ヒーロー本編 | ナノ

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 昨日あった出来事は、あの場にいた部活仲間たちの記憶には残っていなかった。襲われた衝撃で記憶が飛んでしまったのか、それともブラックが何かをしたのか、彼らの中では突然の睡魔に襲われて路上で寝てしまったという出来事として、昨日の事件は記憶されたようだ。
 平穏無事な毎日が送れるのならば、それでなによりだ。言われたとおり俺は他言を貫き、病院に行くからとその日の部活を休んだ。
 すべてを忘れて、なかったことにして日常に戻る。そうすることも出来た。それをしなかったのは、一度知ってしまったら、関わってしまったら放っておくことが出来ない。そんな性分が許さなかったからだろう。

 そして今、商店街の一画に俺は立っていた。
 『タカサキ』の看板を見上げる。赤やオレンジなどビビッドな色合いで塗られていたであろうその文字は、今は色あせて商店街にと共に歩んだ歴史を物語っている。俺の生まれる前から、この店はずっと町の人に親しまれてきたのだろう。夕方の店内は主婦や仕事を終えて立ち寄ったサラリーマンの姿が見え、静かな賑わいを見せていた。
 黄色い画用紙に赤で書かれた特売品のポップが、落ち着いた自然の色の並ぶ店頭ではひときわ目立っていた。その値段がどれくらいお得であるのか、普段買い物などすることのない俺にはよくわからない。
 
 まあ、そんなことはどうでも良いのだ。俺の興味の関心はそれ以外のところにある。昨日俺に降りかかった出来事は何だったのか、それを知ること。それこそ俺が今日、部活を休んでまでここにきた理由だ。
 だが、今まさに俺の意識のど真ん中にあるのは、その目的とは違うことだった。何の変哲もない八百屋。野菜たちが主役の舞台において、蛍光色のポップを纏う彼らを差し置きひたすらに目を引く存在がいた。

 たたずむ少女が、ひとり。 
 彼女は間違いなく。この場における主役の座をかっさらっていった。八百屋という野菜の独壇場。そんな中で、主役級の野菜たちを脇役へと引きずり落とし、ステージの真ん中、脚光を一身に浴びる。
 気がつくと、俺は彼女に見とれていた。ゆるやかに揺らめく、腰まで伸ばされた艶やかな黒髪。纏う衣装は俺の通う学校の女子生徒の制服だった。見慣れたはずのセーラー服がきらびやかなステージ以上と見紛ほど、完璧に着こなされていた。着る人が着れば、こんな風にも見えるのか。と、俺は妙な関心をしてしまった。
 制服の上には黒いカーディガンを羽織り、その袖口からは白い指先が覗いている。スカートからすらりと伸びる脚は黒いタイツに覆われて、そのシルエットを際だたせる。華奢な身体、細い手足はまるで絹のようにきめ細やかで、上向きにカールした長いまつげに、うっすらと色づく頬、形の良い唇と、人形を思わせる整った顔立ちと相まってまるで芸術作品のようにみえる。
 セーラー服を纏った黒髪の美少女。それはまさしく、彼女のことを指すのだろう。
 商店街の一画、ありふれた日常風景にとけ込むにはいささかミスマッチな存在だった。それもあって、俺は彼女へ向けた視線を他に向けることが出来ないでいた。知らずのうちに、視線は熱を帯びる。そしてその熱は、しっかりと彼女の元に届いてしまう。

 ーー目が合った。

 町ですれ違う人たちをほんの一瞬見つめてしまう。それは誰だってあることだし、そんな些細な視線など気に留めず、普通の人はそれぞれの日常を続けていく。しかし、俺が彼女に向けていた視線は些細と言ってしまうにはよけいな感情が入り込みすぎていた。
 きっと、彼女もそれを見抜いたのだろう。こちらへと向けられるその視線は、俺の背中に冷たい汗を走らせるほどの力を秘めていた。絶対零度。呼吸をすることすら申し訳なくなるような、猜疑に満ち満ちた目。
 どっ、どっ、心臓が高鳴る音が聞こえてくるようだった。視線は未だに俺を絡め取るようで、身体に変に力が入る。蛙が蛇ににらまれた時の感覚はきっとこれに近いのだろう。
 そこまで思って、逆に考える。初対面の、同じ学校の女子生徒を相手に一体俺は何をやっているんだ。なぜこんな風にビクつかなくてはならないのだ。別に俺は何もしてやいない。
 偶然出会った女の子を、少し、綺麗だなと思っただけだ。
 そんなことよりも当初の目的を忘れてはいけない。八百屋タカサキ、ここの二階だったか。そうして、八百屋の上方を見上げた時だった。

「ねぇ、あなた」

「は、ハィっ……!?」

 突然の声に、反射的に飛び出した返事はとても聞き苦しいものだった。身体が跳ね上がり、心臓が口から飛び出すのではないかという程に脈打つ。いつの間にかこちらに近づいてきていた彼女が、俺の目の前で不信感を惜しげもなく露わにし、眉をひそめていた。

「さっきから、何?」

 完全に、不信人物と思われているだろう。
 警察に突き出されるかもしれない。そんなつもりは毛頭なかったけれど、女性の方が不快に思ったらその時点でアウトなのだ。哀しきかな、このご時世。男の肩身は途轍もなく狭いのだ。
 しかし、ここで人生をあきらめる訳には行かない。まだ、弁明の余地はある。

「私に、何か用かしら?」

 形の良い唇が紡ぐ言葉は、バラよりも鋭い棘がある。その棘が刺さらぬよう、俺は必死に言葉を探す。
 
「いや……ごめんなさい。別に用事とかはないんだ。ただ、同じ学校の制服だったから」

「だから、何? 確かに、私はあなたと同じ望月高校の生徒だわ。けれど、それとあなたのあの気持ち悪い視線とに何の関連性があるのかしら? あなたはこの制服を着ている人に対して、誰にでもあのような下卑た視線を送っているの? だとしたら、相当の変態ね」

 彼女の視線が、どんどんゴミを見るものに変貌していく。

「ち、違う! 断じてそういうことではない!」

 思わず荒くなる声。思った以上に大きい声が出てしまった。あたりを歩く人たちまでが、怪訝そうにこちらを見る。まずい。握りしめた掌がみるみるうちに湿っていく。

「じゃあ、何だというの? 理由がないならやめてくれない? 不快だから」

「いや……本当に。悪かった。ごめんなさい」

「謝れば済む問題でもないけれど。誤魔化さないで。場合によっては、警察に相談もできるのよ?」


「なっ……、そ、それは勘弁してくれ」


 先ほど過ぎった予感が現実のものになりかけている。ポケットからスマートフォンを取り出して口角を歪める彼女は場合によっては本当に、言動を実行しかねない。

 彼女にとってどう見えたのかは知りようがないが、不埒な動機で彼女のことを見ていたわけではない。ほんの一瞬、気の迷いのようなものだ。俺の行動によって彼女に実害が及んだわけでもないのに。どうしてこんなにも問いつめられなくてはならないのだ。おまえの方が自意識過剰なんじゃないのか。

 次第にそんな苛立ちが沸き上がってくるも、それを正面からぶつけて本当に通報されでもしたら、たまったもんじゃない。不利なのは圧倒的に俺の方なのだ。

 そんなものは特になかったのだが、彼女を見ていた何かしらの理由を提示しなければ。110と表示されたディスプレイの通話ボタンに、今にも触れそうな程彼女の指先が近づく。


「君のことが気になったんだ!」


 追いつめられた口先から飛び出た言葉はこれだった。

 

「ふぅん?」


 気持ち悪い、とさらに怪訝な顔をされるのではと思ったが、彼女は悪戯に広角を歪めた。


「……同じ学校なのに、見かけたことなかったし。その、すごい、美人だなーって……」


 一体俺はなにを口走っているのか。正直な話であることに間違いはないが、だからこそものすごく恥ずかしい。顔が熱い。彼女の顔をまっすぐに見られず、俺は視線を足下にそらす。


「それじゃあ、通報をやめる理由にはならないわね」


「え」


 淡々と告げた声に、とっさに顔を上げるも時すでに遅し。

 プルルル、彼女が耳元に寄せるスマートフォンからは無慈悲な電子音。ぞっと、全身に鳥肌が立った。


「もしもし。警察ですか?」


「うわああああああああ間違い電話です!」


 半ばやけになって彼女からスマートフォンを奪うと、電話口にそう叫び、通話を終了する。ディスプレイから通話画面が消え、俺は大きく息を吐いた。今までにないくらい焦ったかもしれない。肩を上下させて、俺は彼女を睨んだ。


「ぷっ……」


 突然彼女は吹きだした。

 くすくすと、手で隠した口元から笑いが漏れる。その目にはうっすら涙まで浮かんでいる。

 何がそんなにおかしい。そう言おうとするより前に、彼女は俺の持つスマートフォンを指さす。


「発信履歴、みてみなさいよ」


「発信履歴………………!?」

 

 思わず、手の中からスマートフォンが滑り落ちそうになった。二、三度まばたきして、俺は自分の視界を疑いたくなった。

 117。

 通話履歴の一番上に表示された番号である。

  

「あなた……ふふ、ほんと……ふっ、ふふふふ……」


 呆然とする俺を見て、彼女は笑いが止まらなくなったようだ。

 心から楽しそうに笑っている。

 こちらとしては、まったく笑えない。

 すべて、彼女の掌の上で転がされていたのだ。


「あ、んた……!」


 どうしようもない醜態を晒して煽られた羞恥心は、彼女への怒りに形を変えて沸き上がる。しかしその怒りも彼女へと思い切りぶつける訳にもいかず。発散しきれず煮えきれない感情が行き場をなくして宙をさまよう。


「時報相手に間違いです、だなんて。滑稽ね」


「騙したな……」


「あら、騙すなんて心外ね。通報されずにすんだんだから、この場合感謝の言葉が出てきてもおかしくないんじゃない?」


「感謝なんてするか!」


 俺は地面を思い切り踏みつけた。こうすることでしか感情の逃げ場を生み出せなかった。彼女へ文句の一つでも言ってやりたかったが、言い負かされる予感しかしなかったのだ。勝ち目のない勝負を無理に挑むことはない。これは戦略的撤退だ。ひるんでいる訳ではない。断じてない。


「落ち着きなさいよ。ここ、商店街の真ん中よ? 恥ずかしいと思わないの?」


「ぐっ……」


 完全に弄ばれている。忙しない俺の感情と相反して、彼女はずっと余裕の表情だ。顔立ちが整っている分、よけいに見下ろされているような感覚がして面白くない。

 俺が慌てふためく様を楽しんで見ているようだ。この女はきっと、人が困っている表情を見ることにこの上ない愉悦を感じる部類の人間だ。外面が良い分、余計にたちが悪い。一瞬でもその外見にみとれてしまった過去の自分を殴り倒したい。とんだ悪魔に捕まってしまった。

 抱えた頭が重い。嫌でもため息が口からよどんだ空気となって吐き出される。

 ああ違う、当初の目的を忘れるな。

 俺は、彼女に遊ばれるためにここに来たわけではないのだ。

 

「……なんというか。いろいろと済まなかった。通報しないでくれてありがとうございました。俺は用事があるんで、行きます」


 ここはもう自分が折れることにして、この場を立ち去ろう。そう思い、俺は口早にそう告げて、頭を下げた。なるべく失礼のないように、深く丁寧なお辞儀だ。


「そうね。私も、あなたみたいな変質者に構っている場合ではなかったわ。それじゃあ、さようなら。今後女性を見るときは表情に気をつけた方がいいわよ」


 言わんでもよい一言を付け足して、彼女はひらひらとその手を振った。

 それを視界の端で確認して、俺は当初の目的を果たすべく八百屋へと脚を進める。

 まずどうやって二階へと行くのか。それを確認しなくては。八百屋タカサキは店と住居が一体になっている作りだ。一階の商店街に面した部分が商業スペースとなっており、扉を隔ててその奥は住居スペースとなっているようだ。

 二階は住居になっているため、当然店内には階段がない。そこへ行くためには家の中に入らなければならないようだが、店員に突然『二階にいきたい』などといっても不審がられるだけだ。今度こそ本当に警察を呼ばれかねない。

 店内をきょろきょろと見回しているこの時点で、店内にいる何人かは俺へと怪しげな視線を送ってくる。このまま怪しまれ続けるのも良くないので、一度店の外へ出る。


「なんで君がここにいるんだ」


 店の外に出て、俺はまたしてもその目を疑った。

 そこにいたのは、見慣れたセーラー服を纏った少女。先ほど嫌という程言葉を交わした黒髪の美女だった。


「それはこちらの台詞。私はここに用があるのよ」


 ここ、と俺が今出てきたばかりの八百屋を指さす。

 奇遇の一言で片づけるには嫌な予感がする。八百屋に用があるなら、普通は買い物しかない。しかし彼女からはいっさい買い物に向かう素振りは見受けられない。

 嫌な予感は的中するものだ。彼女は伸ばした人差し指を、ななめ上空へと向けた。そこは建物の二階部分。


「ここの二階に」


 思わず叫びたくなる衝動を飲み込む。

 

「……き、奇遇だな」


 長いまつげに覆われた瞳が、ほんの少し見開かれた。


「俺も、ここの二階に用があるんだ」


 そのまつげがゆっくり、二回ほど上下した時だった。


「たーのもー!!」


 二階に用事がある。と意気揚々に叫んだ男子高校生が店内に乗り込み、ざわめきを巻き起こしたのち、あっというまに店員に取り押さえられたのは。



 ◆



 それから、店の外につまみ出された長谷淳平、そして黒髪の女ーー前園たまきとともに八百屋の隣に面する路地裏の階段を発見した俺は、ブラックの指示通り二階へたどり着く事に成功。そこにいた司令官とは名ばかりのひきこもり・高崎由良から世界に危機が訪れていることを聞く。

 先日俺がたてた仮説は、そう間違っていなかったらしい。まったくもって喜べる事ではないが。それはさておき、紆余曲折を経て晴れてヒーローに任命された俺たち三人は、半ば強制的に世界の平和のために日夜戦うこととなってしまったのだ。

 

 ヒーローとして戦う事になったことで、俺の日々は忙しないものとなった。普通の学校生活を送りながら、いつどこに現れるかわからない宇宙人と戦う。今までなんとかなっていた勉強と部活の両立も、危ういものとなってきた。それでも、次第にそんな生活に慣れてきてバランスを取り戻せそうになってきたのだが、そんな矢先。

 立ちはだかってきたさらなる受難こそが、彼女という存在だった。


「ねえ、託仁くん。私たち、恋人にならない?」


 飲んでいたジュースをぶちまけそうになった。

 むせかえる俺を若干引き気味に眺める、前園たまきがその提案をしてきたのはヒーロー生活をはじめて数週間がたった頃、放課後の帰り道でのことだった。


「勘違いしないで」


 指を立て、彼女は淡々と言った。


「私にあなたへの恋愛感情は一切ないわ」


「……わかっているよ」


 そんなものもたれても逆に困る。その一言を飲み込んで、俺は先ほどまで飲んでいたペットボトルのふたを閉めた。

 ああ、嫌な予感がする。

 前園のことだ、考えがない訳じゃないだろう。嫌な予感がびしびしと背筋を叩くが、そこは我慢して話だけでも聞いておこう。


「宇宙人と戦うようになって、私たち一緒に行動することが多くなったでしょう。こうやって並んで歩いたり、学校を抜け出したりするときも一緒でしょう」


「ああ、そうだな」


「学校内で噂になってるの、知ってるでしょう?」


 俺は頷く。前園の言わんとしていることがだいたいわかった。この問題は、俺自身どうにかしたいと思っていたことだ。俺と前園が一緒にいるのを目撃した。そういう噂が学校内で流れ始めている。

 ともに戦う以上、一緒にいることは避けられない。ある程度タイミングをずらしたり、個別で活動したりと怪しまれない工夫はしているがそれにも限界がある。俺は一般生徒だが、前園は人気モデル。噂は瞬く間に広がっていく。


「このままではヒーローとしての活動がばれてしまうおそれがある、ということだな」


「そういうこと」


 世間の混乱を避けるため、宇宙人の襲来やそれに関わることは誰にも話さない。俺たちのなかで決めたルールだ。当然、ヒーローとして戦っていることも、知られるわけにはいかない。

 ヒーローになってから、部活を休んだり、授業を抜けるといった今まで全くしなかったことをしなくてはならなくなった。それによって『何かあったのではないか?』と心配されることが多くなった。

 今は心配ですんでいるが、回数を重ねるごとにそれは疑惑となる。疑惑は蜜だ。真相を求めて、人々は好機にかられる。そうなれば、秘密を守り通すことが難しくなってくる。守るべき人々が敵になる。彼らに足をすくわれて、本懐を遂げることができなくなっては元も子もない。


「恋人関係は、いわば隠れ蓑よ。恋人同士ならば、一緒にいるなんて自然のこと。授業を同じ時間に抜け出したって、部活をさぼって会っていたとしたって、あいつは何よりも恋人を大切にする人間なんだと、ほんの少し失望されるだけでゆるされる。幸い、学校の人たちは私たちが付き合っているのでは、という点だけに注目していてその先の事実には気がついていないわ。恋人ということにしてしまうのは、この状況を隠すにはうってつけだと思うのだけれど」


「まあ、理にかなってはいるが……」


 彼女の言うとおり、恋人同士と言ってしまえばそれ以上の追求をされることもない。なるべく失望などはされたくないが、誤魔化しには十分すぎる効果を発揮するだろう。しかし、すぐに賛同することはできない。


「本当に、それでいいのか?」


 恋愛とは、もっと大切にするべきものではないのだろうか。そんな思いが俺を躊躇わせる。

 高校生活は三年間、時間は有限だ。その限られた時のなかで、俺たちは多くのことを学び、経験する。恋愛も当然、そのひとつだ。

 誰だって人生のなかで一度くらいは恋をする。誰かを想い、結ばれたいと願うものだ。高校生の三年間はまさに青春の真っ只中。好きな異性のひとりくらい、いてもおかしくない。

 恋人関係を明言してしまえば、たとえそれが偽りでも、当然他の誰かとの恋はできなくなる。俺にはあいにくそういう対象はいないのだが、前園はどうなのだろう。彼女の時間を俺なんぞに浪費させてしまうのはいささか、否、大いに心苦しい。それに、人気モデルともなれば彼女を想う人間がいないわけがない。俺は、そんな彼らの希望さえ潰えさせてしまうのか。それはあまりにも、この身には大きすぎる重圧だ。


 ーーまあ、そんなものは御託で。

 本音を言ってしまえば、俺は、はじめての彼女は本当に好きになった子がいい。こういう都合がよいからみたいな形で恋人同士になるなんて嫌だ。

 確かに前園は美人だし、こんな子を彼女に出来たなら男として誇らしいだろうなとは思う。やっぱり、美人が嫌いな男はいない。全くもって喜べない、なんてことはない。多少なり嬉しいとさえ思う。

 しかし、違うのだ。前園への恋愛感情があるか、と聞かれれば俺は首を縦に振ることができない。

 そんな状態では、彼女の提案を受け入れることができない。


「別に私は構わないわよ。むしろ、そうしたほうがいろいろと都合がよいの。でも、あなたは違うみたいね? 付き合うなら、本当に好きな子じゃないと駄目だ。とか、そういう理由かしら? 見かけによらずロマンチストよね、託仁くんって」


「……そういう、わけではないけど」


 何もいっていないのに、見事心中を言い当てられてしまう。俺は動揺を悟られないようにペットボトルのふたを開け、飲みかけのジュースを流し込んだ。オレンジの酸味が乾いた口腔を駆け抜ける。そんな清涼感とは真逆に、心中は鬱蒼としてゆく。すべて、見透かされているのではないか?


「この提案を否定するメリットはほとんどないわよ。ヒーローとしての活動を怪しまれずにできるし、面倒な追求も避けることができる。おまけに、こんな素敵な彼女を手に入れられるのよ? 残りの高校生活で、あなたのロマンスが叶えられる可能性は限りなく低いのだから、ここで私を彼女にしたというステータスを作っておいて損はないんじゃない? 三年間彼女なし、なんて悲しいでしょう? それに……」


 前園の顔が近づく。

 吐息が伝わるほどの距離。甘い匂いが鼻腔をくすぐる。こんなに近くで見つめても、形作られた輪郭は美しい。

 思考は完全に停止し、頭が真っ白になる。こわばった俺の指先を、前園の指先が絡め取る。


「あなたに、拒否権はないのよ?」


 やわらかに吐かれた言葉が、耳元を悪戯にくすぐった。

 繋がれた手をぐいと引き寄せられる。そのまま、前園の細い腕が俺の腰へとまわされる。

 気がつくと俺は彼女に抱きしめられていた。鼻腔いっぱいに広がる蜜のようなシャンプーの香り。ふれ合った身体が、今までにないくらい彼女の熱を伝える。

 

 それはまるで、恋人同士の逢瀬のようで。


 ーーカシャ。


 遠くでシャッターの音が聞こえた。

 

 ……シャッター?


 幸か不幸か、俺の脳はすぐにその意味を理解してしまった。

 目の前が、本当に真っ白になった。


 

 ◆



「おい、どうしてくれるんだ」


 人気女子高生モデルの熱愛が報道されたのは、その翌々日だった。前園が事務所を通して正式に関係性を認めたことから、世間の注目度は一気に加速した。

 公開された写真は後ろ姿ではあったが、背格好がばっちり写っていたことと学校内に蔓延していた噂のせいで個人の特定はいともたやすくなされ、俺は晴れて前園たまきと世間公認の恋人同士となったのである。


 すべては前園の作戦通りだった。

 あの日後を付けていたパパラッチの存在に、彼女は気付いていたのだ。情報に飢えたハイエナにあえて写真をとらせ、公表させる。そしてそれを自分自身で認めることで、俺の逃げ場を完全に塞いだのだ。


「どうにもしないわよ。よかったじゃない。これで、堂々私と一緒にいられるのだから」


「よくない! ちっともよくない!」


 しれっとした表情で、前園は手にした紙パックをすすった。こうしている間も、こちらへと注がれる周囲の視線とざわめき。俺たちはすっかり学校中の注目の的になっていた。

 クラスメイトから部活仲間、教師に、果てはぜんぜん知らない下級生まで、朝から今まで質問責めにされて俺はすっかり疲れ果てた。

 興味や好奇の目を向けられるのはまだましだ。俺に注がれる視線の中には明らかな憎しみも時折混じっていて、しかもそういう奴らほど物陰から指すような視線を送ってくるだけなので対処のしようがない。精神衛生上大変よろしくない。とても、生きた心地がしない。


「私としては、あなたが彼氏になってくれてとても都合がよいわよ。最近仕事先の人間に言い寄られて迷惑してたから。恋人を公表したおかげで大人しくなってくれたから、本当。助かったわ」


「お前……」


 返す言葉も浮かばない。本当に、俺はこの女にうまいこと利用されてしまったのだ。そして今後も、俺は便利な厄払いとして利用され続けるのだろう。

 俺の人生の設計図が、音を立ててくずれてゆく。

 正義のヒーローかつ、人気モデルの彼氏。凡庸とはかけ離れたいらぬステータスが、俺の人生の中に組み込まれてしまった。しかもそれは、もっとも重視していた『平凡たる平穏』を脅かす。


 ーーこれから先俺の人生はどうなるんだ。


 こうなることも含めて、俺の人生なのだとしたら。それはなんとふざけたことだろうか。

 口から漏れるのは力ないため息だけ。よどんだ空気が、さらにどんよりと沈んでゆくようだ。


 前園は笑う。


「まあ、そういうことだから。よろしくね。託仁」


 ふっくらと色づいた唇が、艶やかな弧を描く。

 きっと、たくさんの人間がこの笑顔を独り占めできたらと願っているのだろう。その彼らの望みを占有して、しかし何の喜びもありやしない。先人として彼らに叫びたい。この女だけは、やめておけと。

 綺麗な花には棘がある。よくある言葉だが、これは彼女を形容するにもっともふさわしい言葉ではないだろうか。その棘にはもちろん、ゆっくりと相手をむしばむ猛毒が仕込まれている。

 しっかりとその棘が身体に食い込んで、俺はもう逃げることは叶わない。このままじわじわとなぶられ、玩具として踊らされ続けるのだろう。


「……最悪だ」


 こうして、播磨託仁の人生は加速度を増してゆく。転がるように暗雲の元に投げ出され、激しい雨が身を叩く。

 憂鬱の色を身にまとって戦う戦士。その青春は青ざめるほどに苦悩に満ちたりて。安息の平穏は遠く遙か、立ちこめた雲の先にあるのだろう。


 こうして、俺のブルーな青春が幕を開けたのである。