あんだんて | ナノ

不揃いカルテット


 若草を濡らす朝露が昇ったばかりの陽光を受けてきらきらと輝く。町からほんの少し離れた静かな場所。海に面した小高い丘の上。ここは、彼にとって大切な場所であった。

 波の音が聞こえる。青年はひとり、その風景の中に佇んでいた。
 彼の眼前には大理石で形どられた十字架。建てられてからまだ年月の浅い小さな墓標は、射しこむ朝日の中で穏やかに沈黙している。

 そこに掘られている名前を、ゆっくりと指でなぞる。

「素敵な事がありました」

 微笑みかけるように青年は友へと語る。
 それはまるで会話のように自然で楽しげに。彼は語った。新しい出会いと始まりの予感を。

「――これは、君の導きですか?」

 墓石は何も返さない。
 波音とともに優しい風が、その言葉を乗せていくかように流れた。
 青年は寂しげに微笑んだ。

 ◆

 ミララがセージの屋敷に居候を始めてから一週間の時が経った。少しずつではあるがいろんな事に慣れてきて、出来ることも増えてきた。ほんの少しでも役に立つことができているなら、それはとても喜ばしいことだ。
 しかし、生活が落ち着いてきた事で気がかりも生まれてくる。
 何も言わずに去ってきた故郷のことだ。突然家を出て、家族や幼馴染はどうしているだろうか、自分のことを心配しているのだろうか。過保護な両親のことだ、今頃きっと血眼になって私を探しているだろう。
 やはり何かしら書き置きを残しておくべきだっただろうか。少しばかり悔やまれて、申し訳ない気持ちになる。しかし、下手な事をして連れ戻されてしまってはかなわない。以前のような生活を続けるのはもうこりごりだった。
 閉鎖された生活。家と病院を行き来するだけの日々。淡々と過ぎるだけのつまらない日常。自分が何のために生きているのかわからなくなって、それが嫌で、逃げるように飛び出してきた。

「わたしは、間違ってなんかいないよね」

 言い聞かせるように頷いて、ミララは勢いよく立ちあがる。今日もすることはたくさんあるのだ。なんせ、広いお屋敷だ。そのうえ、今まで長い間人の出入りすら無かったような部屋が沢山ある。どんなに綺麗にしても、まだまだ完璧にはほど遠い。
 二階部分の掃除を済ませたら昼食の準備をしなくては。そのあとも買い出しがある。昔を思い返している暇なんてない。せっかく手に入れた新しい日常だ。大切に噛みしめて過ごしていかなくては。

「よっし! やるぞぉー!」

 かけ声とともに気合いを充填。ミララは掃除道具を片手に二階へ駆け上がる。今日もセージの奏でるピアノの音が屋敷中に響き渡っていた。
 彼の朝は早い。ミララが起きる頃にはとうに支度を済ませていて、朝食まで作ってくれている。家から出るようなこともないであろう彼がそこまで早く起きる必要などないように思うのだが、早起きする事は悪いことではない。
 一週間ほど過ごしてきたが、彼はそのほとんどの時間をピアノの部屋で過ごしているようだった。逆に言えば、それ以外のことはまだまだわからなかった。好きなもの、嫌いなもの。楽しいこと、退屈なこと。そんな一つ一つを、ゆっくりと知っていくことができたらいいなと思う。


 こう見えても整理整頓は苦手ではない。広い屋敷ではあるがてきぱきと仕事をこなせているだけあって、進捗は非常に順調だ。このペースだとお昼の準備に支障なく掃除を済ますことができそうだ。


「よし! 終わり!」

 最後の部屋の掃除を終え、達成感に浸る。換気のために開け放った窓から心地よい風が流れ込んでくる。お疲れさま、と一仕事終えたミララを労うかのようだ。とはいっても、これでやっとスタートラインだ。人の出入りがない場所は埃がすぐにたまってしまう。この状態を維持するために、これからが肝心なのだ。

「しっかし、本当に広いお屋敷だなあ……セージひとりだけで住んでるなんて、信じられない」

 全体を掃除して改めて感じる。
 この屋敷の規模は相当大きいものだ。ミララの住んでいた所にもお金持ちの住まう屋敷があったが、その中のどれよりもここは大きく立派であるように思う。
 客人をもてなす部屋や沢山の古書で溢れた書斎など、いろいろな用途に合わせた部屋があり、掃除をしながらどこか探検気分を味わっていた。中にはミララが見たことのないようなインテリアや、何かのスイッチのような物もあって、うずく好奇心を無理矢理抑える事も少なくはなかった。
 たった一人のために、こんな立派な屋敷を与えるなんて。並大抵の感覚では及ばないはずだ。

 ――もしかしてセージって、わたしが思ってる以上にお金持ち!?

 だとすれば、突然転がり込んで住まわせてもらうなど、ずいぶん大層なことを自分はしているのかもしれない。しかしそれだけのお金持ちであるなら、使用人の一人や二人雇っていてもおかしくないはずだ。目の見えない男性がたったひとりで暮らすには不便が多すぎる。本当にだれもいないのか、この目で確かめた今でも信じがたい。

 ――でも、現実なのよね。

 一週間過ごしてきて、セージがある程度のことを自身でこなして生きてきたという事実を目の当たりにしてきた。必要最低限、料理や洗濯と行った身の回りのことはなんでもやってのけてしまう。自分の家だ、どこに何があるのかの把握はしているのだろうし、慣れもあるだろう。それでも、彼のたくましい生活ぶりは、実は目が見えているんじゃないかと疑うほどだ。そんな彼でも、さすがに二階までの上り下りは困難なようだ。二階部分は一階に比べると手つかずに放置されている部屋が多かった。

 ――他の何かがひっそり住んでたりして。

 ふと、そんな冗談めいた考えが浮かんだ。これだけ広い屋敷、かつその二回には滅多に人が立ち寄らない。こっそりと隠れるには絶好の場所だ。だがそんなことはまずあり得ないだろう。ミララがこうやって掃除をしてすべての部屋を回っても、ネズミの一匹すら見かけることはなかったのだから。
 時計を見ると時間も良いころだ。そろそろ下に降りて昼食の準備に取り掛かろう。そう思った矢先。

『かたん』

「!?」

 なにかが動くような物音がした。

「な、何!?」

 ミララは思わず飛び跳ねて、びくりと身を縮こませた。物音のした方向は上方、おそるおそる天井を見上げる。

「……?」

 天井には特に変わった様子はない。心臓のどきどきが治まるまで、見上げたまま様子を見ていたが、再び物音がすることはなかった。

「ね、ねずみか何か……よね」

 冗談のつもりが、まさか本当になにかが住みついているのだろうか。ぞわりと背筋が逆立つ。そんなことあり得ない。気のせいに決まっている。ぶんぶんと首を横に振って、嫌な想像を払う。

「さ! 準備準備っ」

 こういうことは一度考えてしまうと何処までも怖くなってきてしまう。別のことに没頭して忘れてしまうのが一番だ。ミララは逃げるように、階段を駆け下りた。


 ◆


 今まで気付かなかったが、セージのピアノの音が止んでいる。しんと静まり返った屋敷はどこか知らない場所のようで、妙に落ち着かない。そう言えばいつもピアノの音で溢れていたなと思いながら、足早にキッチンに向かう。そこにはすでに先客が居たようで、誰かの人影があった。
 
 ごくり、ミララは身構えた。先ほどの嫌な物音が記憶のよみがえる。ここは日当たりが悪いため、昼間でも電気をつけないとその様子がわからない。ぼんやりと薄暗い中に、何かがうごめいている。冷蔵庫の影に潜むそれに、底知れぬ恐怖を覚えた。手にしたままの箒を握る力がこもる。意を決して、ミララは声を上げた。

「だっ、誰!?」

 突然の声に驚いたのかその人物はびくりと肩を震わせる。

「侵入者ね! 怪しいことしてたら許さないんだから!」

 こうなれば行くしかない、この屋敷に潜む悪からセージを守り抜かなくては。相手を打ち取る決死の覚悟でミララは箒を手に勢いよく前進する。

「やー!」

「ま、待って下さい! ミララ」

 振り上げた箒を思い切り相手へと叩き込むより前に、聞き慣れた声が彼女を制止した。その声は他の誰でもないセージのもので、そして目の前の人影から放たれたものだった。ミララは気付く。目の前の人物は不審者などではない。セージ・バルフリーディアその人だと。

「あれ? セージ?」

 ぱちくりとその瞳を開いて、ミララは目の前の人物を確かめた。間違いなくセージだ。

「まずはその振り上げた武器を降ろしてもらいましょうか」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返すミララに、なだめるような口調でセージは言った。



「ふふふ、なるほど」
 
 一通りの状況を説明すると、セージは口元を隠すように静かに笑う。改めて思うと勘違いも甚だしい。自分の行動が恥ずかしやら情けないやら、頬が熱くなるのをミララは感じる。
 ミララの様子がよほど可笑しかったのだろう、セージはしばらく肩を震わせていた。ようやくそれが収まったところで一転、まじめな声で。

「ですが、すべてが勘違いということではないようですよ」

「え?」

 見てください、とセージは冷蔵庫を指さす。促されるままにそちらを覗き込むと、明らかな違和感。

「そん、な……」

 目の前の光景を前にミララは愕然と肩を落とした。見開かれた瞳が、動揺する心を表すかのように揺れる。
 彼女を驚愕させたその光景。冷蔵庫の中に入っているはずの食材たちが歯抜けになっていたのだ。それも、違和感を感じにくいように少しずつそぎ取るように。買い出しをしたばかりの冷蔵庫は、昨日の段階ではあらゆる食材で満たされていた。それが明らかに減っている。僅かではあるが、確実に誰かの手によって奪い取られているのである。

「物音を感じて、もしやと思って確認してみたんです。そしたらすでにこの状態でした。しかし、一見しただけでは気付きにくいような変化です。誰が一体こんなことを……ミララ?」

 言い掛けた言葉をセージが止めたのは、ただならぬ様子を隣から感じたからだ。首を垂れて俯いたままのミララ。その肩が、ふるふると震えていた。

「どうしたのです?」

 ただ事ではない。心配になった彼は未だうなだれているミララをのぞき込む。

「……な、い」

 やっと絞りだしたような震えるような声が、ミララの唇から漏れだした。
 彼女の視線はまっすぐに冷蔵庫の一点へと注がれている。彼女は冷蔵庫の中の肉や野菜たちが少しずつ無くなっていたということなど、気付いてはいなかったのだ。そんなことにはまったく興味がなかった。ただ一つの事実が、彼女を絶望の淵へと突き落としていたのであった。その事実とは……。

「プリンが……ないの……」

「はい?」

 この世の終わりを目の当たりにしたかのような彼女の様子からはまったく想像のつかないような単語の登場に、セージの口から思わず間の抜けた声が出る。
 もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない。彼がそう思い直したのと同時に、今度は明確に、はっきりとした口調でミララが声を上げた。

「プリンがないの! セージ!!」

 顔を上げ、悲痛の叫びをセージへとぶつける。悲愴感溢れるその瞳からはひとすじの滴がこぼれ、キッチンの床を濡らす。壮絶な面もちは、何者かに滅ぼされた故郷を前にしたヒロインのようで。しかし彼女を深い悲しみに突き落としたゆえんは、そんな大層なものとはかけ離れている。

「プリン……ですか?」

「うん……昨日町に出た時に、限定三個の絶品プリンが偶然手に入って。昔雑誌で見かけた事があったから、すっごく嬉しくて。すっごく楽しみに取っておいたのに……ないの……ないのよぉ……!」

 堪えきれずに少女の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。その光景だけ見れば、さながら感動小説のワンシーンだったかもしれない。故郷とともに愛しい人を失った少女の悲痛の叫びにもとれたかもしれない。しかし、その涙の対象はプリンなのである。
 ミララにとってはそれに匹敵するほどの喪失なのかもしれないが、セージはその心境をいまいちわかってあげられず、ひきつった笑顔を作ることしかできなかった。
 セージの心情にはまったく気付くこともなく悲しみに打ちひしがれているミララは、急にはっと顔を上げる。と思えば、悲痛な面持ちのままセージの顔を覗き込んだ。

「僕じゃないですよ。一応」

「そう……だよね。ごめん……」

 プリンを失ったショックから、一瞬でもセージを疑ってしまうとは。なんと自分の愚かなのだろう。ミララは己を省みながらも、行き場のないやるせなさを持て余す。心にぽっかりと穴があいたようだ。
 奪われてしまったプリン。もう二度と取り戻せない。甘くとろける熱情。それを奪うなんて。

 ――許せない。絶対に。
 
 深い悲しみは次第に復讐の炎となって熱く燃え上がっていく。
 燃えさかる炎はめらめらと、彼女を突き動かす原動力となる。こうなれば、絶対に犯人を突き止めて、痛い目に遭わせなければ気が済まない。
 この家にいるのは自分とセージのみ。しかし、セージが犯人ではないならばその認識を変えなくてはならない。すなわち、自分たち以外の誰かがこの屋敷にいる、その可能性が色濃くなったということだ。

「セージ! 絶対犯人捕まえよう!」

 悲しみに沈んでいた瞳は、熱く堅い決意を秘めたそれに変わっていた。
 拳をつくった右手を強く握りしめ、左手ではセージの腕をしっかりと掴む。まっすぐな視線と力強い口調が彼女の強い思いを物語る。

「ふふ、本当に、あなたは面白い人ですね」

 先程まで呆気にとられ、ただ彼女のめまぐるしい感情の移り変わりを見守っていたセージも、その熱意を前にくすりと頬を緩ませる。

「――犯人探し、頑張りましょうか」

「うん!」

 こうして、プリンを食べた犯人――この屋敷に潜んでいる何者かを見つけ出すための作戦が決行されることとなったのである、が。

「――とはいっても、具体的にどうすればよいのかまったく見当もつかないんだよね」

 プリンの恨みから犯人探しと豪語したものの、当のミララに策など全くなかったのだ。こんな広い屋敷で、心当たりといえば先ほど二階で聞こえた物音のみ。もしかしたら、とうの昔に犯人は屋敷を脱してどこかに言ってしまっているのかもしれない。どうやって奴を捕まえるか、思考を巡らせても良い考えが浮かぶわけもなく。

「要するに、犯人をおびき出せれば良いんですよね」

 頭を抱えるミララにセージからの助け船。少し思考を巡らせた様子の後、セージはにやりと口角を歪ませた。

「僕に策があります」