ヒーロー本編 | ナノ

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 ◆

 明くる日の放課後、わたしはいそいそと教室を後にした。
 帰り支度をすませて家路や部活に急ぐクラスメイトたちにばれないように。なるべく自然体で、迅速に。教室を出たわたしは校舎の東側の連絡通路へ向かう。
 こんな風にこそこそと、まるで悪いたくらみでもしているかのように忙しないのには理由がある。昨日、甘い言葉に乗せられて生徒会への任命を承諾したわたしに提示された、とある条件だ。
『わたしが生徒会に任命されたことは、誰にも言ってはいけない』

 生徒会長の氷像を思わせる双眸が蘇る。

「今回の任命は、理事長の許可の元正式に行われた決定であるが。あくまでまだ試験的段階だ。お前があまりにも役に立たなければ、決定の取り消しも有り得る。まあ、そんなことがあれば、生徒会の顔に泥を塗ったとして何らかの処分が下るだろうが――そのような些末な問題はどうでもいい。危惧すべきは、特進学科の生徒たちの反感だ。自分たちを差し置いて、一般学科から生徒会役員が選ばれたと知れば当然反発が起きる。それを避けるために、全校生徒への発表は行わない。あくまで秘密裏に、お前は生徒会の人間として学友を見張っていればいい。それがお前の役割だ」

 お腹がきゅうっと締め付けられる。悠然と、まるで他人事のように放たれた言葉。
 誰にもばれないように、こっそりと皆の情報を生徒会へと伝えるパイプ役。もちろん、良いアイデアを学校に反映させて学園生活をより豊かにできるなら、それはとても素晴らしく、風通しの良いことだ。しかし、わたしの役目はそれだけではない。皆を監視して、学園の定める規則に準じているかを審査し、報告する。基準に満たない生徒を炙り出す。そのための選定だ。つまり、『生徒会のスパイとして仲間を売れ』わたしが承諾してしまったのは、そういう任命だったのだ。
 そんなこと出来るわけがないし、したくもない。クラスの皆はいい人だし、その他の人もきっといい人だ。わたしの判断で誰かを点数付けて、告げ口をする様なことは絶対に嫌だ。
 されど、逃げ道はない。適当に点数をつけて誤魔化すようなことをすれば、自分自身の生活が脅かされる。きっと情けなんてない。退学処分すら有り得るかもしれない。学費免除が一転して退学だなんて。両親も白目をむいて倒れてしまう。
 どうしたらいいんだろう。
 考えて考えて、昨晩は一睡も出来なかった。おかげで今日一日散々だ。
 ちっとも正解はみえてこない。しかし、逃げることはできない。だからわたしは、言われたとおり放課後の生徒会室へと向かっている。
 我が校の校舎は大きく分けて三つのブロックに分かれた作りになっている。エリート課の生徒が主に使う、歴史と伝統ある旧校舎のある東ブロック。一般学科の受け入れに伴って新たに増設された西ブロック。そして、東西の校舎の間に立てられた中央棟。ここは、各委員会の教室や職員室、校長室といった学校運営の中心機能がまとめられている。中央塔からは東西に連絡通路が延びていて、そこから東校舎、西校舎の行き来ができる作りになっている。
 もっとも、例に倣って両学科の生徒の往来は滅多にない。委員会はほとんどがエリート課の生徒によって運営されてるし、職員室だって学科ごとに部屋が分かれている。東西を分け隔てている壁は余りに大きく、互いに関わり合うことはあり得ない。
 だからわたしも、今まで中央塔には近づこうとすら思っていなかった。連絡通路を渡ったことも、たまに職員室に呼び出された時くらいだ。
 その職員室を通り過ぎて、階段を上って三階へ。中央棟の三階には、生徒会室の他に校長室や理事長室がまとまっており、学園のトップが集う異次元の空間だ。自分がこの場所にいることが未だに信じられない。
 重い気持ちを抱えたまま、生徒会室のドアを開く。

 ◆

「智沙子なんか最近忙しそうだけど、バイトでも始めたわけ?」

 放課後、生徒会室へと向かおうとするわたしを小彩が呼び止めた。
 あれから二週間が経って、中央棟へ向かうことへの違和感が少しずつ薄れてきた頃だった。
「うんと、まあ。そんなとこ」

「ふーん。あんたそんなに金策困ってたっけ?」

「まあね、これでも生活苦しいんですよ!」

「そ。じゃあ今日もバイト? 練習場所とれなくて急に部活休みになっちゃってさ。遊びにでも行けたらって思ってたんだけど」

「え! 本当!? ……でも、ごめん。いきたいのは山々なんだけど」

「いいよいいよ! バイトなら仕方ない。頑張って!」

 手を振る小彩に別れを告げて、教室を後にする。
 貴重な機会を逃してしまった。放課後に小彩と遊べる機会なんて滅多にない。昼休みに話していた最近できたケーキ屋さんの平日限定スペシャルパフェに舌鼓を打ちたいし、買い物にだって行きたい。行きたすぎる。
 それなのに、わたしはどうして生徒会室に向かわなくてはならないのか。
 当然、わたしが生徒会であることは小彩にも内緒だ。 
 生徒会室に呼ばれたあの日、教室に戻った後、心配と好奇心とが半々になった面もちで、何があったのかと小彩に訪ねられた時。わたしは適当な嘘で誤魔化すことしかできなかった。
 彼女にすべてを隠していること。それはどうしても心ぐるしかった。仲の良い彼女には打ち明けたい。彼女に嘘を尽きたくない。小彩のことだ。隠し事をしたら怒るだろうけれど、すべてを話せばきっとわたしの味方になってくれる。
 彼女がいてくれるならとても心強い。しかしそうすれば必ず、彼女にまで迷惑がかかる。それは嫌だった。
「二週間か……」

 ぽつり、つぶやきが口からもれていた。
 何がなんだかよくわからず、がむしゃらに走り抜けていただけの二週間。
 生徒会の仕事、といっても別段大きなことがあるわけでもない。わたしの役割は生徒会『庶務』。会議の議事録をまとめることもなければ、経理に頭を悩ませる事もない。基本的には至って気楽。かつ重要度の低い役割だ。
 もともと生徒会長と五十嵐先輩の二人だけでうまくまわっていた組織。庶務などあってもなくても変わりない。実際、教室に行ったとしてやることは書類整理と掃除くらい。元々整理整頓は行き届いていた空間なので、つまりはまったくやることはない。
 それでも何故、生徒会室へと向かわなければならないのか。それは毎日の報告を伝える為であるのだが、それよりもこの任命が試験的であることに関係しているのだと思う。今のわたしは仕事で言えば試用期間みたいなものだ。だから、わたしが本当に生徒会にとって益があるのかを見定める。その為に、生徒会長は毎日の放課後生徒会室に足を運ぶように言ったのだろう。
 気楽な仕事、とはいったものの、例外はある。例のスパイみたいな報告業務。これが相当厄介で、わたしの頭を悩ませるもっぱらの要因である。
 まず、一般学科の生徒を全員把握すること。ここからハードルが高すぎる。部活動さえやっていないわたしには学園内の横のつながりなんてものは一切なく、交友関係と言えばクラスの範囲内くらい。今こうしてすれ違った生徒が何年何組何番なのか、全くもってわからない。生徒会室にある名簿と照らし合わせて、なんとか両隣のクラスの顔を把握した程度だ。任されてしまった仕事をこなせるようになるまで、道のりは長く険しい。
 生徒会長に言い渡された提出の期限は三週間。手始めという事で、調査の対象は同学年である二年生のみ。加えてすぐその内容を反映させることはしない、という幾分か楽な条件ではあるが、一向に間に合う気がしない。
 スパイ映画を観てテンションをあげようと試みたが、現実とフィクションの間にある高く険しい壁の存在を痛感させられるだけに終わってしまった。かっこよく任務をこなす主人公は、やはりあこがれの存在だからこそ輝くのだ。
 廊下を進む足取りが重い。こんな時でも脳裏をよぎるのは、幼馴染みの存在だ。
 彼は、この世界で一番フィクションの世界に近いところにいるのかもしれない。世界を救うヒーローだなんて、面白いくらい現実味がない。
 今、あいつは元気だろうか。
 最近は忙しくて、すれ違ってばかりだ。朝の通学でも会わないし、補習のある昼休みは当然のこと、放課後も気づくと彼の鞄は無くなっている。同じ教室にいるのに、すぐ側にいるのに。距離は果てしなく遠い。
「……会いたいな」

「誰に?」

「っとぉー!?」

 突然の事に驚いたわたしは、素っ頓狂な声を上げて飛び跳ねた。昭和のギャグマンガさながらの、奇妙なポーズも添えて。
 空中浮遊していた意識は現実に引き戻されて、こちらの驚きように目を丸くする目の前の人物へと向けられる。
「わあ、びっくりした。驚きすぎだって、ちーちゃん」

 目の前に大輪の向日葵が咲いたような、底抜けに明るい金色の髪。ワックスでばっちりと決めたヘアスタイルと、飾られたカラフルなヘアピン。千隼くんだ。

「当たり前でしょう、千隼くんが突然話しかけてくるのが悪いんだから」

「はは、ごめんごめん」
 
 少しも悪びれる様子もなく、へらっという擬音がよく似合う笑顔を向けられる。
 なんだろう、かなり久しぶりにあったというのに不思議とそんな気がしない。生徒会長と同じ金髪だからだろうか。そうはいっても、生徒会長の金髪はいくらか気品の様なものを感じるのに対して、こちらの金髪は浮ついた、ポップコーンのような軽々しさを思わせる。いずれにせよ、金髪はもうお腹いっぱいだ。なるべるなら視界に写したくない。
「どしたの? ちーちゃん。そんな怪訝な顔して」

「別に、そんなことないよ」

「あるって。ほらほら、笑って笑って。ちーくんって言ってみ? 自然と笑顔になるよ」

「言わないよ」

 いーっと歯を向けて笑う千隼くん。正直その脳天気さが羨ましい。

「さっきの、会いたいなって。誰? 長谷?」

「ぶっ」

 突然の右ストレートにわたしはうなだれる。

「き、聞いてたの? ていうか、違うし。淳平じゃないし」

「ちーちゃんぶつぶつ喋りながら歩いてたよ。丸聞こえ丸聞こえ。かわいいなあもう! 何? 最近長谷とご無沙汰なの?」

「やめて! だから違うってば……! まあ、いろいろ忙しくてあんまり話してないのは本当だけど」

「そうなの? ……あのさちーちゃん。違ってたらごめんね」

 突然真面目な顔になる千隼くん。先ほどまでのテンションと打って変わった高低差に拍子抜けしてしまう。

「生徒会に入るって、本当?」

「――!」
 
 なんの身構えもしていなかったわたしに、突然放り込まれた一撃。
 完全に油断していた。誤魔化さなくては。そう思った時には、わたしの表情筋の全てが動揺を物語っていて、もはや手遅れとなっていた。
「そ、そんなわけないじゃない! もう、千隼くんってば。変なこと言わないでよ。あははは……」

 あわてて言葉で取り繕っても、じっとこちらを見つめる視線は疑念に満ち満ちている。これはまずい。非常にまずい。
 一体どうして、気づかれてしまったのだろう。人目に付かないよう気をつけていたけれど、中央棟に向かうところを誰かに見られてしまっていたのだろうか。
 一番知られていけない人に気づかれてしまったかもしれない。千隼くんは社交性のモンスターような人だ。彼にかかれば簡単に、噂は爆発的に全校に広がってしまう。そうなれば全て台無し。生徒会長に見切られて、わたしはこの学園からおさらばだ。
 最悪な妄想が広がっていく。そうして青ざめていく顔が、より肯定を露わにしていくのだが、わたしはそれに気付く余裕もなく。
「大丈夫だよ」

 誰にも聞こえない小さな声で、千隼くんはそっと耳打った。

「え……?」

 思ってもみないその言葉に、渦巻いていた不安や焦りは打ち消され、混沌となっていたわたしの頭は穏やかに凪いでいく。
 わたしはぽかんとして、千隼くんをみる。
「たぶん、口止めされてるんでしょ? 絶対、誰にも言わない。俺、ちーちゃんの味方だから。困ったことがあればいつでも言って。力になるよ」

 驚くほどに力強くて、優しい声。
 正直、彼がこんなに頼もしく見えたのは初めてだ。今まで見てきたどの千隼くんとも違う。本当に大丈夫なのだと思わせてくれる不思議な安心感があった。
「ね!」

 耳元から離れた千隼くんは、またいつもの飄々とした笑顔。

「……ありがとう」

 そう言ったわたしの笑顔はひどくぎこちないものだったに違いない。
 否定も肯定もしていないけれど、おそらく誤魔化しはすでに意味をなさない。ならばもう、彼を信じるほかないのだ。本当に頼りになるかどうかはわからないけれど。