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「ほう、この短期間で仕上げるとは。予想以上に使えるようだな」
手渡した書類を受け取って、生徒会長が意外そうにつぶやいた。
彼に手渡したのは、一般学科生徒の調査をまとめた報告書。言い渡された期限内に、なんとか形にすることができたのだった。
これもすべて、千隼くんのおかげだったりする。
一週間前、わたしは秘密のすべてを彼に打ち明けてしまった。誤魔化すことは出来なかったし、「協力させて!」という彼の強すぎる意志に気圧されてしまった結果である。
しかし、結果的に千隼くんの助けを得られたことは大正解だった。この報告書も、彼からの情報がなければ完成させることなどできなかっただろう。学園内外に広く交友関係をもち、校内事情にも詳しい彼は、報告書を作るために必要な情報を提供してくれたのだ。その大半はわたし一人では到底知り得なかった事だった。千隼くんの協力があって、わたしの首の皮はなんとか繋がったのだ。どう感謝を告げても足りないくらいだ。
こんな仕事でも、やり終えた後にはそれなりの達成感があるものなのだなあ、含みのあるお言葉は気にしないことにして、ぱらぱらと書類に目を通す生徒会長の姿を見ながらいままでの日々を思い返す。
一通り書類を眺めた後、生徒会長は側に控えていた麻織先輩に書類の束を手渡した。
「報告内容も申し分ない。ご苦労だった」
「――はい。ありがとうございます」
「今日はもう帰っていい。慣れない仕事に蓄積した疲労が、学業に影響を及ぼすと困る。身体を休めておけ」
「はい」
言われるがまま、生徒会室の扉を閉める。
まさか、労いの言葉をもらえるとは思っても見なかった。努力の結晶に容赦なく「こんな書類を提出するとは、舐めているのか」というような感じで、不備を指摘し突き返されるものだと思っていたので驚きだ。
というか、あの人にも人を労る心があったのか。思ってもみなかった言葉がこそばゆい。ゆるみそうになる頬をきゅっと引き締める。
永きに渡って頭を悩ませていた仕事に区切りがついて、空へと放たれた小鳥のような開放感に満たされる。それと同時に、どっと眠気が押し寄せてきた。生徒会長が言うように、疲労が蓄積していたのかもしれない。今日は早く帰って寝るとしよう。
空が暗み始めるより早く校舎を後にしたのは久しぶりのことだった。楽しみにしていたドラマ再放送もしばらくずっと観れていなかったけれど、今の時間ならまだ間に合う。
足取りはいつもより遙かに軽い。思わずスキップでもしてしまうかの心地だ。しかし、その喜びも一時のもの。
状況が一変したのは、週末のことだった。
廊下に張り出された生徒会からの突然の掲示。
それは全校生徒に、そしてなによりもわたしにわたしに大きな衝撃をもたらした。
「なに、これ」
ざわざわとざわめきが押し寄せる波の様に校舎中に広まっている。
掲示板にでかでかと貼られた紙。そこに書かれているのはランキング形式で張り出された一般学科二年生徒の名前。上位を意味する一から十の数字は真っ赤なインクで刷られており、それより下位の名前よりもはるかに目立つ。
そして、その掲示にはこう書かれていた。
『上位十名は生徒会の定めた規則を大きく逸脱し、学園の風紀を乱すものである。ただちにその在り方を改めよ。さもなくば、学園から追放する』
わたしは、掲示板を見上げたまま動けなくなっていた。
これらの名前は、数字は、わたしが一番良く知っている。
だってこれは、わたしが作った物なのだから。
一体どうして。手足が震える。
その理由は、少し考えればすぐにわかる。
生徒会長に手渡した、あの報告書。
この掲示は、わたしが作った書類を基に作られている。けれど、こんな風にすぐに全校生徒へ発表されるだなんてことは聞いていなかった。
それだけではない、追放とはどういう事なのだ。張り出された名前には一切の変更は加わっていない。つまり、わたしが選んだ通りに名前が張り出され、選んだ通りに罰が与えられようとしている。
余りに重い責任だった。想像していた以上の重圧に、目の前の景色が遠のく。
「智沙子!」
目眩に襲われた体を引き寄せるように、小彩の声がした。わたしの手を取って、人でごった返す廊下からすこし離れた場所まで連れて行かれる。
「ちょっと、あれ見た? 生徒会の掲示! 意味わかんないし、何考えてんの……って、大丈夫? 顔色悪いけど」
「うん、ちょっと貧血。大丈夫」
「貧血? 健康優良時のあんたが? 珍しい」
小彩にも、クラスメイトにも絶対に言えない。
あの掲示を作ったのがわたしだなんて。知られてしまったら、こんな風に普通に話す事すら出来なくなってしまう。こうして心配してくれる友達を騙している。その罪悪感が余計に息苦しさを生んでいく。
「寝不足なだけ。最近忙しかったから」
そう笑って誤魔化すことしか出来ない。
「そう? あまり無理するんじゃないよ? にしてもさ、あれ、ちょっと酷すぎない? クラスの子の名前も入ってるし。っていうか、テストでもないのにあんな風に勝手に点数つけて張り出すなんて、ほんと最低。しかも何? 追放って、馬鹿じゃないの。生徒会がそんなに偉いわけ?」
そこに生徒会の人間がいたら、今にも殴りかかっていきそうな気迫だった。小彩は本当に怒っている。そりゃあ、あんな風にされたら誰だって怒りたくもなる。
「本当、何を考えてるんだろうね。生徒会は」
わたしは小彩の言葉に同調することしか出来なかった。
すべてを知っていて、知らないふりをする。それがこんなにも苦しいなんて。
掲示板は瞬く間に校内中に波紋を呼んだ。
全校生徒が登校を終え、朝のホームルームの時間になってもその波は引くことなく、ざわめきの渦は広がるばかり。
胸を締め付ける罪悪感が、どうしようもなく全身を切迫する。聞こえてくる皆の声がぐるぐると脳内で反響する度に、耳をふさぎたくなる。どこかへ逃げてしまいたくなる。荒れる海原に放り出されて、そのまま溺れてしまうようだった。
猛る水面を引き裂いて、雷轟のように響いたのは無機質な電子音。校内放送を知らせる音楽だった。
『全校生徒へ連絡いたします。これより、緊急集会を執り行います。至急、第一体育館へと集合してください。繰り返します――』
「緊急集会だって」
「一体何?」
クラスメイトのざわめきが、放送の内容へとシフトしていく。
今の放送の声は、五十嵐先輩のものだった。つまり生徒会が全校生徒を集めているということだ。これから行われる集会も、彼らの思惑があるに違いない。
胸を締め付ける罪悪感が、一つの予感を示す。ひどく嫌な予感だった。
「智沙子聞いた? 全校集会だって。きっとあの掲示の事よね」
小彩が耳打つ。
「おーい、放送聞いたか? 集会だ。廊下に整列しろー」
遅れて教室のドアを開いた小林先生が促す。その声に従って、皆はざわめきを纏いながら廊下へと向かっていく。わたしもその流れに乗って、背の順に並んだクラスメイトに混ざる。
「ちーちゃん」
前に進み始めた列に付いていこうとすると、名前を呼ばれた。
その声は千隼くんだ。呼びかけに顔を向けると神妙な面もちでこちらを見ている。彼はきっと、わたしと同じようにこの事態の意味を察しているのだろう。
事情を知った千隼くんは困っていたわたしを躊躇無く助けてくれた。彼がいなければ報告書を完成させることは出来なかったし、最悪の場合生徒会長の手によって学園を追われていたかもしれない。
彼の意志とはいえ、わたしは彼を巻き込んでしまった。クラスメイトを売るというわたしの罪の片棒を担がせてしまった。それなのに、千隼くんは変わらずわたしに接してくれるし、秘密のことも誰にも話すことなく黙っていてくれていた。
彼には感謝してもしつくせない。しかしその恩をわたしは早速仇で返してしまった。 張り出されたリストの上位には、彼の名前もある。華やかに校則に喧嘩を売る彼の金髪を生徒会が見過ごして良いはずはない。名前が乗らない方が怪しまれると、自らそう言って軽く承諾してくれた。しかしそれが、こんなにも早く最悪の形となって返ってくるとは。
千隼くんは何か言いたげな様子だったが、進む列は立ち止まることを許してくれない。何一つ言葉を交わせずに、あっという間に彼の前を過ぎ去ってしまった。わたしは彼に責められたって仕方がないはずなのに、すれ違いざま見合った瞳はひどくこちらを心配してくれていて、その心遣いが有り難く思えると同時に、苦しかった。
体育館に全校生徒が集められる。一般学科とエリート学科、そして教師陣。全員があつまるとその数は優に二千を越える。全員が集まる機会は滅多になく、それゆえにこの集会の異常さが伺える。
しかしひとつ疑問があった。張り出された掲示はあくまで一般クラス、そして二学年のみが対象である。この集会が掲示に関する事なのならば、全校性が一同に集められる必要はあるのだろうか。
もしかすると、何か他の目的があるのだろうか。そう思考が巡ったところで、体育館のざわめきがぴたりと止む。
コツ、コツ、静まりかえった空間に規則立たしい靴音のリズムが響く。皆の視線が一点に集まる。この場所における一番の高み。眼前に広がる無数の生徒の頭上を越えた先。
静謐なる気品と、呼吸すら許さぬ厳格さをもって生徒会長が壇上に立つ。
彼が姿を現すと同時に、この空間のすべてが彼の支配下に置かれた。豊穣の大地を思わせる黄金に、賛同も反発も違わず人々の意志は飲まれて一つの思想となる。この世界を統べる王に絶対の服従を誓う、制圧されたイデオロギーに。
そんな比喩でもしたくなるほどに、生徒会長の存在は他の生徒を圧倒していた。無意識に体に力が入る。全校集会で居眠りなど良くある話だが、こんなところで居眠りなど出来るはずがない。よほどの鋼の心の持ち主か、命知らずくらいだ。
「全校生徒諸君、聞くがいい」
壇上の王は凛と佇み、眼下の民を見下ろす。
「今朝、東校舎及び西校舎の掲示板に生徒会からの文書を掲示した。こうして集会を開いたのは、それに関する決定事項を諸君等に伝えるためだ。掲示を見た者はわかるだろうが生徒会は校内風紀に関する新たな規則を定めた。本学園は一昨年より一般学科を設立し、新たな生徒を招き入れ、より幅広い人格を肯定し社会に開けた校風を目指してきた。それによって生徒数は倍増し、歴史ある伝統校はその権威を高める革新的な変化を遂げた。しかし、同時にある問題も発生している」
淀むことのない川の清流のようだ。脈々と流れる音が空間を満たしてゆく。
聴衆はただ息をのんで、次の言葉を待っていた。
「それは生徒の二極化だ。もとより、従来から存在していた特別進学学科と、新設の一般学科では目指す教育像の違いがあり、本質を異にしている。しかしながら、二つの学科間の差異は次第に目立つようになり、尚陽学園という同じ旗の下にありながらその足並みは酷く不揃いだ。その差は学科間だけではない。学科内部でも広がっている。学業成績もそうだが、より目立つのは校則に対する意識だ。多くの生徒は模範的だが、その中に混じって一部生徒が規範を破り、風紀を乱している。伝統ある我が学園は、規律を重んじ格式高く在らねばならない。この先の未来を牽引する、選ばれし才覚を伸ばし、世に送り出す――それこそがこの学園の役割だ」
穏やかな水面に、こぼれた一滴。
「風紀を乱し、学園の品位を貶める生徒はこの学園にふさわしくない。このたび張り出した掲示は、警鐘だ。今後我が校では、校則を逸脱し品位を乱す生徒を洗い出し、淘汰する。そのために規則に対する採点基準を設け、審査し、点数をつける。点数が基準に満たない生徒は、この学園を去ってもらう」
ざわ、体育館に動揺の波が広がる。
その決定はあまりにも突然で一方的だ。生徒たちから反発の声があがる。ゆるやかな流れが、荒々しい奔流に飲まれようとする。
「黙れ」
放たれた獅子をも射殺す眼光に、ざわめきは一気に収束する。
反発するすべての声を圧倒して、生徒会長は淡々と話を続ける。
「無論、今回の掲示はあくまで警告だ。赤字でその名を記された生徒も、次回の審査までに基準値に達すれば処分を下すことはない。今後その素行を改め、学園の気風にふさわしい人間となることを期待しての配慮だ」
再び静まりかえった体育館に、マイクの反響音が余韻として残る。
彼の発言に、心から賛同する生徒はおそらくほとんどいないだろう。しかし誰一人として、異を唱える者はいなかった。
「さて、ここからが本題だ。この採点は全校生徒が対象となり、我々生徒会によって採点がなされる。だが、今現在の生徒会の体制ではすべての生徒を平等に採点するのは些か困難でもある。そこで、体制の見直しとして生徒会も新たな決定を行った」
まさか。
全身の血の気が引いていく感覚が私を襲った。
彼は一体、何を言おうとしているのか。先ほどから感じていた嫌な予感が現実味を帯びてくる。刃を手にした暗殺者が一歩一歩忍び寄るようだった。
やめて。話が違うではないか。そう声に出すことも出来ずに、わたしは目眩をこらえて、焦る心を落ち着かせようと息を吸う。
されど無情にも、紡がれる言葉は止めどなく。刻一刻と、刃は首元に迫り来る。
「その決定とは、新たな生徒会役員の選出だ。公平性を期すため、全校生徒の中からランダムで一人を選出し新生徒会役員として任命する。そして、この集会はその生徒の公表の場として設けたものだ。彼女は二週間前、生徒会役員としてその任を受け、秘密裏に学園の発展のために尽くしてくれた。この度の審査は彼女の最初の功績である。紹介しよう――」
生徒会長の話はもうよく聞こえていなかった。胸を締め付け息苦しさにぐるぐると視界が混濁していた。
それが突然に、ぱっと真白に染まる。
眩しい、という感覚に気づいた瞬間。ぞくりと背筋が震える。
おびただしいほどの目、目、目。今まで壇上を見上げていたすべての視線がわたしへと一気に収束していた。
スポットライトの冷たい光。舞台の主役はすでに壇上の王ではない。
それはすでに、わたしへと切り替わっていた。
「あ……」
積もり積もった不安が限界を迎えて炸裂した。糸を通した大きな針が脳天から突き刺さり、衝撃とともに身体が地面に縫いつけられたようだった。身動きはとれず、思考は停止し、ただ声にならない音が唇から漏れた。
「一般学科二年B組、井上智沙子」
反響するマイク越しの声が、確かにわたしの名前を読み上げた。
そこから先のことは、良く覚えていない。
◆
「どういうことなの……智沙子」
震える瞳で小彩はわたしを見つめている。信じられない。そんな叫びを閉ざして、怒りと絶望と、悲しみとを折り重ねた酷く歪んだ瞳だった。
集会が終わり、教室に戻った途端にクラスメイトたちの猜疑に満ちた視線がわたしを貫いた。わたしはすっかり、クラスの裏切り者だ。ざわめきに満たされた教室から、軽蔑や非難の声が聞こえてくる。生徒会の権限欲しさに、友人を売ったのだと。
そう言われて当然だ。仕方なしとはいえ、わたしは皆に内緒で生徒会役員となり、あの報告書を作り上げたのだから。
言い訳の言葉もない。責められて当然の事をわたしはしたのだ。
「ねえ、智沙子。説明して」
皆が遠巻きにひそめく中で、わたしとしっかり向き合っていたのは小彩だけだった。
そのまっすぐな視線が、なによりも辛かった。
「……ごめん」
「謝るんじゃなくて、説明してよ。生徒会長が言ってたこと、本当なの?」
目を合わせることの出来ないわたしの肩を、小彩は強く掴んで引き寄せる。
見合った瞳は疑いながらも、どこか希望を探すように静かに震えていた。
小彩はいつだってまっすぐ、真摯にわたしと向き合ってくれた。友達でいてくれた。今だってそうだ。こうして、わたしを信じたいと思ってくれている。
それなのに、わたしはなんて最低なのだろう。彼女を騙して、嘘を付いていたなんて
。信じようとしてくれる彼女の心を、わたしは踏みにじることしかできない。ここにある事実は、彼女にとってひたすらに残酷だ。
「うん」
小彩は大きく目を開いて、身をすくませた。それ以上の言葉を彼女は発しなかった。わき上がる感情を押さえ込むように、その唇は強く噛みしめられている。
「生徒会に取り入るために、俺たちを売ったってことかよ!」
穿つ言葉の矢を発したのは小彩ではない。教室の後方にいたクラスメイトが怒りの形相でわたしを睨んでいた。
それが口火となって、各々の抱えていた感情が爆発する。
「ひどい……」
「最低だ」
教室内の四方八方から罵詈雑言が飛んでくる。その矛先は、もちろんわたし。導線を伝い炎が燃え広がっていくように、皆の怒りが大きく膨らみ、飲み込んでゆく。
「……」
わたしはただ立ち尽くして、皆の言葉を受け止めることしか出来なかった。倒れてしまわないように、泣かないように、ぎゅっと拳を握りしめて。
助けてくれるヒーローはどこにもいない。
だって、この場においてわたしこそが倒されるべき悪なのだから。
渦巻く言葉の炎は熱く、痛く、身体を焦がしてゆく。赤く燃えさかる視界のなかで、まっすぐな小彩の視線が遠くへと離れてゆく。その悲しい顔が、いつまでも脳裏に焼き付いていた。