彼がいなくなった日
もういちど、いつか僕に笑いかけてくれる。
そんな幻想を抱き続けているんだ。
今日はなんて素晴らしい一日なのだろう。
晴れ渡る空にそよぐ風、光る太陽の中唄う鳥たちの声。
僕の心を象徴するかのように、穏やかで美しいそんな風景だ。なにより、僕の心が晴れやかなものである理由があった。それは先程送られてきた一通の通知。
間白な便箋に、繊細に刻まれた幾重の波模様。シンプルな装飾のなかで一際輝き目立つのは、伝統と名誉の象徴である白馬と五線譜を模した金のスタンプ。その隣に刻まれた、僕の名前。
一月前に行われたオーディションの通知だ。数多くの音楽家が集うそれは一流の音楽家を志すものの登竜門と呼ばれ、数々の名門を輩出してきた。音楽の世界では知らぬ人はいない。
選ばれるのは類い稀なる才能を持つ一握りの人間だけ。そして選ばれた人間は、この世界での名声と地位を約束される。
そう、僕はそれに選ばれなくては――多くの音楽家の頂点に立たならなくてはならないのである。
僕の家系は名門音楽一家だ。父も母も、祖父母も、そのまた両親も。僕の知っている限り、この家系で選ばれなかった人間はいないのだ。
ゆえに、僕にとってこの通知は名家に生まれた責任とプライドがかかった非常に重要なものなのである。選ばれぬことなど、許されない。
ここにあるのは、三次選考の通知。これを潜り抜ければ最終選考、すなわち大舞台で行われるコンテストの場において、真の勝者となる資格を得たことになるのだ。
僕はここで立ち止まる訳にはいかない。否、立ち止まる訳がない。
逸る心を抑え、それでもいつもより廊下を駆ける足が早くなる。
通知の内容は予選の通過、来る最終選考の参加資格を知らせるものだった。
当たり前、当然の事。わかっていても、少しだけ表情が緩む。
誰よりも先に、これを知らせたい人がいた。僕の大切で、大好きな、たったひとりの存在。
重責も、苦痛も、彼がいたから耐えられた。
僕の知らせにきっと喜んでくれる。優しい言葉をくれる。僕を見てくれる。微笑んでくれる。
そう、今度こそ、きっと――
「兄さん!」
勢いよく開け放った扉の先。そこにいる人物は、僕の方を振り向いて、その言葉に耳を傾けて、そして穏やかな笑みを浮かべる。
そんな光景を願ったのに。
「……にい、さん?」
そこには誰の姿もなかった。脱け殻、空白。その言葉が相応しく思えた。
やけに整頓された部屋の中、部屋そのものの様子は変わりないのに、ぽっかりと、彼の存在だけがそこから消えていたのだった。
嫌な予感がする。
ふと、片付いた机の上に真っ白な封筒が目についた。伸ばす指先が震え、息が苦しい。
封筒の中には一枚の手紙とメッセージ。
書き綴られたのは、幻想を打ち破る、現実。丁寧に書かれた短い文章、たった一行のそれは別れの言葉だった。
世界が眩んだ。
夢に見た幻想は、いつまでも遠いまま。