あんだんて 短編 | ナノ

或る彼のプロローグ


大切、だった。
大切で大切で、その笑顔をいつも守りたいと思っていた。
だけど、彼女を輝かせるのはいつだって

僕以外の、誰かなんだ。



『あの日』から、いろんなことが変わってしまった。
大きな、とても大きな喪失。悲しみが彼女を襲った。彼女から笑顔が消えた。彼に教えてもらったという、大好きだったあの歌を口ずさむこともしなくなった。

まるで光を失ったようだった。
彼女の世界を照らしていた大きくあたたかな光。それをなくして、彼女は深い海に沈んでいくようだった。


俺は何も出来なかった。

光を繋ぎとめることも、深海を照らすことも。

なにひとつ、出来なかった。


そしてついに、彼女は壊れてしまった。

悲しみの刃を尽きたてて、冷たい海にわらう。

嗚呼、俺は彼女を救えない。
それでも、精一杯彼女を繋ぎ止めた。悲しみの世界でも、そこに絶望しかなくても、それでも生きていて欲しかった。



目覚めた彼女は、悲しみを忘れてしまっていた。すべてに鍵をかけて、深い、深い海の底に閉じ込めてしまったのだ。

これで、良かったのだ。


悲しい記憶ははじめからなかったことにしてしまえば良い。


彼女がまた笑ってくれる。
その笑顔を、もう失いたくはなかった。


だから俺は嘘をつこう。
閉じ込められてしまった記憶が再び彼女を貫いてしまうなら。
俺はそれを食い止めよう。


大切で大切で。
ずっとずっと側にいた。

僕が君を守りたかった。


けれど。


ある日突然、彼女は俺の前から姿を消した。

どうして。

そればかりだった。


君を傷つけるすべてから、今度は僕が君を守ろう。

嗚呼、抱いていたそれは幻想だったのだ。

僕は、君を守れない。



ねえ、君は今どこにいるの?