あんだんて | ナノ

そしてはじまる交響曲


 差し込む朝の日差しが心地良い目覚めを連れる。
 ゆっくりと瞼を開いて、未だ眠りの淵にある意識はふわふわと現実と夢の境界を漂う。
 ずいぶんと長い夢を見ていた気がする。勢いそのまま、身一つで家を飛び出し旅に出る夢だ。
 開幕一番、いきなり列車で寝過ごし、終点の町で途方に暮れていたところをどこか不思議な雰囲気を持つ青年に救いの手をさしのべられる、そんな夢を。

 それにしても、いつもと違って天井が高い。朝日をたっぷりと取り込んだ部屋は眩しいほどに光で溢れていて。目に見える風景もなんだかいつもとは違っているように見える。

 ――はて、ここはどこだろう。

 ぼんやりとした意識が、とたんに冴えわたる。違う、ここは自分の家ではない。そう気付いて、それに引きずられるように昨日の出来事を思い出す。
 ミララははじかれたようにその身を起こした。
 
 ――夢ではなかったのだ。そうだ。夢だと思っていた不思議な出来事はすべて現実だ。わたしがいるこの場所は、その延長なのだ。

 そうとわかれば、いつまでもぼうっとはしていられない。疲れと緊張のせいか、ミララはずいぶんと眠りこけてしまっていて、時計を見ると時刻は午前十一時半。彼女が朝の日差しと思っていたものは、もう真昼の太陽のものだったのだ。
 しまった。猛省しつつ、ミララは顔を洗って部屋の隅に無造作に置かれたトランクから衣服を取り出し、急いで着替える。
 ブラウスのボタンを閉め、首元のリボンを軽く結ぶ。波のようにゆるやかなプリーツの入ったスカートはさわやかな海の色。お気に入りに身を包んで気持ちが引き締まったところで、ミララは状況を整理する。

 セージ・バルフリーディア。それが、この屋敷の主。勝手に侵入した不審者極まりない彼女をあたたかく迎え入れてくれた青年の名前であった。
 昨日数回会話を交わしただけであったが、物腰もやわらかく非常に紳士的な彼に、ミララはおのずと好感を抱いていた。まったくの警戒心がないと言えば嘘になるが、それは相手にとってもお互い様だ。それでも、彼は信頼できる人物だろうと直感的に感じていた。彼の抱える特殊な事情がそう思わせるのではないか、とミララは思う。
 彼は、自身のことをいろいろと話してくれた。彼の家の名であるバルフリーディアは天才的な音楽家の家系であるそうだ。セージはその家に長男として生まれ、幼いころから英才教育を受けてきたのだという。
 彼もまた、ピアニストとして音楽活動をしているそうなのだが、田舎に育ったミララにとってはそういった名門の音楽などふれ合う縁もなく、正直あまりピンときていない。
 彼は今、その家を離れてひとりこの屋敷で暮らしている。そのため、彼が名家の出身であると物語る何かを直接見たわけではない。建物やその装飾品こそ立派であるが、こんな田舎の町の、しかも片隅に追いやられたような森の中でひっそりと暮らしている様子だけ見てもその話が本当だという根拠となるものはどこにもなく、むしろどうして、名家の長子がこのようなところに住んでいるのだろうかという疑問がわいてくる。
 だが、セージが自分のような一般人とは違う存在であるいうことは、その彼自身が物語っていた。たとえば、ピアノの演奏だ。昨日聴いた演奏から溢れ出ていた優美さ。繊細な指運びによって紡ぎ出される一音一音は心を引きつけ、メロディに込められた物語を鮮やかに映し出す。旋律に身をあずけるだけで、物語の世界に自分が立っているような、そんな不思議な感覚を覚える。ピアノの音色だけで、音に秘められた世界に引き込むことができるなんて、生半可な技術や感性のなせる技ではない。
 それだけではない、何気ない動作の一つ一つ、身のこなし方や言葉遣いが常に目の前の相手を思い、為されていたように思う。それがまた非常に上品で、かついやらしさを感じさせない自然なものであったのだ。今まで自分の住んで居た町で、そのような振る舞いができる男性などいただろうか。記憶を思い起こしても、そのような覚えは全くない。それだけでも十分、彼が普通ではないことの証明にはなるのだが。
 もう一つ、彼の抱える事情としてもっとも大きなことがある。それこそ、ミララがセージに特別関心をよせる理由であった。

 ――そう、彼の瞳はこの世界を映さない。聞かせてもらった話によると、幼いころにかかった病気の影響なのだそうだ。はじめは普通に見ることができていたのが、成長とともに徐々に視力が失われ、今はは完全に何も見ることができなくなってしまったらしい。
 鮮やかだった景色がゆるやかに輪郭を失い、色あせやがて消えていく。その恐怖や絶望感はどれほどのものだっただろう。光の見えない、常闇の世界。そんな場所に放り出されて、それでも生きていなければならない。その苦しみがどのようなものか、ミララには想像もつかない。ただ、そんな世界に自分が置かれたとしたら……考えると悲しくて仕方がなくなる。

 一体どんな気持ちで彼はこの世界を生きているのだろうか。
 考えていたら、ミララはセージという青年に自らの心が惹かれているのを感じた。言ってしまえば、興味が沸いたのだ。彼のことをもっと知りたいと思う。彼がどんな人なのか、何を考えこの世界をどう見つめているのか。
 そしてその音楽。彼の奏でる音色。喜びであり、悲しみであり、怒りであり、希望であり、いろんな気持ちを混ぜ合わせて、それでいて美しく調和している。そんな音楽に心の奥底で何かが震えた。忘れていた何かがそこにあるような、そんな不思議な予感に彼女のすべてが揺さぶられたのだ。
 暗闇の世界で生きながらそれでも穏やかに、たおやかにその歩みを進めている。悲観することなく命を歌っている。彼はとても、不思議な人だ。


 部屋を出る。ミララに与えられたのは二階の一室。白を基調とした落ち着いた様相の部屋で、南側に面した窓たっぷりと日差しを取り込むことができる。さらにそこから外の景色を望むこともできた。色とりどりの自然織りなす鮮やかな色彩は、まるで木製の窓枠を額縁にしたひとつの絵画を見ているようだ。
 ベッドやランプ、クローゼットといった家具類も、それぞれ細かな彫刻がなされていて、上品かつセンスも良い。自分にはもったいない素敵な部屋だ。本当に使ってよいのだろうかと、今更ながら後込んでしまう。
 この屋敷の全体をまだ見たわけではないが、どの部屋もきっとそのように品があって、上質な空間が演出されているのだろう。通路や階段などに飾られている絵画や彫刻も、どこぞの名称の名が刻まれていて。ミララが普通に暮らしていたら、けしてお目にかかることの出来なかったであろう一品のオンパレードだ。本当に、ずいぶんと立派な屋敷だ。

 こんなところに、目の見えない青年が一人で暮らしているのだ。
 その理由は聞くことが出来なかったが、なにかよっぽどの理由がなければ不自由な体で一人で生きようなどとは思うまい。半ば信じられなかったが、こうして部屋を巡っていても誰一人として人の姿はないことが、それが事実であることを実感させる。
 とても綺麗で美しい空間。それゆえに、誰もいないことの違和感が、寒さのような不安を生んだ。人のいない夜の美術館のようだ。美しい美術品も、人の賑わいが消えた途端に不気味さを感じさせる。同時に、さみしいなとも思った。こんなに綺麗なのに、その美しさを見つめる人が誰もいないのだ。
 まじまじと見てみると、壁の隅や彫刻に薄くたまった埃や汚れが目に付いた。彼の状態を考えれば当然のことだが、彼一人ではやはり掃除や手入れといった管理は行き届いていないようだ。誰か一人、掃除人を雇えばいいのに。

 ふと、音楽が聞こえる。セージだ。川のせせらぎのような澄みきった穏やかな音の流れが、やわらかなリズムで空間をただよう。
 ピアノがある部屋は、昨日彼と出会ったあの部屋だけだ。彼は毎日、こうやってひとり、ピアノを弾いているのだろうか。
 岩の隙間に水が染み入るように、心地よい旋律は屋敷中を満たしていくようだった。それはミララにとってもおなじで。

 ――落ち着く。
 
 澄んだ彼の音色は、心に平穏を与えてくれる。心の隙間にすっとなじんで、余韻を残して消えていく。消えては生まれ、生まれては消え、そのようにして紡がれた旋律が不安定な心にやさしく流れ込んでくる。

「おはようございます。昨夜は眠れましたか?」

 ミララが部屋に入るや否や、セージが演奏の手止める。をこちらが歩み寄る気配だけで分かったらしい。弦の振るえる余韻だけ残して、音の流れが止まるのが少し名残惜しい。

「あ、はい。おかげさまで」

「それはよかった」

 そういってにこりと笑う。彼はいつも穏やかなほほえみをたたえている。まだ出会って二日目、それほど時間もたってない事もあり社交辞令的な意味合いもあるのだろうが、ミララの中でセージはいつも笑っている印象があった。

「すみません。遅くまで寝てて……」

「きっと疲れていたんでしょう。気にしないでください」

 優しいな、と思う。見ず知らずの少女にどうしてこんなにも優しいのか。一晩部屋を貸してくれただけでなく、気遣ってくれるだなんて。ミララはじんわりと、そのありがたみを噛みしめた。

「……あの」

「はい?」

「ピアノ、弾いてください。続き。もっと聞いててもいいですか?」

 少々不躾だっただろうか。でも、あのまま演奏が終わってしまうのは勿体ないように思えた。紡ぎかけの旋律の行き着く先を、しっかりと見届けたいと思ったのだ。
 セージは少しだけ驚いた様子だった。ミララははっとする。そうだ、相手はピアニストなのだ。通常ならお金を払ってはじめて聴けるような音楽を、こんな風に頼むのはまずかっただろうか。
 しかし、その心配は杞憂に終わったようで、セージはすぐに口角を上げて、嬉しそうにわらった。

「喜んで」

 再び空間に音が流れ始める。床も壁も真っ白な広い部屋。その中心に置かれた艶やかな黒いピアノが、青年の手によって幻想を奏でる。
 なめらかに動く、細く長い指先。鍵盤の上で時に撫でるように、時に弾むように。その指先に連れられて、音の世界はどんどん広がっていく。
 普段音楽なんて聞かないし、詳しくもない。曲だってちゃんと聞くのは初めてといえるくらいかも知れない。それでも、ミララはその幻想に惹き付けられる。辺りを流れる旋律はいつしか大きな大河となって、次々と新しい世界を生んではミララを誘う。
 目には見えない。けれど確かに大きなひとつの物語が音にのせて語られていく。
 ミララは音の中で、その紡ぎ手の青年を見る。世界を暗闇でしか捉えられないはずの青年は、白と黒から迷いなく物語を唄っていく。それは鮮やかな光あふれる世界だった。眩しくて、暖かくて、優しくて、どこかせつない。胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚。

 ――――眩しいまでの太陽の光、その中でどこまでも走る少年の姿。黄金色の稲穂が一面に広がり、緩やかな風の中でゆれている。
 黄金の絨毯の上を少年は走ってゆく。まばゆい光に手を伸ばして。どこまでも、どこまでも。
 少年はいつも笑顔を連れていた。嬉しいときも、悲しいときも。彼は笑顔であり続けた。その笑顔が誰かの光となるように。
 追いかける光が、希望の光であるのかさえわからない。それでも少年は笑顔を絶やさず、走り続ける。

 どれくらい走っただろう。やがて、少年の指先は煌々とした輝きに触れる。きらきら、少年は輝く。祝福の光。その光へ誘われて、少年は走る。
 眩しい光は少年を包んで、彼は太陽とひとつになった。自ら放つ煌めきを纏って、少年はついに走ることをやめた。
 ゆっくりと歩き出した彼は、光の中へと消えていく。

『どこへいくの?』

 最後、少年の耳に届いた問いかけ。
 少年はゆっくりと振り返る。最期に、何よりも眩しい笑顔だけをのこして――――

 最後の一音を紡いだセージの指先が、ゆっくりと鍵盤から離れていく。かすかな煌めきだけを残して、澄んだ音色が静かな空間吸い込まれて消えた。ミララの頬にはひとすじ、雫が伝っていた。


「ミララ?」

 傍らで聴いていた少女の様子に、セージが不思議そうに尋ねる。

「素敵でした。……感動しました。とっても綺麗でせつなくて……」

「ミララ……ありがとうございます」

 そう言って、彼は涙を指先で拭う。
 細く、綺麗な指だ。思いもよらぬことに、ドキリと心臓が跳ねさせながら、そう思った。頬を撫でる感覚をくすぐったく思いながら、離れていく透き通るような白い指先をつい見つめてしまう。

「不思議ですね。見えてないなんて、嘘みたい」

 鍵盤から正確にメロディを紡ぎ出し、今だって伝う涙を器用に掬ってみせる。それだけ見たら、視力のある人間と変わらない。

「ふふ、嘘ではないです。ピアノについては、もう感覚が染み着いてますので。それに、わずかな光をとらえることはできるんです。そこに何があるのか、くらいはわかります。あとは、音の響き方でおおよその距離感はつかめます」

 潤んだ視界の中で、淡い輪郭がかすかに揺れた。
「ただ、」セージは続ける。

「貴女の涙を、僕は瞳に映すことができない」

 そう言って、セージは薄く微笑む。笑っているはずなのに、それがとても悲しそうに見えて。でも、それは自分の思い込みだと気付く。

「だけど、みえますよ。ちゃんと。この世界も、もちろんミララ。貴女のことも」

 彼は悲観していない。光のない世界をきちんと受け入れて。そして、そこに確かに在るものをしっかりと見つめようとしているのだ。彼にはこの世界が見えている。だれよりもまっすぐにその瞳で見つめているのだ。
 本当に、不思議な人だ。ミララが今まで出会ってきた人の中で、彼のようにわらう人はいただろうか。逆境にありながら、それをものともしない。それどころか、苦しみすら輝きに変えてしまう。不思議な人だ。
 でも、なぜだろうか。この輝きに、ミララは懐かしさに似たいとおしさを覚えたのだ。それはまるで、幼いころに見た花のよう。鮮明に色を残しているのに、その名前も形も思い出せない。儚く小さな命。それでもまっすぐに天を仰いで、確かな命を咲かせている。

「セージ、さん」

「はい」

「私、ここにいてもいいですか?」

 思ったのだ。彼の力になりたいと。好奇心でも、哀れみでも、なんでもない。もっと純粋な、心からの思いだった。心から彼に惹かれて、側に居たいと思ったのだ。
 見ていたいのだ。美しく咲く花の様子を。その花が美しく在り続けることを。その傍で。

「――もちろんです」

 迷う様子は微塵も見せず、セージははっきりとそう答えてくれた。その表情は変わらず微笑んでいたが、それがぱっと華やいだように感じた。歓迎してくれるようでミララも嬉しくなる。

「ですが……」

 一転、真面目そうな顔つきになったセージにミララは身構える。
 それはそうだ。彼が何を言うのか、おおよそ予想はついている。もちろんただで居座らせて貰おうなどとは思わない。住まわせてもらう分、それなりの見返りは差し出すつもりだ。
 セージの口からどんな条件が差し出されても、できる限り応えよう。ぴんと人差し指を立てた彼に、ミララも真剣に視線を向ける。

「敬語は禁止です」

「……へ?」

 いったい何を言われるのだろうと身構えていた分、拍子抜けた。予想外の回答にがくりと肩の力が抜けおちる。

「一緒に暮らすんですから、いつまでもよそよそしいのは良くないでしょう? それに、『さん』付けも駄目ですよ」

 開いた口をふさぐことも忘れ、ぽかんとしているミララに「わかりましたね?」セージはと念を押す。

「はい……あ、うん……」

 彼の言わんとしていることは、分かるには分かる。ミララはこくりとうなずく。しかし……

「それだけ!?」

「はい?」

 思わず大きくなってしまったミララの声に、別段驚くでもなくセージは首を傾げた。

「他になんかないの? 見返りとか、私、ただで置いてもらう訳にはいかないよ!」
 
 セージの申し出は大変有り難い。だが、有り難いゆえにそれだけで済ませることがどうしてもできなかった。だからせめて、何らかの形で彼の思いに報いたかったのだ。
 セージははじめ何のことか分からないといった顔をしていたが、「ああ」とうなずくと平然とした様子で、

「見返りなんて要りませんよ。貴女がいれば、それだけで僕の日々はずっと楽しいものになります。それで充分です」

 と微笑む。裏表無く放たれた言葉は、ミララの頬に熱を持たせるには十分な効果を発揮した。しかし、彼女がそれで首を縦に振るかどうかは別の話だ。
 普通であれば恥じらうような言葉をなんて平然と言ってのけるのかと、ミララは一瞬言葉を失う。
 彼女は考えた。何かよい方法はないものかと。敬語を使わないという条件だけでただ住まわせてもらうなんて割に合わない。それではただの厄介者だ。彼の力になりたいのに、そんなのはごめんだ。

「だめ! それじゃあ、私が嫌なの。何か手伝えることとか……あ、そうだ! 家事と掃除! 雑務全般! 私にやらせて!」

 我ながら良い考えだ、とミララは思う。
 事実、この屋敷の手入れはセージ一人では困難だろう。広い屋敷の中、手入れの行き届いていない様子がはっきりと見て取れた。なにか特別なことが出来るわけではない自分も、掃除や家事なら人並みにできる。

「ですが……」

 それでは申し訳ない、といった様子だろうか。セージは承諾を渋る。

「お願い!」

 負けてたまるかとミララも食い下がる。その気迫があまりにも鬼気迫ったものだったからだろうか。

「……わかりました」

 そこまでいうのなら、と先に折れたのはセージの方だった。

「やった! ありがとう!」 

 ミララの表情がぱっと華やぐ。思わず飛び跳ねてしまいそうになる心地だった。
 よかった。彼女は喜ぶと同時に安堵した。これで対等、とまではいかないが住まわせてもらう上での後ろめたさは軽減される。気後れすることなくここにいられるというわけだ。彼の力になれることも嬉しいが、住まわせてもらう義理を返せることも大事なことだ。

「でも、全てをミララにやってもらう気はありませんよ」

「えぇ!?」

 せっかく自分のやるべき事が決まったというのに、なんてことだ。ミララは困惑と落胆の入り交じった感情を、素っ頓狂な声に乗せて放った。

「分担、です」

 またしても微笑んで、しかし今回はどこか面白がってるようだった。あくまで、主導権は家主様にあるのだ。ミララは少し悔しい思いで、唇をとがらせた。居候の身である彼女は文句を言える立場ではない。居候させてもらうには破格の好条件ではあるので、文句を言うというのもおかしな話ではあるのだが。

「わかったわ。でも、ちょっとまって」

 これ以上食い下がっても、逆に彼を困らせてしまっては本末転倒だ。ここはミララが折れる。彼の条件をのんだところで、ふと疑問がわき起こった。

「私に敬語使うなって言っておいて、セージが敬語を使うのは不平等!」

 今度はミララの方が人差し指を立てた。彼女よりもセージは年上だし、立場だって彼の方がずっと上だ。それなのにミララだけ標準語でセージは敬語というのは妙ではないか。そう思うのだが。彼の回答はいつもふわりと、ミララの思惑をかわしてしまう。

「そんなことありませんよ。素敵な女性に対しての敬意を言葉にのせるのは当然でしょう? それに、癖なんですよ、敬語。僕はこの方が楽なんです。昔から目上の方と接する機会が多かったので。だから、僕は特別です」

 またしても、にこり。この笑顔と、その言葉はずるい。先程から、この青年はさらっと恥ずかしいことを言ってのける。ミララは思わず顔面が熱くなるのを感じて、大きく目をそらす。元凶である本人はその様子を察して不思議そうな顔をする。自分の発言を相手がどうとらえるのか、ということに関して、どうやら彼に自覚症状はないらしい。

「わ、わかった! それでいい! セージは敬語でいい……もう」

 未だおさまらない顔の熱を必死に隠しながら、そもそも見えないのだから隠す必要もないだろうが、ミララは改めてセージを見る。
 やはり、不思議な人だ。今まで触れあってきた人の中で、彼のようなひとはいなかった。ミララの知らない、まったく新しい世界をこの人は持っている。
 儚くも美しい花。そう思いはしたが、それとは少し違うのかもしれない。見るもの全てを惹きつけ、そしてその心にすっと鮮やかな色を残す。大輪のそれだった。迷いなく、凛と、生きている。

「セージ。改めて、これからよろしくね」

 改めて、彼に向けて手のひらを指しだした。
 そう、新しい日々はこれからはじまるのだ。彼とともに歩む、見たことのない未来が。それを思うと心が躍り、自然と笑顔がこぼれる。

「はい。よろしくおねがいします」

 彼女の思いに応えるように、セージは差し出されたその手をしっかりと取った。
 彼もまた、自分と同じようにこれからの日々に希望を感じてくれていたら嬉しい。そうミララは思った。


 ――ゆっくりと、物語が紡がれていく。


「さて、まだ何も食べていないのでしょう? 時間もちょうど良いですし、お昼ごはんにしましょうか」

 ピアノを閉じたセージがゆったりと微笑んだ。
 そういえば、ミララは思い出す。昨晩は遠慮から食事を済ませたと嘘をついたため、昨日から何も食べていないのだった。単純なことに、食事に意識が向いた途端に空腹感をおぼえる。お腹がなりそうなのを必死に抑えた。

「あ、じゃあ私がつくる――」

 言い掛けたミララの唇を、指先がふさいだ。

「いいえ、今日は僕が。おもてなしさせてください。新しい住人さん」

 綺麗に編まれた長い髪が、彼の動きに合わせてゆれる。どきり、心臓が高鳴ったのは、彼の行動が予想外だったからだ。
 どこか悪戯っぽい笑みに整った輪郭が彩られる。それがあまりにも綺麗で、目が離せなくなる。

「――――、」

 演奏のお礼に料理を。そんな考えがあったのだが。触れた指先で封をされたかのように、その意志を伝えようとした言葉を口に出すことは叶わなかった。ミララはすっかりセージの雰囲気にのまれてしまって、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。

「それでは、少しの間お待ちくださいね。すぐに支度をしますから」

 そう言うとセージは慣れた足取りで部屋を出ていってしまった。一人部屋に残されたミララはどこか夢心地で、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
 ゆっくり呼吸を思いだしつつ、頬に帯びた熱がさめるのを待つ。大木区域を吸い込んで、吐いた。新しい空気が肺を満たすとともに、少しだけ頭が冴えわたるような気がした。

「……ほんとに、変な人」

 ぽつり、呟いた。
 音楽の消えた真っ白な部屋はやけに広く感じて落ち着かない。先ほどまで彼が座っていたピアノは、白い部屋の中でその色調をよりはっきりとさせていた。静かに佇んでいるだけのそれは、先ほどまで無限に広がる旋律を奏でていたものとはまったく別のものであるように思えた。
 魔法みたいだ。そう思った。彼の魔法で、ただのピアノは幾千の物語を鮮やかに語る、唄い手となるのだ。

 しばらくしてセージが部屋に戻ってきた。導かれるままついて行くと、
そこは大きな円卓を構えた、広いキッチン。香ばしいかおりが鼻孔をくすぐり、なんだろうと眺めてみる。
 テーブルに並べられたのは二人分の料理。チーズのスープに、スクランブルエッグとソーセージ。魅惑的な香りは、黄金色に焼かれたトーストからただよう。本当に器用なものだと感心してしまった。盛りつけこそ見栄えが良いとはいえなかったが、その味は格別だった。
 この屋敷にきてから、はじめての食事。心に深く染み込む、あたたかい味だった。

 ――わたしはこれから、この場所で生きていく。
 きっと大丈夫、あたらしい『何か』はきっともうはじまっているのだから。