あんだんて | ナノ

1


 おろしたてのシーツの、ぱりっとした感触。
 吸い込んだ空気に混じる、アルコールのにおい。
 真っ白な部屋に差し込んだ朝日が反射して、眩しさが閉じた瞳を叩く。

 ――ああ、なんだか。懐かしい感覚だ。

 これはすべてわたしの日常だ。なのにどうして、懐かしさを感じるのだろうか。
 開こうとする瞼がいやに重い。いまだ覚醒しきらない思考にはぼんやりと靄がかかっていて、昨日までのことが鮮明に思い出せない。

 ――わたしは、いったいどうしたんだっけ。

 思い出そうとすると、瞼の奥がずくりと痛んだ。別に何かした記憶はないのに、倦怠感に苛まれて身体はひどく重い。
 どうにかやっと目を開く。見覚えのある天井が視界に映った。だけどやはり、これもまたなぜかひどく久しぶりに目にしたように感じる。

 ――おかしい。ここはわたしの家のはずなのに。

 飽きるほどに住み慣れた、さして居心地がいいわけでもない小さな部屋。清潔感と閉塞感に満たされた、ただそれだけの空間。

 きらり。

 窓から射し込んだ光に、何かが反射した。なんだろうと不思議に思う。周囲に鏡や金属は置いていなかったはずだ。
 ゆっくりと身体を起こして、その正体を探る。
 きらきらと輝く、透明な輝き。不思議なことにそれは自分の身体の動きに連動しているようだ。ミララが体を動かすたび、きらきらとまばゆさが瞳をくすぐる。

「あ……」

 そうしてミララは気付く。自らの人差し指にはめられた宝石に。
 手のひらをかざしてじっと、その輝きをみつめる。海の雫をそのまま閉じこめたような淡い青。太陽を反射して、ゆれる水面のように光がたゆたう。

 ――思い出した。
 ミララは勢いよく飛び起きる。
 ここは間違いなく自分の部屋だ。あのとき飛び出して、逃げ出したはずの檻。
 それなのに、一体どうして戻ってきてしまったのか。まったくもって思い出せない。
 自ら望んで帰ってくるなんてありえない。ならば誰かが、強制的に連れ戻したに違いない。誰か、そんなのは考えなくとも分かる。
 やっとのことで逃げ出したのだ。ここに居続ける訳にはいかない。ミララはドアへと駆け寄りドアノブを回す。だが、鍵がかかっているのだろう。開けることができない。
 ならば、とミララは踵を返し、窓際に置かれた机の引き出しを開ける。開かないのなら壊してでも出るしかない。しかし、中に入っているのは筆記用具のみ。そのために使えそうな道具はどれだけ探しても見つからない。
 窓はどうだろうか。思い立ち、手を伸ばしたそのときだった。

 ガチャリ、あんなにも頑なだったドアがいとも容易く開かれる。
 開いたドアの先に立っていたのは、ミララより少しばかり年上の背の高い男性だった。ダークブラウンの髪を後方になで上げ、眼鏡の奥の鋭い目つきが怜悧さを感じさせる。ぴんと伸ばされた背筋。身にまとう衣服には皺一つない。きっちりとボタンの締められたシャツ。その上に着ている白衣にも汚れ一つ存在しない。真面目で、潔癖。彼をはじめて見たならば、そんな印象を真っ先に受けるだろう。
 その人物こそ、ミララを連れ戻した張本人であった。

「おはよう。ミララ」

「――イクシード……兄さん」

 イクシードと呼ばれた男は、厳格そうに引き締めた頬を弛め、やわらかく微笑んだ。

「そんな畏まらなくていい。昔のように、イクスでいいよ」

「……どうして」

 彼の顔を見たことで、直前までの記憶が鮮明に蘇る。
 あの時、名前を呼ばれて振り向いたミララの視界に移ったのはイクシードの姿だった。いるはずのない人物に驚いたのもつかの間、突如目の前が真っ暗になり、そして気がついたらここにいたのだ。
 
「どうして。それはこちらの台詞だ。ミララ。どうして勝手に家を飛び出したりなんかしたんだ」

 胸中で渦巻く困惑と疑念。それらが込められたミララの視線を受けて、イクシードから微笑みが消える。はじめこの部屋へと来たときの、頑なで厳しい眼光が再びミララを見据えた。

「そ、れは……」

 小さな頃からともに過ごしてきた幼馴染みの、こんなにも真剣な表情は見たことがなかった。その剣幕に気圧されそうになる。
 言いたい言葉は次々と生まれ、胸の中をせめいでいる。しかしミララは紡ぐべき言葉に惑う。
 
「突然失踪して、あんな遠くまで行って……。何かあったらどうするつもりだったんだ!」
 
「……っ! わたしがどこに行こうと、わたしの自由でしょう! こんな狭い家に閉じこめられて、毎日毎日退屈で窮屈な日々を強制されて、もう我慢の限界! だから飛び出したの、それの何が悪いの!」

 長い間、理由もわからずこの狭い部屋に閉じこめられて生きてきた。身勝手に奪われた自由を、自分の手で取り戻そうとして何が悪いというのだ。
 突然出て行ったことを一方的に責められる道理はない。
 むしろ、理由も明かさず人を閉じ込めていた事の方が責められるべきではないか。

「君自身の為だ! 全部君を守るためだ! どうしてそれがわからない」

「わかるわけないでしょ! イクスも、パパもママも! わたしを縛り付けていたいだけなんでしょ」

「そんなわけがないだろう。俺が……君の父さんと母さんがどれだけ心配したとおもっているんだ。君がいなくなって、不安で仕方なかったんだ。また君が危険な目に遭ってないかって……だから、無事で本当に良かった」

「……」

 無事で良かった。その言葉に、ミララは言葉を失った。
 そう告げたイクシードの表情はくしゃくしゃに歪んで。厳しさも怒りも消え失せた瞳は、今にも泣き出しそうなほどに頼りない。心からの安堵だ。すべてミララを案じてのことその言葉に嘘偽りはないのだ。それは、嫌でも分かった。
 けれど。そうであるならばどうして。こうすることが私自身のためなのか。
 ますます分からない。ここに居続けることをミララは望んでなどいない。ミララの望みに反することが、ミララの為になる。何一つ理解も納得もできない。

「……良かったなんて、勝手だよ。こんな風に無理矢理連れ帰るなんて……ひどいよ」

「どう思われても構わない。あのままあそこに居続けるよりここの方がずっといい」

「どうしてそう言う風に言い切れるの? ここから出して。わたし、帰らなくちゃ」

「それはできない」

「え?」

 低い声で言って、それからイクシードはまっすぐにミララを見つめた。

「もうあの町へは戻さないよ。ミララ。君はまたここで、ゆっくりと安らげる日々を取り戻すんだ」

「そんなのいや」

「大丈夫。なにも心配することはない。もう少し落ち着いたら、君の父さんに掛け合ってみるよ。外にでる許可くらいは出るだろう。だから前みたいに閉じ込められる思いはしなくていい」

「それでも嫌だよ! そんな勝手なこと。ゆるさないから!」

「君がなんて言おうと、これは決まったことだ。あの町でのことはもう全部過去のこと。忘れるんだ。いいね」

「そんなことできないよ。待って! ちょっと待ってよ!」

 イクシードは聞く耳を持たない。一方的にそう告げて、そうして扉の外へと姿を消した。カチャリ、鍵の閉まる小さな音が重く響いた。

「待って! ねえ! こんなの嫌! ここから出して! ねえ!!」

 どんなに声を上げても、扉を叩いても、向こう側からの返事はなかった。
 ミララは叫んだ。握りしめた拳で何度も何度も扉を叩いた。声が枯れても、拳に血が滲んでも、堅く閉ざされた扉が沈黙を破ることはなかった。


 ◆


 暗闇の世界に閉じこめられたとして、そこにひとすじの光が差し込んだのなら、誰しもそれにすがりつくだろう。夜闇の中船が灯台を目指すように。月明かりが不安を和らげるように。たとえそれがどんなに小さくとも、漆黒の世界にとって光は神にも勝る救いとなる。
 約束とは、まさしく光そのものだった。

 

「ちょっと、どういうことなの!?」

 バン、思い切りテーブルを叩いてミレイが声を荒らげる。衝撃でグラスの水がゆらゆらと波打った。
 対峙するセージを、ミレイは鋭い眼光で問いつめる。

「詳しい事は、僕にもわかりません」

「わかりませんって……ふさけんじゃないわよ」

 今にも殴りかかりそうな勢いで、ミレイはセージの胸ぐらを掴む。

「わわ……! ミレイ待って! 落ち着いて」

 慌ててソニティアがそれをなだめる。
 それを受けて、不服そうにミレイはその手を離す。

「ミララが居なくなったのよ? 落ち着いていられるわけないじゃない。もう丸一日よ。絶対何かあったに決まってる! あの日、あんたはミララと一緒だったんでしょ? 何も知らない訳がないじゃない。ふざけないでよ」

「どうなの? セージ……」

 不安げな表情でソニティアもセージを見つめる。
 ミララが居なくなった日。彼女はセージとともに町に出かけていったことを双子は覚えている。そのはずなのだが、雨が上がりに屋敷に帰ってきたのはセージ一人だけ。

「……言ったとおりです。僕も詳しいことは解らないのです。あの日ミララを一人にしてしまった、それは僕の責任です。申し訳ございません」

「ふっざけんじゃないわよ!」

「わわわっ、だめだって! 落ち着けよミレイ」

 激昂のままに再び殴りかかりそうになるミレイ。羽交い締めにしてソニティアが必死に制止する。 

「あんたが謝ったところで意味なんてないのよ。ミララが居なくなって、どうしてそのままあんた一人で帰ってきたのよ。まあいいや、そのうち帰ってくるだろう。とでも思ったの? 最低だわ。もし、あの子が危険な目にあってたらどうするわけ?」

「ミレイ! セージを責めたってしかたないだろ」

「ソニィは黙って! あなたも思うでしょう? なんでミララを置いてのこのこ帰ってこれるんだって」

「それは……、ほら、あの日は雨も降ってたし、探すにも、目の見えないセージでは限界があるだろうし……」

「だったらわたしたちに言いなさいよ! そう言うところが気にくわないのよ! 自分のなかで勝手に完結して、無責任に放棄して。動かないで待ってれば解決するとでも思った? 馬鹿じゃないの? 甘ったれれるんじゃないわよ。本気で心配してるんなら這ってでも探すくらいしなさいよ。結局あんたは、その程度の人間ってことね」

 荒々しく吐き捨てると、ミレイはすくっと立ち上がる。
 そのまま踵を返し、部屋の外へと向かう。

「どこへ行くんです?」

「わからない? ミララを探しに行くの。万が一、危ない目にあってたら大変だから。どこにいるかはわからないけど、こんなとこでじっとしてるよりマシ」

「待ってください」

 扉に手をかけたミレイをセージが呼び止める。

「ミレイ、あなたの言う通りです。情けないですね、僕は」
 
 静かに告げると、セージは薄く笑った。
 
「は、今更何言ってんの? 言われたことを認めれば済むとでも? 寧ろ、余計に腹立たしいのだけど」

 ミレイの刺々しい言葉に対して、セージは何も返すことはしなかった。おもむろに立ち上がると、神妙な面もちで双子へと向き直る。

「いいえ。本当に、あなたの言う通りだと思ったんです。……ミララを捜すべきだったと、後悔しています。今更思っても、どうしようもないのでしょうが。もう一度、彼女に会わなくてはならないと。そう思うのです。身勝手な思いであることは承知しています。ですが、このまま何もせずにいることなどできません」

 そうしてセージは深々と頭を下げた。

「――お願いします。ミレイ。ソニティア。お二人の力を貸していただけないでしょうか」

 突然のことに驚いたのだろう、双子の顔には戸惑いの色が浮かぶ。
 ややあって、ミレイが口を開いた。

「それこそ今更よ。どうしようっていうの? あんたが頭下げたたところで、何か変わるわけ?」

「ミララの居場所には、心当たりがあるんです」

「はあ?」

「それ、本当!?」

 思いも寄らぬ言葉に双子は同じく目を見開いて語気を強めた。

「はい。あくまで推測、なのですが。可能性は高いと思います。僕一人の力で彼女を捜すのは難しい。お二人のご協力をいただきたいのです」

「も、もちろん。俺にできることなら何だってするよ。な? ミレイ」

 うなずいてソニティアはミレイへと視線を送る。

「手がかりを知ってて、何で早く言わないのよ。本当、気に食わない」

 顔をしかめたまま、ミレイは憎々しげに吐く。
 
「……協力はするわ。でも、あんたの為じゃない。ミララのためよ」

「……ありがとうございます」

 セージは改めて謝意を込めて、もう一度頭を下げる。

「ねえセージ、教えてもらっていい? ミララが行きそうな心当たりって……」

 ソニティアの問いかけに、セージは顔を上げて頷いた。

「はい。彼女の、故郷です」