あんだんて 短編 | ナノ

オルフェウスの詩篇

 
 俺にとって、大切なこと。


 それはごくごくありふれた、何の変哲もないこと。
 なんだ、そんな事かと笑い飛ばされるような、そんな当たり前。


 だけどそれが俺の人生のすべてだった。




 穏やかな昼の町を多くの人が行き交う。
 田舎と都会のちょうど真ん中、豊かな自然が生む長閑さと訪れ住まう人々が織りなすせわしなさ、そのどちらの様相をもこの町は併せ持つ。

 今、自分のいる場所はそんな町の中心。
 人の流れがもっとも多い場所だった。


 都会からはある程度離れているが、街道沿いにあるこの町は常に人で溢れている。都会行きの列車の中継地点ということもあって、出稼ぎに向かう者や、荷を運ぶ行商人、地方での公務を終えた政治家等々……この町並みを作りあげる人々は実に多種多様だ。

 だからこそ、この町はおもしろい。
 こうやって地べたに座り、歩いていく人を眺めているだけで、その人々の人生の物語を思うだけで、想像は巡る。灰色の退屈は途端に吹き飛び、鮮やかなメロディが心を充たす。

 単調な日常、それでも飽きることなく人生を過ごせるのは、光のかざし方によって色を変えるオパールのようなこの町のおかげなのだろう。
 

「いいかね?」

 コホンと咳払いを一つ、降り注いだ声が湧き出る音楽へと没頭し掛けた俺を現実へと引き戻す。
 見上げると品の良さそうな男性が、柔らかな面差しをこちらへと向けていた。
 すらりと長い手足と日の光を浴びて繊細に輝く銀の髪をゆるく編み上げているのが特徴的な紳士だった。初老とまではいかないだろうが、一目見ただけでわかる落ち着いた物腰はその人物を見た目よりも高齢たらしめており、正確な年齢が読みにくい。
 装飾品等は控えめで見た目こそ質素ではあったが、身につけているものはどれも上質かつ手入れが行き届いている。この男性からは隠しきれない高貴さが滲んでいて、自分のような人間は普通であれば近づくこともない人種であることは間違いない。


 目の前に差し出されたのは、手入れの行き届いた革靴。
 艶やかななめし革が射し込む光を受けて輝く。


「ありがとうございます」


 俺はにこりと微笑んで、味わいあるダークブラウンを丁寧に磨き上げてゆく。

 
「君はいつも、ここで仕事を?」

 紳士はゆったりとした口調で訪ねた。

「はい」

 そう答えると、「この町に住んでいるのかね?」と質問が飛んでくる。

「はい。母親と二人で」

「そうか」

 紳士の問いかけに俺が答える。そんなやりとりを何度かして、しばらく互いに無言になる。
 
 はじめに見た通り、紳士の靴は手入れが行き届いていて別段自分が磨く必要はなかった。
 それでも一通り、いつものように仕事をしてゆく。心なしかいつも以上に気を使う。普段相手をする客もそれなりの身分の人たちが多いのだが、目の前の人物はその中でもどこか異質だった。
 柔らかな面差しは優しくこちらを見つめれど、けしてその実体を覗かせない。秘められたその内側に、無限の未知が広がっているような気がした。それが、なんだか自分を落ち着かせなかったのだろう。
 
 ふと、紳士がこちらを指差した。その背格好と同様に細くて長い指だ。突然の行動に作業の手は止まる。

「それ、奏でてみてくれないか」

 放たれた言葉もまた、突然のものだった。
 一度だけ瞬きして、紳士の顔を見上げる。彼はふざけている様子でもなく、目尻の皺を優しく深めた。

 それ、と指さされた物が自分の胸ポケットにあることに気づく。
 古びた小さなハーモニカ。俺の大切な物だった。

「今、ですか?」

 紳士はこくりとうなずく。
 いきなりの要望に正直俺は困惑していた。今までも客から無茶な要望を受けることは何度かあったが、それは料金をまけろだの金を寄越せだのといった類のことばかりで、ハーモニカを演奏してくれというのは初めてだった。
 いったい何が彼の興味をそそったのだろうか。見当もつかないが、断るような頼みでもない。

 あたりの様子を少しだけ見回して、緊張からかいつもより速い呼吸を落ち着かせる。
 
「――あまり、上手ではありませんが」


 ゆっくりと息を吹き込んで、俺は音を紡ぎ始めた。
 小さな金色のリードが振るえる。真っ直ぐで柔らかな音色。息遣いにあわせて鼓膜を揺らすにつれて、音楽が俺の世界を満たしてゆく。

 鳴り響くメロディは、昔母に教わったエチュード。初めて触れた思い出の情景。その音符はけして複雑ではないけれど、飾り気のない純粋な憧憬を蘇らせた。

 ああ、やはり音楽は楽しい。
 自分の思いに呼応して、どこまでも物語が広がってゆく。

 奏でる音色は無限である。
 その無限の世界で、溢れる思いを歌い上げられたならば。こんな幸せは他にはない。
 
 こんなにも心が躍るのだ。

 
 無限の世界を紡ぎたい。もっともっと、唄いたい! 届けたい!
 


 ――気がつくと、周囲の視線は皆こちらへと向けられていた。

 ついつい夢中になりすぎてしまったようだ。途端に我に返って、恥ずかしさがこみ上げてくる。その視線から逃れたくて、しかし逃げ道はない。せめてもの抵抗としてうつむき顔を伏せようとしたところで、拍手が起こった。

「すばらしい演奏だ」

 そう言ってはじめに手を叩いたのは、あの紳士だった。それをきっかけに、まばらではあるが周囲から拍手が連鎖する。妙に照れくさくて、くすぐったいような気持ちだ。

「思った通りだよ」

 紳士は満足げに、再び顔のしわを深めた。

「こんな風に飾り気のない演奏を聴いたのは久しぶりだ。ありがとう。純粋に音楽を楽しむことは、簡単でいて難しい。君はよい紡ぎ手になる」

「ありがたきお言葉、感謝いたします」

 思ってもみない言葉に俺は深々と頭を下げた。
 そんな事はしなくてよい、紳士は言って頭を上げさせる。

「礼といってはなんだが、君にこれを」

 ゆっくりとした動作で差し出されたのは一枚の紙。よく見ると何かのチケットのようだった。

「私の演奏会だ。君にも是非きてほしい」

「演奏会……!」

 そこに記された名を見て、目の前の人物が放つ異質の理由が判った。
 
「そうだ、失礼ながら、自己紹介が遅れてしまったね。アイザック・バルフリーディア。それが、私の名だよ」

 突然に稲光が走ったようだった。何かが弾けたような感覚が全身を駆け巡った。
 
 なんということだろうか。
 彼は、自分の夢そのものだったのだ。

 『アイザック・バルフリーディア』
 知らぬ人などいない、天才音楽家である。人間の根源ーー魂をも振るわせる曲を生み、旋律を紡げば、曲の世界観を誰よりも巧みに響かせる。

 幼い記憶、初めて聴いた果てのない旋律。それからずっと追いかけて、恋慕のように夜に見てきた。はやる思いをメロディに変えて、人知れず唄ってきた。

 焦がれて、憧れて、それでも遠く。永劫に届かぬものと思っていたのに。


 ――君の名を教えてくれないか?


 夢が、語りかける。
 それがまだ信じられなくて、身体が震えた。


「……オリファ、オリファ・エーデルシュタインです」

「そうか、君はオリファというのか。よろしく」

 アイザックは手のひらを此方へと伸ばす。

 骨張っていて、そして異様に細長い掌だった。けれど、そこから感じられたのは大きな創造性。この手が、この指が夢幻を紡ぎ出す。どんな宝物にも代え難い、指先の描く流線さえも至高の芸術に感じられた。
 それゆえに、触れる事が躊躇われてしまう。まごつく俺の掌を、そのちっぽけで大きな葛藤なんてお構いなしに、掌が包んだ。暖かく、想像以上に大きかった。
 あまりの衝撃に動揺して、俺は一言も言葉を発することが出来ない。挨拶すら返せない無礼を、紳士は柔らかな面差しで許してくれた。

「演奏会は明後日行われる。時間が許すなら、ぜひ聴きに来てほしい」

「い、行きます!絶対に!」

 心からの叫びだった。掌に力がこもる。

「楽しみにしているよ」

 アイザックは嬉しそうだった。


 ――さて、
 アイザックは姿勢を正し、背筋を伸ばす。ふれあった掌が離れていく。ほっとするような気持ちと、名残惜しいような気持ちが一瞬だけせめぎ合った。

「綺麗に磨いてくれて有り難う。感謝しているよ」

 ダークブラウンのなめし革は、始めよりもその輝きに深みを増し、艶やかな光沢を放っている。
 その艶やかさを足下に纏い、凛然と立つ紳士の風格は目を見張るものがあった。熱心に磨いた靴を、こうも美しく履いてくれるとは。嬉しい限りだ。

「丁寧な良い仕事だ。君はよい腕をしている。次も是非、お願いしたいものだ」

「……はい! ありがとうございます」

「また君に会えるのを、来てくれることを楽しみにしているよ。オリファ」

 アイザックは硬貨を手渡すと、無駄のない美しい動作で一礼。穏やかな微笑みを浮かべ、そして人の流れの中へと歩いていった。目の前でゆったりと揺れた銀色の長い髪が、瞳の中に焼き付いた。

 
 本当に、夢幻ではなかろうか。
 
 速まったまま、落ち着かない鼓動。強ばった身体は、未だ緊張が抜けない。
 消えていった背中は流れの彼方、もうその影を見つけることは出来ない。あまりにも信じられない出来事だったのだ。どうしても、夢なのではという疑念が消えない。けれど。

 握りしめた手の中の感触、一枚の小さな紙切れ。
 それが、何よりも物語っている。先ほどの夢との邂逅がまぎれもなく現実の物であったことを。


「……夢じゃない」


 確かめるように、小さな声で呟いた。
 
 夢ではないのだ。
   
 そして、掌の中にあるのはさらなる夢への切符。 
 もう一度、会いたい。そんな想いが胸の内から溢れて、止まらなくなる。これを使えば、それが叶う。

 もっと、いろんな話を聞きたい。彼の奏でに触れていたい。恐れ多くもそんな欲望がつぎつぎとわき起こる。

 それだけなら、まだよかった。
 俺は、気づいてしまったのだ。俺の演奏を聴いてくれて、そして優しい言葉に触れて。もっと面倒な感情が、胸の内にあったことに気づいてしまった。

 『夢』への、強い感情。
 
 それは今まで感じ得なかった感情だった。いや、感じていた事に気づかない振りをしていたのだ。だけどそれが、明確な形として芽生えてしまった。

 今まで閉じこめていた想いがその錠を解かれ、走りだそうとしていた。


 俺にとって、俺のごくごくありふれた人生にとって大切なことは、この町で、母親を支えて生きていくことだった。
 女手一つで俺を育ててくれた、治らない病を抱えた母親。今まで彼女が俺にしてくれた事への感謝を、残りの俺の人生で捧げよう。これが俺の望むこと。それ以外は何もいらない。そう思っていたのに。思っていたかったのに。


 どくん、どくん。
 胸の鼓動が刻むリズムは、まるで自分を急かすようだ。心と身体を突き動かす情動。もう、立ち止まることなど出来なかった。


 ――俺は、どうしたらいいんだろう。


 この町で、母親と共に。ゆく人を眺め、時折音楽を奏でて。
 それが、俺の人生のすべてだった。それでいいと思っていた。

 だけど、それが今大きく揺らいでいる。
 

 答えはまだ出せなかった。
 夢を追いかけてみたい。どこまで行けるのか、それを確かめたい。
 でも、母親を追いてなどいけない。いけるわけがない。


 ゆっくりと深呼吸をして、なくさないよう演奏会の券を鞄へしまい込む。
 今日はもう帰ろう。帰るべき場所へ。ありふれた日常へ。

  
 胸ポケットから、再びハーモニカを取り出してみる。
 母親から貰った最初のプレゼントは傾いた日差しを反射して橙に輝いていた。
 初めて曲を教わったとき、そのときみた夕日も、同じ色をしていた気がする。

 しばしそれを眺めて、やがて俺は歩き出した。