ヒーロー本編 | ナノ

2

 ◆


 こういうときに限ってすれ違ってしまうのは、もはやお約束なのだろうか。やっと迎えた放課後、わたしはとぼとぼと一人校舎を後にしようとしていた。
 終業のチャイムが鳴ったとたんに、淳平はあっという間に教室を出て行ってしまった。おそらく今日もまた集合がかかったのだろう。正義の味方というのはこうも大忙しなのか。宇宙人ももっとゆとりを持って、たまには休みを取り入れるべきだ。勤勉なことが必ずしも良いこととは限らない。
 そんなわけで、ついに淳平に事の真相を聞くことは出来なかった。だが、このもやもやを抱えたまま明日を迎えるのだけは避けたい。差し入れを持って由良さんちまで行くべきか、そう考えを巡らせていた。

「やっほー。ちーちゃん。今帰り?」

 どこかで聞いた声が後ろから飛んできた。はてさて、誰だったか。この馴れ馴れしさには覚えがある。警戒しながら振り返ると、視界に飛び込む眩しいまでの金色に、明瞭な記憶がよみがえる。

「えっと、二階堂くん。だっけ」

「そんな他人行儀な呼び方しないでよ。ちーくんってよんで!」

 両人差し指で口元を引っ張りながら、にーっと歯を見せて笑う。

「何の用ですか、二階堂くん」

 そんな彼の要望は聞かなかったことにして、用件を問う。淳平のところに急ぎたかったし、なによりこの馴れ馴れしさはあまり得意ではなかった。

「酷い! 名字呼びはすっごい距離感を感じるよ? ちーちゃん!」

「わたし的にはこのくらいの距離感が妥当なのだけれど……というかちーちゃんって何ですか」

「え? かわいいでしょ、ちーちゃん」

「いや、かわいいでしょ。とかじゃなくて……」

 この人はあれだ、一度話せばそれでもう友達! という極端な基準のもと、やたら社交性が有り余りすぎて相手との適切な距離感が掴めていない
、そういうタイプなのかもしれない。
 彼にとってのわたしは友達でも、わたしにとっての彼はこの前ハンカチを拾ってくれた隣のクラスの人、なのだ。申し訳ないけれど。

「『ちさこ』だからちーちゃんで、いいと思うんだけどな。呼びやすいし。ほら、俺も『ちはや』だから同じ『ち』から始まる三文字同士だし! ね、もう仲良くするしかないよね!」

「はあ」

 よくわからない理論を持ち出されても困るだけなのだが、こちらの心中なんて全く察してくれていないのだろう。彼はマイペースに、会話の主導権をけしてこちらに譲らない。

「だからほら、俺のこともちーくんって呼んで良いからさ!」

「それは嫌です」

「酷いなあ……じゃあせめて名前で呼んでよ。名字だと堅っ苦しいからさ。それくらいならいいでしょ。あと敬語もだめ、ねっ」

 人差し指を立てて、ウインクまで決めてくるとは。どこまで狙ってやっているのだろう。ここまでしつこいと、拒否し続ける方が面倒だ。こっちが折れるしかない。一体この人の溢れくる社交力はどこから沸いてきているのだろう。誰に対してもこの距離感でいられるというのは逆に羨ましい気さえもする。

「わかった……わかったから。それで一体、千隼くんはわたしに何の用があって声をかけたんですか」

「まあ、特に用はないんだけどさ。昇降口でちーちゃんを見かけたから、元気かなーと思って」

 ――用はないんかい!
 思わず声に出そうになるのを押さえる。

「それと、今日補習で長谷と一緒でさ。ちーちゃんの事気にしてたみたいだったから」

「えっ」

 失礼にも先ほどまで適当にあしらおうと思っていたのに。長谷、という単語に露骨に反応してしまう。我ながら正直すぎて悲しくなってくる。
 餌を投げ込まれた池の鯉のようなその食いつきに、千隼君はにやりとした。

「あはは、やっぱりちーちゃんって面白いね。朝、いろいろあったんでしょ? 学校中の話題になってたから、長谷にいろいろ聞いちゃった」

「いろいろ? な、なにを聞いたの?」

「えー? なんかちーちゃんの様子がおかしかったから。腹でも痛かったのかなって、気にしてたみたいだけど」

 ――なんだそれは……!
 いろいろ、の内容で聞きたいところはそこじゃないし、淳平も淳平で鈍感すぎる。腹が痛いわけあるか。馬鹿か。

「しかし、長谷もすごいよな。あの八戸家のお嬢様に好かれるなんてな! 人の好みなんてほんとわかんないよな」

「知ってるの? 八戸さんのこと」

「うん、知ってるよ。俺ってこれでも情報通だし?」

「淳平の……彼女だって話は?」

「えっ、彼女?」

 千隼君は驚いた様子を見せる。

「なにそれ、はじめて聞いた。それマジ? いいの? ちーちゃん」

「千隼君も知らないのか……」

 思わぬところで核心へと触れられるのでは、と期待したのだが。淳平からの話を聞いているであろう千隼君でさえ聞いたことがないのであれば、やはり本人に聞くしかないのだろう。

「長谷に彼女ができたならすぐ俺の耳にはいると思うんだけど……。しかも、相手が相手でしょ? 俺が気づかない訳がないよ。まあ、気づかない場合もあるけど」

「どっちよ」

 こうなれば、すぐにでも由良さんのところへ向かおう。あそこへ行けば遅かれ早かれ淳平に会える。

「わかった、それは本人に聞いてみるよ。ありがとう、千隼君」

「あ、うん。がんばってね。ちーちゃん」

 そう言って、千隼君はわたしを送り出してくれた。
 当初ならもっと早く学校を出られたところを、無理矢理引き留められたのだから、迷惑な話ではあるのだが。本人に悪気はないのだ。今日のところは寛大な心で、大目に見ようではないか。
 わたしの心は商店街へと逸る。校門を出たわたしは、八百屋タカサキへとダッシュした。


 ◆

 
 学校から商店街へは、歩いて二十分程度の距離がある。途中のコンビニで適当にお菓子を買って、時折走りつつ早足で向かう。
 暮れかけの夕日が進む先のアスファルトを赤く染めていた。夕方五時を告げる音楽が遠くから聞こえてくる。真っ赤な空をカラスが横切って、ずいぶん風情のある情景だなと、進む足は止めずに思う。
 そんなときだった。
 ドン! と鈍い音を立てて、目の前に大きな固まりが吹き飛んできた。背の高い軽自動車位の大きさのそれは、道路に沿って建てられていた誰かの家のブロック塀にぶつかる。がらがらと音を立てて、四角く積み上げられていたコンクリートが無惨に崩れた。

 ――ああ、なんか。前にもこんな事あったなあ。

 あふれ出る既視感に。わたしは思ったより落ち着いて目の前の光景を眺めていた。崩れたブロックに埋もれていたそれは、ゆらりと大きな体を起こす。半透明の白、ぬらぬらと艶めく身体にくねくねと蠢く十本の脚。それは、どこからどうみても巨大なイカだった。
 そのイカの正体がなんなのか、わたしはすぐに理解できた。そして、それをここまで吹き飛ばした者たちの事も。

「痛イカー!」

 ザ・イカの怪獣というようなテンプレを語尾に飾って、巨大イカはその脚で器用に身体にのしかかるブロック塀を取り除く。
 宇宙人って、なんでもありなのだな。などとぼんやり考えていたが、そんな余裕はない。わたしは一般人。このまま居たら巻き込まれてしまう。鞄と買い物袋を強く握りしめて、相手がこちらに気づかぬうちに脱兎のごとく駆ける。が。

「許さなイカー!」

 そう声を張り上げて、吹き飛ばされた怒りをイカは思い切りぶちまける。ブロックの投擲という、無差別的な八つ当たりだ。先ほど自分が壊したブロックを、手当たり次第に掴んでは思い切り投げている。
 イカにとってはただの八つ当たりでも十キロ近くあるコンクリートの固まりが飛んでくるなんて、人間側からしたらとんでもない。
 そして、さらにとんでもないのがそれが見事にわたしめがけて飛んできているということだ。

「……嘘っ」

 飛んでくるブロックはわたしの運動能力を上回るほど速く、どうあがいても避けられない。どうしようもないとわかっても、わたしは反射的に腕で頭を守る体勢をとって身構えた。

 ――ああもう、最悪だ! 最悪だし、最悪だ。あれもこれも、全部あいつのせいだ。
「淳平の馬鹿!」

「なんでだよ!」

 思わず言葉となって出た憤りに、鮮やかに突っ込みが入る。それとともに、わたしの身体がふわりと浮いた。目が回るような視界の動き、風を切る感覚と一瞬の無重力。突然のことに頭は混乱して、なにがなんだかわからなかった。
 正義の味方に抱き抱えられ、窮地を救われたのだと。気づいたのは彼が地面に着地したときだった。見覚えのある真っ赤なヒーロースーツ。どきどきと高鳴る心音は、恐怖のせいだけではない。

「淳ぺ――」

「重い! いつまで抱えさせるんだよ」

「な、重いとは失礼な……」

 言い掛けて、はっとする。自分の今の状況に。飛んできたブロックが直撃する寸前に、淳平がわたしを抱えて助けてくれたのだ。しかし、この抱き方はどうみてもお姫様だっこだ。淳平の腕はわたしの背と膝裏に回され、思わずしがみついていたわたしの両腕もしっかりと彼を抱きしめている。ぴったりとくっついた身体、スーツ越しに伝わる体温と触れ合う肌の感覚。そのあまりの距離感に、突然にして恥ずかしさがこみ上げてきた。

「ぎゃあああっ」

「おわっ、突然暴れんなよ!」

「馬鹿! 放しなさいよっ……痛ぁ!? 突然放す奴がありますかっ」

「お前、いってることめちゃくちゃだからな!?」

 なんというか、本当にいろいろとんでもない。急に身体を解放されて、
当然わたしは地面へと落とされる形になる。尻餅をついたお尻は固い地面の感覚を直に伝えて、かなり痛い。

「レッド! 早く!」

 たまきちゃんの声が聞こえた。
 涙目になった瞳をこすってそちらを向くと、先ほどの巨大イカとの戦闘の真っ最中だった。ピンク色のヒーロースーツに身を包んだたまきちゃんと、同じくブルーの託仁さんが一進一退の攻防を繰り広げている。

「おう! いいか、ちさは早く逃げろ。また助けて、暴れられたらかなわん」

 そう言って、淳平は戦う仲間の元へと駆けていく。

 巨大イカは十本の長い足を巧みに使って、たまきちゃんたちを翻弄していた。そこに、颯爽と現れた淳平が思いきりの良い拳の一撃。
 お尻の痛さなど、とうに薄れていた。淳平の日常はこんな戦いの繰り返しなのだ。そう思ったら、ちくりと胸の奥が痛んだ。
 この戦いを最後まで見守りたい、だけど、そんなことをしては彼らの邪魔になってしまう。迷惑をかけないこと、それが彼らの側にいられる条件。

「がんばって」

 そう願いを込めて、わたしはひっそりと戦場から離れた。


 ◆


「なんでお前がここにいるんだよ」

 磨り硝子の窓を開けて帰ってきた淳平が素っ頓狂な声を上げたのは、わたしが由良さんの部屋で二袋目のポテトチップスを開けた時だった。

「おかえり。お疲れさまでした」

「いや、お疲れさまでした。じゃなくて」

 立ち尽くす淳平を除けて、その後ろからたまきちゃんと託仁さんが部屋へと入ってくる。そしてカララ、と乾いた音を立て窓が閉まる。

「智沙子ちゃん。災難だったわね。怪我はなかった?」

 ゆったりとした動作で隣へと座ると、たまきちゃんはわたしの顔をのぞき込んだ。

「うん、おかげさまで。逆に迷惑かけちゃってごめんね」

「いいえ。大丈夫ならよかったわ」

 六畳の空間は、五人の人間がいるとあっという間に賑やかだ。先ほどから由良さんと二人、彼らの帰りを待っていたのだが、由良さんはパソコンを見つめたまま定期的にマウスのクリック音をならすだけだったので正直かなり退屈だったのだ。おかげで部屋にあったお菓子を勝手に一袋平らげてしまった。ダイエットしようと思っていたのに。

「長谷、いつまで立ってるんだ。座ったらいいだろ」

 立ち尽くしたままの淳平を託仁さんが促す。

「そうよ。座ったら。ずっと立たれてるのも目障りだし」

「うるせーな。だから、なんでちさがここにいるんだって。さっきから聞いてんだろが」

 やっと座った淳平が、じっとりとした視線でこちらを見る。

「いちゃ悪いの? 本当は差し入れ買ってきたんだけど、さっきの戦いに巻き込まれたときに鞄も袋も全部置いたままにしちゃったから。ここにいればそのうち淳平が持ってきてくれるかな、と思って待ってただけよ」

 半分嘘だが、半分本当だ。
 ここに来た本当の理由ではないのだが、先ほど淳平に助けられたとき、持っていた荷物全て手放してしまっていたのだ。案の定淳平はそれを拾ってきてくれたみたいで、むっとしながらも手渡してくれたそれらを受け取る。

「というわけでこれ、差し入れなんで。食べてくださいね」

「ありがとう、智沙子ちゃん」

「いえいえ。これくらいしなくては」

 みんなで食べれそうなお菓子やら飲み物やら、たくさん買い込んでいたのだ。落としたりいろいろしてしまったので、砕けていたり炭酸飲料がひどいことになっていそうだが。それは全部淳平にあげればよい。

「……せっかくいろいろ買ってきてくれたんだけど、私すぐに帰らなくちゃならないの」

 そう言ってたまきちゃんは立ち上がる。

「えっ、そうなの? 残念……。モデルのお仕事?」

「ええ、夜から仕事があってね。だからごめんなさいね。また今度」

「わかった。がんばってね」

 にこりとほほえんで、たまきちゃんは荷物を手に立ち上がる。

「ほら、託仁。行くわよ」

「えっ」

「送ってきなさい。当然でしょ?」

「ちょ、ま……、待てよ、前園……!」

 飲み物を吟味していた託仁さんは唐突なたまきちゃんの言動に、拒否する隙さえ与えられない。いつの間にか託仁さんの腕をがっしりと掴んだたまきちゃんに、ずるずると引きずられるようにして連れ去られていく。

「バイバイ、智沙子ちゃん」

 とびきりの笑顔で手を振って、たまきちゃんは託仁さんを引きずったまま部屋を後にしていった。嵐のように二人が去っていくと、妙な静けさが部屋に広がった。

「あの二人、付き合ってるんだよね。なんというか、託仁さんも隅に置けないなあ、って思ってたけど。もう尻に敷かれてるのか……」

 ニュースを見たときは本当に驚いた。人気モデルのハートをどうやって射止めたのか。そのあたりの話をじっくり二人には聞きたいのだが、なかなかゆっくりはなせる機会がなく未だそう言う話は聞けていない。

「えっ、そうなの?」

 裏返った声が突然響いた。びっくりして思わずそちらを見ると、先ほどまでパソコンに夢中になっていたはずの由良さんが立ち上がって驚愕のポーズをとっていた。

「え、知らなかったんですか? 結構話題になってるんですけど。テレビとでもやってたんですよ」

「いや、俺テレビ観ないし。基本的に三次元のニュースとか興味ないし」

「あ、そうですか」

 本当にこの人は大人として大丈夫なのだろうか。時折すごく心配になる。

「そうか……こんな身近にリア充が……くっ……忌まわしい……」

 何かぼそぼそと言っているが、気味が悪いので聞かなかったことにしよう。

「付き合ってる、といえばさ」

 由良さんの存在は気にしないことにして、わたしは淳平へと向き直った。この流れで、すべてはっきりさせよう。
 突然自分へと向けられた視線に淳平は少し戸惑った様子だ。

「なんだよ、ちさ。突然」

 改めて向き合うと、なんだか急に緊張してきた。聞きたいけれど、聞きたくない。そんなせめぎ合いが胃を圧迫してくる。手のひらに急激に汗が滲んでゆく。頑張れ、負けるな、わたし。

「朝の、あの子! ……か、彼女だって、本当?」

 ついに言った。言ってしまった。
 どくどくと心臓が高鳴る、この動悸は先ほどのもの以上かもしれない。

「……なんで?」

 きょとん、と淳平は目を丸くしていた。なぜそんなことを聞かれるのかわからないと言った感じだった。
 まさか問い返されると思っていなかったわたしは、カウンターパンチを食らった気分になる。

「なんでって! あの子言ってじゃん。淳平の……彼女だって」

「ああ、あれか」

 ああもう、何でこんなにじらされるのか。覚悟を決して断頭台に立っているのだ。はやいことギロチンでもなんでも振り落として欲しい。死にたくはないけれど!

「んなわけないじゃん」

 冗談に決まってんだろー。眉根をつり下げて、おどけた笑顔を浮かべながら淳平は言った。確かに、そう言った。

「えっ、ほんと! 冗談!?」

「そうだよ、冗談。彼女とか、出来るんなら欲しいくらいだわ。モテない男の人生はつらいもんだぞ」

 ――や、やったー!

 断頭台からバンジージャンプで生還し、高らかに万歳三唱。わたしの心中では、これから三日三晩の感謝祭で御輿を担ぎながら寝ずのパレードを開催することが決定し、まず前夜祭として一晩中踊り狂おうというではないか! というほどの喜びが駆けめぐっていた。
 心の中の大フィーバーを感づかれぬように必死に押し隠して、それでも広角はにやりと歪んでしまう。なんにせよ、良かった。本当に。
 
「そっかー。だよね、淳平に彼女なんて、できるわけがないよね」

「なんでそんなに嬉しそうなんだよ。ムカつくな。……つーかなんで、そんなことが気になったわけ?」

「うぇっ?」

 そんなことを聞かないで欲しい。お祭り舞台は一斉に撤収され、ぎくりと肩がこわばる。

「えっと、だって。そりゃあ淳平は幼馴染みだもん。ずっと人生を見守ってきたこちらとしては、やっぱり彼女が出来たら紹介くらいして欲しいじゃない。一人息子を思う、母親のようなもんよ!」

 とっさに何を言っているのだ。わたしが目指しているものこそ、その彼女なはずなのに。お母さんになってどうする。
 
「ふーん。まあわかったよ。幼馴染みとして約束しよう。俺に彼女が出来たときは、ちさ。真っ先にお前に紹介してやるからな!」

 無情にも、彼はとびきりの笑顔でわたしに向かって親指を立てた。その笑顔があまりに眩しくて、直視することが出来なかった。


 ◆


 それから、わたしは淳平にすみれちゃんのことを聞いた。
 なんでも、一月前に突然声をかけられて知り合ってから、自分を慕ってくれる良き後輩なのだそうだ。
 彼女は去年の冬助っ人として出ていた野球部の試合を偶然観たことがきっかけで、淳平にあこがれを抱いたのだという。彼女は淳平を追って一般科に入学をし直し、彼がいると思って野球部に入部したらしい。残念ながら彼はただの助っ人で、野球部員とは全く違ったわけなのだが。
 それにしても、なんと素晴らしい行動力だろうか。彼女は淳平に会うというただそれだけの為に、エリートコースを捨ててまで一般科に来ていたのだ。
 そうなると、彼女を駆り立てた行動原理である目の前のこの男は、なんと罪深い奴なのだろうか。人生を返るほどであろう決断をさせておいて、その恋心にまったく気付いていない。
 すみれちゃんの『彼女』発言は、彼女なりの宣戦布告だったのだろう。それを『冗談』の一言で片づけてしまうのだから、本当に恐ろしい男だ。いつか天罰が下るのではないか。というか、下ってしまえ。

 由良さんの家から出た頃には、もう日はすっかり沈んでいて。商店街はそのほとんどのお店がシャッターを下ろし、どこからか夜ご飯のにおいが漂ってきた。
 それを嗅いだとたんに、なんだかおなかが空いてきた。正直な腹の虫は遠慮なく音を立てる。

「お前、さっきさんざん菓子食ってただろうが」

「う、うるさいわね! こういう時は聞かなかったフリをしてくれるのが優しさでしょう」

「悪いな。お前に割く優しさはないんだ」

「なんだとこのやろう」

「しっかし、今日は朝から散々だったな。ちさは突然キレるし、校門に人だかりを作られたうえに置き去りにされるし。二回も鞄を届けるはめになった」

 ぽっかり浮かんだ半月を見上げて淳平がぼやく。

「悪かったわね。でも、あれは淳平にも責任があるんだから。そのへん自覚しなさいよね。あと、お腹が痛かったわけでもないから!」

「そうなのか? わけわかんねぇ。ていうかなんで腹?」

「千隼君に聞いたの、気にしてたって」

「っていうかちさ、二階堂と知り合いなの?」

「え、うん。この前急に声かけられて、知り合いになったの。淳平と仲良いんでしょ?」

「いや、そうでもねえ! 補習でよく会うってだけ」

「そうでもないの?」

 千隼君の口振りからして、仲の良さげな友達だと思っていたのだが。淳平の場合も、彼が一方的に友達と思っているだけなのでは。そう思うと、千隼君の交友関係は彼が思っているよりもずっと希薄なのではないかという心配が沸いてきた。頑張れ、千隼君。応援はしている。

「いい奴だけどな」

「もんじゃの予約も彼のおかげなんでしょ」

「あ、そうだった。忘れてた」

「忘れないであげなよ」

 そんな他愛のない会話をしていると、帰り道はあっという間だった。中身なんて特にない、なんて事のない言葉のやりとり。それがとても心地よくて、時間が過ぎる事なんて忘れてしまいそうだ。このまま、こんな時間がずっと続けばいいのに。
 気が付くと、もうわたしの家の前。ああ、あっという間だ。名残惜しい気持ちはあるが、また明日会えるのだ。今日はここで別れを告げよう。

「じゃあな、ちさ」

 手のひらで合図して、淳平は歩き出す。

「うん、また」
 
 そう言ってわたしも、玄関へと向かう。
 門をくぐろうとして、足が止まった。

 ――そうだ。まだ、言っていなかった事があった。

「淳平!」

 道路へ出たわたしは淳平を呼び止める。彼が足を止めたのを見て、そちらへと走る。

「なんだよ。忘れもんか?」

「うん」

 そんなものあっただろうかと、首を傾げる淳平。わたしはにやりと笑って、小さな声でこう告げた。

「言い忘れ。今日は、助けてくれてありがとう。かっこよかったよ。正義の味方さん」

 思いもよらなかったのだろう。淳平は目を丸くしている。わたしの方も、なんだか気恥ずかしい。そういえば、面と向かってこんな事を言ったのははじめてかもしれない。

「――それじゃあ! おやすみっ」

 急に照れくさくなって、居てもいられなくなったわたしはそれだけ告げて、逃げるように家に帰った。走り去る背に向けて淳平が返した言葉があまりに大きな声だったので、それがなんだかおかしくって。玄関のドアを閉めてから、思わず笑ってしまった。
 近所の人にも聞こえているかもしれない。いったい何のことかと、不思議に思うだろうか。


 甘すぎて、どうにかなってしまいそうだった朝の気分も、夜になればすっかりさわやかな風にさらわれていて。いろいろあった一日も、終わってみればこうして笑顔になっている。

 たぶんきっと、また明日も、恋する道は障害ばかりだ。
 でも、どんな壁も蹴り飛ばしてくれる正義の味方が側にいるなら、安心だ。



『当たり前だろ! 何度でも、助けてやるよ!』


 耳に残った君の言葉。
 なんと、頼もしいことだろうか。スーパーヒーロー。