のリボンはぴしりと正されていた。
「す、すみません! ありがとうございます、気をつけます」
麻織先輩の鋭い眼光がうろたえた私をとらえる。
あわてて頭を下げて、動揺のまま部屋を後にする。
「失礼しました!」
ドアを閉めてもなお、心臓がばくばくと激しく脈打つ。麻織先輩もまた、生徒会長とは違った凄みがあってすっかり威圧されてしまう。ただの一般生徒と、選ばれし生徒会役員。そこには高くそびえる山のごとく壁があり、本来ならば交わるはずのない者同士なのだ。
深く息を吸って、鼓動を落ち着かせる。会長のことも判らないが、彼女のことはもっと判らない。しばらく生徒会役員として共に仕事をしてきたが、淡々と正確に仕事をこなす麻織先輩はまるで正確なプログラミングの元動く機械みたいで、まったくその感情が読みとれない。唯一判るのが、彼女は生徒会長を誰よりも尊敬し、慕っているということくらいだ。
少し気持ちが落ち着いてきたところで、私は歩き出す。
すると今度はぐるぐると思考が巡って、これからのことを考える。明日からどうしようか。生徒会の仕事のおかげで、困った現実から目を背けられていたという部分はある。生徒会にこき使われるのがよいわけではないが、現実逃避ができなくなるのはなかなかに致命的だった。
どうしようかと頭を悩ませど、結局答えは出てこない。
ただいつものように学校へ行って、授業をこなして帰ればいい。それだけのことだ。それだけのことが、ひどく困難で息苦しい。まるで出口のない迷路に放り込まれたようだった。
◆
かさ。開いた下駄箱の中から出てきたのは一枚の紙切れだった。
あれから数日。やむことない画鋲の嫌がらせにも慣れてきて、いつもいつもご苦労なことだと、逆に相手への尊敬すら感じ始めてきた矢先の変化球。
少し戸惑ったが、おそらく誰かからの手紙であろう。下駄箱に手紙、といえばラブレター。だが、万に一つその可能性が無いことはわかっている。その内容は考えることもなく、悪い内容なのだろう。おそるおそる文面を読んでみる。あまり綺麗とは言えない、ごくふつうの筆跡で綴られた文字は、
『中央棟の裏庭に来い。 槙尚直央』
会長の名前でかかれた呼び出し。
しかし、明らかに怪しい。こんな回りくどいやり方を、あの人がするとは思えない。用件があるなら麻織先輩を通した伝令がくるか、校内放送での直接の呼び出しをしてくる。筆跡も明らかに他人のものだろう。あの生徒会長がわざわざ私を呼び出すためにペンを握ることがあるだろうか。いや、ないだろう。
と、考えると。
――罠、だよね。
そう考えるのが妥当だろう。ついに直接的な手出しが来てしまった。きっと、ほいほい呼び出しに応じた私を待ち受けるのは、嫌がらせを仕向けた張本人たちだ。
ろくな目に遭うはずがない。これは無視するのが一番だろう。
だが、万が一本当に生徒会長からの呼び出しという可能性もある。それを無視してしまったら……考えただけで恐ろしい。
数秒、私は思案する。いくべきか、いかざるべきか。導き出された結論。
いくしかない。
いやな予感がとまらない。十中八九、その予感が的中する。そんな確信がある。けれど、これで嫌がらせの犯人が分かるかもしれない。目に見えない相手に怯えるより、敵が誰だかわかれば幾分か気が楽だ。
それにしても足取りは重い。処刑場へと向かう罪人の気分は、こんなものなのだろうか。大げさにも、そんなことを思った。
呼び出しの場所、中央棟の裏庭。
一般学科とエリート学科の境目である中央棟の裏手に位置する共同スペースだ。
両学科の生徒だけでなく、先生など学園の関係者は誰でも使って良いことになっているが、我が校の特色から当然一般学科の生徒はほとんど立ち寄ることはない。
わたしもここにくるのは初めてだ。庭というだけあってきちんと整備が行き届いていて、手入れの施された芝生の上にベンチが置かれ、花壇に咲く四季折々の花々を眺めることができる。
そんな学園の憩いの場所も、日が沈む夕方にはそびえる中央棟が影を落とし薄暗く近寄りがたい雰囲気を放っている。
学園ドラマの定番の台詞「体育館裏にこい」が指し示す場所はまさしくこんなところなのだろう。そう思わせるほどに、あたりは異質な空気で満たされていた。
「来たな、井上智沙子」
そこに待ち受けていたのは聞き覚えのない声だった。
五人の男子生徒。面識はない。しかし、その顔を見てすぐにはっとする。
彼らは生徒会が張り出したランキングの上位あがった一般生徒。つまり、わたしの作った評価の犠牲になった人たちだ。
どうすればいいのだろう。不快な汗が全身から吹き出す。わたしは半歩身じろいで、一刻も早くここから立ち去る算段を考えようとした。
彼らが一連の嫌がらせの犯人。きちんとした確証こそ無いものの、納得ができてしまう。今までのすべては、裏切り者への報復。私をみる目つきはぎらりと鋭く、不満や憤りに染まっている。
やはり来るべきではなかった。今すぐここを離れなくては。そう思うのだが、あまりの剣幕、気迫に完全に身体が萎縮してしまって動くことができない。
「本当にのこのこやってくるなんてな。俺らを売って生徒会に入った卑怯者がよお! 聞いたぜ? 生徒会役員は学費が免除されるんだろ。それが目的で同じ一般学科の生徒を売るなんて。とんだくそ女だな」
びくり、荒々しさに思わず肩が震えた。
「――」
何かを返そうとして、しかし紡ぐべき言葉を見つけられずに、ぱくぱくと唇が意味のない開閉を繰り返した。
一体誰からそんな話を聞いたのだろう。彼らの言葉は紛れもない事実。生徒会に入る際に持ち出された条件。それゆえに、否定することが出来なかった。
けしてそれが理由で生徒会に入った訳ではないのに。わたしの喉は、弁明のために震えてはくれなかった。
「ここに呼び出された理由は、わかるよな?」
じり、生徒の中の一人が指を鳴らしながらこちらに詰め寄ってくる。
逃げようと思っても、足がうまく動かない。もがくように何とか後ろを振り向いて、しかしその逃げ道も二人の生徒によって完全にふさがれてしまっていた。
「む、ぐ!?」
突如口元を何かでふさがれる。困惑の中で、つんと刺激臭が鼻腔をつきぬける。それを感じた瞬間、世界がぐにゃりとゆがんで、私の意識は暗転。暗闇の中に消えていった。
◆
「――――」
身体が痛い。つめたく、かたい無機質な床の感触。
ゆっくりと身体を起こすと、ずきりと脳の奥を突き刺すような痛みが走った。
ここはいったいどこだろう。目の前に広がるのは、剥き出しの鉄骨が作り上げる薄暗い灰色の空間。広さとしては教室ほどの大きさだろうか。だが、窓がないせいか閉塞感があって息苦しい。
自分がどんな状況に置かれているのかまったくわからない。中庭に呼び出され、生徒たちに襲われて、そこまではなんとか思い出せる。
そのあと、どうなった――?
ぞくり、這いずるような不安が急激に背筋を寒気のように伝った。
――とりあえず落ち着こう。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
自分の身体を確かめる。手足の自由は利くし、特に何かをされたような感じもない。ただ、着ていたはずのジャケットや鞄がなくなっていた。
携帯は上着のポケットの中だし、財布や大切な物も鞄の中だ。
「……どうしよう」
途方に暮れた力のない声が思わず口からこぼれ落ちた。
そのときだった。
「ふははははは! やっと目が覚めたか!」
めまいの残る視界に稲妻が走ったような衝撃が起こる。耳をつんざいたのは鮮烈な声。
声の主は尊大すぎるまでの仁王立ちでそこに君臨していた。
その顔に見覚えは全くない。しかし、わたしは瞬時に居住まいを正した。その男子生徒は先ほどまでの生徒たちとも、そしてわたしとも異なる世界の存在だった。彼の胸元に輝くのはエリートクラスの校章。
パーマのかかった黒髪をさらりと指で払って、悠然と彼は私を見下ろしていた。
「あなたは……誰?」
「誰、だと? この俺を知らない、と言うか! 愚かな! そして嘆かわしい! このような下賤な一般人が生徒会を名乗っているなど……」
やたら大仰な言い回しがなんだか癪に障る。自分の名を知っているのが常識であると一挙一動が囂々と訴えてくる。しかし申し訳ないことに、その常識は庶民である私には一切通用しない。
その存在感、登場こそインパクトはあるものの、彼が一体どこの誰であるのか、まったくもってわからない。
「本当に嘆かわしい。選ばれし人間にのみ受け取ることが許されている生徒会バッジが、こんな庶民の小娘の手元に渡っているなど……現会長はやはり愚かだ。この徽章は、俺にこそ相応しい。貴様もそう思うだろう?」
にやり、男の口元がいやらしく歪む。
わたしははっとする。彼の掌にある、金色の輝き。それはまさしく、わたしに与えられたはずの生徒会バッジだった。
「今頃気づいたのか? 生徒会のバッジ奪われるなど、言語道断。貴様はこの重みをまったくわかっていない。まあ、なんにせよ、これでお前を生徒会に招き入れたことが過ちであると、生徒会長サマも理解しただろう」
いつのまに。そんなの、考えなくてもわかる。
先ほどの一般生徒たちだ。彼らは私を眠らせて、生徒会バッジを奪ったのだ。
おそらく、彼らを差し向けたのは目の前のこの男なのだろう。
「っ……」
奥歯を噛む。手紙の誘いを受けたことも、バッジを奪われたこともすべて自分の判断の甘さが招いたことだ。
「――我々をさしおいて、一般生徒を生徒会に任命するなど。本当に何を考えているのだか。自らの敵を増やすだけだけの愚策でしかない。しかも、何か特別な能力に秀でているかと思えばそうでもない。一介の凡愚に過ぎない女子生徒だとは! 愚かだ。実に愚かだ。間違っているのは生徒会だと、わからせてやる。この俺が! 選ばれし血筋である、七海の誇りにかけて!」
男の言葉に熱が籠もる。生徒会への不満。憤り。小さな火種はそれらを食らって大きな炎へと姿を変えていく。
「俺は生徒会の誤りを正す。真に優れた指導者は誰なのか、この学園に知らしめる。学園を真に導けるのは、この七海祐吾であるとな!」
わたしはただただ圧倒された。
エリート科である自分を差し置いて、わたしが生徒会に選ばれたことが憎いのか。そう思ったが、彼の言葉から滲み出る感情はそれだけにとどまらない。
他のどの人間よりも己が正しい。孤高の頂すら越えて、燦然と在ろうとする意志。誰にも譲ることのできないプライド。
「……そのために、まずは分をわきまえない一般生徒に灸をすえてやらねばならない。貴様は身を持って知るのだ。この学園の真の王が誰なのかを」
男の口元がいびつな弧を描いた。
ぞくり、私の背筋が凍り付く。
逃げなくては。
どくどくと脈を早める心臓が警鐘をならす。けれど、逃げ道なんてどこにもない。閉ざされたこの部屋には、窓も隠れる場所もない。唯一ある退路は、男――七海によって塞がれた扉。
「逃げようなどと考えない方がいい。ここは我ら七海に与えられた城の一角。普通の生徒がけして知り得ない場所だ。それに、生徒会が貴様を助けに来ることはない。バッジに付いていた発信器はお前を連れてくる際に壊させてある。誰も貴様がここにいることなど知り得ない。諦めることだな」
発信器……!?
今、不穏な単語が聞こえた気がしたが、追求している暇はない。
じりじりと、七海はこちらとの距離をつめ迫ってくる。隙をついて逃げることも、助けを呼ぶこともできない。一体どうしたら……、背中に当たる固い壁の感触。ついに追い込まれてしまった、そのとき。
どおおおん……!
突然の轟音が、びりびりと振動を伴って全身を振るわせた。
かなり大きな衝撃。何かが爆発したような音だった。
「な、何だっ!?」
七海は狼狽え、その揺れの激しさに転倒する。
今が逃げる絶好のチャンス、だがめまいのような激しい鳴動が好機を掴ませてくれない。地震を思わせる大きな揺れに、わたしもまたなす統べなくうずくまることしかできない。
どおおおん……! どおおおん……!
暫くしても振動は止むことなく、断続的に響きわたっている。それを地震と思うには少し違和感があった。
振動は激しくも、そのリズムはゆるやかで規則的。まるで何かの足音を連想させた。何か巨大な物が歩き回っている。そう例えるのがしっくりくる。
ウウウウウ――――
響きわたる警報音。
迫り来る危機を知らせる、緊急用のアナウンス。
『――緊急放送。緊急放送。校内に残っている生徒に告げます。東棟にて爆発が起こりました。現在状況を確認中です。火災のおそれがありますので、速やかに避難を開始してください。繰り返します――』
反響するのは避難を伝える校内放送。
「爆発だと……今の振動はそれか」
「に、逃げなくちゃ」
爆発、火事。不安を駆り立てるワードに気持ちが焦る。早く外へ逃げなくては。
「そうだな、逃げるか」
七海はうんとうなずいて、脱兎のごとく早さで唯一の出口を開く。
時は一刻を争う。彼に続いて避難しなくては――しかし、近づこうとしたドアは寸でのところで私を拒む。突き飛ばされた身体が後方へよろめく。そのままバランスを崩して、思い切り尻餅をつく。
「痛ぁ……!?」
まさか、すうっと頭から血の気が引いていくのがわかった。
七海の下卑た瞳が、呆然とする私をあざ笑う。
「馬鹿が。言ったろう、逃げることはできないと。お前はここで大人しく報いを受け続けるんだな。安心しろ、ここなら火の手が回ってくることはないさ。誰かが気づいてくれれば、そのうち外に出られるだろう。まあ、気づいてくれるなんてことがあればの話だがな……!」
七海の高笑いが、閉じていく扉の向こう側に消えていく。
「う、そ? ちょっと、まって!」
あわてて扉へ走るも、間に合わない。堅く閉ざされた扉は重く、ひねろうとしたドアノブはガチャガチャと無意味な音を立てるだけ。
「ねえ! あけて! あけてよ!」
握った掌を力いっぱい打ち付けても、返事は帰ってこない。ただ反響するだけの自分の足掻きに、無意味を感じて力が抜ける。
「……そんな」
座り込んだ地面の冷たさ。鋼鉄に打ち付けた掌の痛み。どうしようもない不安と諦観が、波のように押し寄せる。
どおおおん……
「!」
追い打ちをかけるように、振動がびりびりと世界を揺るがす。
心臓が脈を早めていく。焦燥が、寒さが、恐怖が、指先からじわじわと身体をむしばんでいく。
――だれか、連絡。携帯!
携帯があれば助けを呼べる。
上着のポケットから、携帯を取り出そうとして――それがないことを思い出す。
「どうし、よう……」
身体の力が抜けていく。
目の前に広がる無機質で冷たく、だだっ広い空間。校内放送が聞こえたということは、ここは学校の中。もしくはそれほど離れていない場所なのだろう。
ぐらり。再び振動が襲う。
フッ、目の前から忽然と光が消えた。世界が黒で塗りつぶされる。
今の衝撃で、停電が起きてしまったのだ。
「うそ、やだ……」
真っ暗で何も見えない。どうしよう。どうしよう。考えても、ちっとも答えはわからない。それどころか、どんどん混乱の渦が大きくなってわたしを飲み込んでいく。
どうしようもない暗闇が目の前に広がって、希望のすべてを塗りつぶしてしまった。
なす統べはない。私はうずくまることしかできなかった。