1
やっぱり変だ。
息が苦しい。鼓動のリズムがドキドキといつもよりもせわしない。あたたかくて、せつない感情に胸が締め付けられる。私の心のテンポはすっかり狂ってしまった。
朝の身支度を終えて、空の青さを見上げる。晴れ晴れと輝く太陽に目を細めて、清々しい朝の気分。しかしやっぱり、心はなんだか落ち着かない。
この気持ちはいったい何なのだろう。この胸の高鳴りは。引かない熱は。燻る感情は。
瑞々しく朝露に濡れる花弁のように新しく。寄せては返し、遠くにさざめく波の音のように懐かしい。ずっと前から知っていたような。今初めて出会ったような。
この気持ちはいったい、何なのだろう。
すべては先日、シルヴィアが訪ねてきた事から始まった。
豊穣を高らかに歌い上げる黄金の髪。強い意志によって磨き上げられたアメジストの瞳。響く鐘のような高らかな声と、シルクを思わせるなめらかな肌が形どる、すらりとのびた手足。
華やかで、清らか、洗練された美しさ。それはまるでコロラトゥーラ。彼女こそがまさしく、物語を彩る歌姫なのだろう。そこに居るだけでそう思わせる。そんな人が、セージの婚約者だなんて。
適わない。
そう思ってしまう。
彼女はすべてを持って生まれた、選ばれしお姫様。それに比べて自分は、どこにでもいる平凡な田舎娘。最後に王子様が手を差し伸べるのがどちらか、そんなものは明白。わかりきっている。
どうしてこんなことを考えてしまうのだろう。
もやもやとした塊が、お腹の中にたまっていく。悶々と吐いた息は、憂鬱をのせたため息となって宙を滞る。
――これではまるで、自分がお姫様になりたいみたいじゃないか。
「……ないない! そんなこと!」
ぶんぶんと首を振って、ミララは雑念を払う。熱を帯びた頬があつい。
居場所を与えてくれたセージには感謝している。彼が居なければ、自分は途方に暮れるしかなかった。彼はいわば命の恩人。
彼がシルヴィアの元へ行ってしまえば、自分はここには居られなくなる。そうなってしまうことが怖いだけだ。そう、その可能性に焦ってドキドキしているだけなのだ。
――そうだ。そうに違いない。
ミララはそう結論づけて、それ以上考えることをやめた。
そんなことよりも、もっと大事なことがある。くだらないことに頭を悩ませている暇はない。
自分には成すべき事がある。月に数回貸せられる重大任務。
今日は、朝市が開かれる日だ。
この町には月に数回、遠くの町から仕入れた貴重な品を積んだ貨物列車がやってくる。都会からは離れてこそいるが、豊かな自然に恵まれたこの町だけでも十分な自給自足は成り立っており、暮らしに困ることはない。
だが、やはりどうしても手に入らない食材や物資が少なからずある。そういった品々を運んでやってくる列車や行商人たちの来訪に伴って開かれる朝市は、物珍しい都会や遠方の品に触れられる貴重な機会であり、町がにぎわいを見せる一大イベントなのだ。
今日しか手に入らないそういった品々を入手することが、ミララに貸せられた重大任務というわけなのだ。
そんなわけで、ミララは買い物へと思考を切り替える。
買うべきものリストアップは昨晩のうちにしておいた。だが露店にどんな品が並んでいるのかは実際目にしてみないとわからない。それを見てから改めて、買うべきか否かの相談を財布としつつ吟味するである。
今日はどんな物が並んでいるのだろう。それを考えると、わくわくと心が高揚する。浮かれて余計な物を買いすぎないようにしなくては。緩みそうになる顔を引き締める。
よし。良い具合に気持ちの切り替えができそうだ。気合い充填。町に繰り出すべく、一歩を踏み出す。
「おはようございます、ミララ。お出かけですか?」
どきり、心臓が大きくはねる。
「今日は、僕もご一緒してよろしいでしょうか」
聞き慣れた声、見慣れた微笑みが、心臓をぎゅっとつかむ。
せっかく落ち着いた気持ちが、ざわざわと再びざわめきはじめる。
ああ、やっぱりおかしい。
こんな風になるなんて、以前は思いもしなかったのだから。
◆
「セージと一緒に買い物に行くなんて、なんだか変な感じ」
「いつもミララにはお願いしてばかりですから。たまにはお役に立たないと。こんな僕ですが、簡単なエスコートと荷物持ちくらいのお手伝いならできるでしょう」
そう言って微笑んだセージは、眼鏡をかけた外行きのスタイルで私の隣を歩く。いつもの三つ編みは解かれ、今は後ろ手に一括りに結ばれて揺れている。右手には杖を携えて、慣れた様子で町への道を進んでいく。
いわゆる『セシルさん』スタイルだ。家の外では彼はこうしてセシル・エーデルシュタインとして振る舞う。
町に近づくに連れてすれ違う人々が増えていく。笑顔でこちらに声をかけていくその誰もが、彼の本当の名前を知らないのだと思うと不思議な気分になった。彼がセージであることを知っている。それだけで、自分が特別であるような優越感がわいてくる。
同じ歩幅で歩く私たちを、柔らかな太陽が包み込む。彼の居る左側がこそばゆくてそわそわする。心臓が叩く、いつもよりテンポの速いリズム。それが不思議と心地よいのは、いつもよりにぎやかな町が気分を高揚させているからだろうか。それとも――。
町には多くの人が集まり、活気にあふれていた。噴水のある中央広場を中心に、様々な店が円状に立ち並ぶ。多種多様、色とりどりの看板が鮮やかに視界を彩る。その中には町でおなじみのお店の露店もあれば、市場の時にしか開かれない行商人たちの露店もある。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん。寄っていかないかい? 仕入れたばかりの珍しい宝石があってね。それを加工した指輪なんていかがかな? 綺麗だから首都で人気なんだけど、なんにせよ希少価値が高いからね。今日を逃したら、きっともうお目にかかれないよ」
きっぷのよい溌剌とした声に誘われて振り向いた先は、宝石やアクセサリーが並ぶ小さな露店。
「わあ――」
真っ先に目を奪う、きらきらとした輝き。自然と足が向いて、思わず感嘆の声が漏れた。
なんて美しいのだろう。町を染める極彩の色どりとは違う、透明で透き通った色。燃える薔薇の深紅に、太陽の光に七色を返す虹の真珠。耽美にきらめく無限の輝きたち。
そのなかでも、ひときわ目を引く輝きがあった。海の雫をそのまま閉じこめたような、淡い青のとけた小さな宝石。
「それに目を付けるなんて、お目が高い。そいつは『人魚の涙』なんて言われていてね。人に恋した人魚が流した涙が宝石になった、っていう伝説があるんだ」
ロマンチックな伝承と、なによりその美しさにすっかり心を奪われてしまう。
しかし、値札を見るなり驚愕する。わかってはいたが、やはり宝石なんて高価なものに自分が縁があるはずがない。
ここは目に焼き付けるだけ焼き付けて、それで終わりにしよう――そうして潔く諦めがついた。
それなのに。
「では、この指輪をひとつ」
「セ、セージ!?」
「あいよ! まいどあり!」
背後から降ってきた一声が、ミララの決断を容易く払いのけてしまう。呆気にとられたしたミララが口を半円状に硬直させている間に、てきぱきとセージは店主とのやりとりを進めていく。
「どうぞ、ミララ」
気が付くと、リングケースが目の前に差し出されていた。
「い、いいよ! こんな高価なもの……! 見てるだけで十分だし、受け取れないよ!」
「かまいませんよ」
セージが微笑む。
「いつも貴女にはたくさんお世話になっていますから、感謝のしるしとして受け取ってはいただけませんか?」
「……っ」
そう言われてしまったら、断るわけにはいかない。
ずるい。感謝なんて、わたしのほうがすべき事なのに。
ミララがうなずくよりも先に、セージの指先がミララの左手に触れる。
「えっ、ちょっと……」
驚いて思わず身体が跳ねる。そんな様子を気にもとめずセージはいつの間にかケースから取り出した指輪を、ミララの指へと滑らせていく。
彼が触れた左手の人差し指に、透明な輝きが灯ってゆく。それと同時に、身体は異様なほどに熱を帯び、呼吸の仕方を忘れそうになる。どきどきと心臓が高鳴る。もしかしたら聞こえてしまうのではないかと思うほどに。
「サイズもちょうどですね。よかった」
「あ、うん……」
くらくらとめまいがしそうだ。
セージはなんとも思っていないのだろうか。相変わらずの優しい微笑み。その下にどんな感情が存在しているのか。ちっともわからない。
自分ばかりどきどきしているようで、なんだか悔しい。触れた手の感触が、まだこんなにも残っている。
「見えなくても、感じられます。その輝きは、やはり貴女にいちばん似合う」
太陽の光を受けて、人魚の涙はきらきらと煌めいた。その輝きはあまりにも綺麗で、世界のすべてが洗われるようで。
「ありがとう」
自然と綻んだ頬。わずかに残る熱が心地よく思えるようになったのは、左手に輝く一滴の涙のおかげなのだろう。
◆
「たくさん買いましたね」
左手で杖をつき、右手で荷物を器用に抱えながらセージが言う。
買い物は予想よりも大荷物になり、ひとしきり朝市を巡り買い物を終えるころには両腕は完全にふさがれてしまっていた。その量はミララ一人はとても運びきれない。セージに来てもらえて本当に助かった。
町のにぎわいも落ち着きはじめ、たくさんいた人や露店もまばらになってきた。お目当ての物は手に入れることができたので、自分たちもそろそろ帰ってもいい頃だろう。
「あら、ミララちゃん。それにセシルさんまで。珍しいねえ、二人一緒だなんてはじめてじゃないのかい?」
こちらの姿に気付いて声をかけてきたのは、おなじみのパン屋のおばさんだった。挨拶を返すと、うれしそうにこちらへと駆け寄ってくる。満面の笑顔の裏には、物珍しさに爛々と輝いた瞳が踊る。
「いつも彼女に任せきりなので、たまには一緒にお買い物をと思いまして」
「あらあら、そうなのかい! いやあ、そうして二人並んでると、なんだかデートみたいだねえ」
にやけた口元を掌で隠しながら、茶化すようにおばさんは笑う。
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
繰り出された思いがけない単語をミララは慌てて否定する。せっかく引いたはずの熱がぶり返しそうだ。からかうのはやめてほしい。
「ははは、冗談だよ。それにしても、セシルさんもいい使用人を雇ったねえ。頑張りやで一生懸命で、うちの娘に欲しいくらいだよ」
おばさんの笑顔と裏表のない言葉がむずがゆい。曖昧に笑うことしか出来ないミララの横で、セージが眉をひそめた。
「使用人?」
その様子に、おばさんもまた不思議そうに首をかしげた。
「おや? なにかおかしな事を言ったかい?」
「ミララは使用人などではありませんよ」
セージの纏う空気が、ほんの少しだけぴりついたものになる。だが、その理由をおばさんが知る由もない。
しまった。ミララは思った。この町の人は自分をセージの使用人だと思っている。ミララは別段それを気にしていなかったのでいままで訂正しないでいたのだが、セージの方は違ったようだ。
「おや、そうだったのかい? あたしゃてっきり、ミララちゃんは使用人なのかとおもっていたよ」
「ええ」
うなずいたセージの声は穏やかだった。
「――僕の大切な人です」
思わず、目から瞳がこぼれ落ちそうになった。
「あらあらあらあら!」
おばさんの目が輝いた。
その根源はまさしく好奇。雇い主と使用人との秘密の愛。その命題は多くの人の興味を引く。目の前の彼女にとってもまさしくそうだったのだろう。
しかし、違う。それは大きな勘違いだ。
「なんだいそういうことだったのかい! んもうミララちゃん、そうならそうと言っておくれよ! あっ、もしかしてあんまり大事にできない話なのかい? だったら安心してちょうだい。あたしの口は堅いよ!」
おばさんの勘違いはどんどん加速していってしまっている。ふっくらと膨らんだパンのような頬は紅潮し、興奮を抑えきれない口元は愉快な弧を描いている。
「では、僕たちはこれで失礼しますね。お仕事、がんばってください」
軽い会釈とともにそう一言。セージは歩き出してしまう。
おばさんの誤解を解くには今しかないと言うのに。絡まってしまった糸を解くつもりもないらしい。どうにかしなくてはと思いながらも、セージはどんどん先をいってしまう。
「おばさん、違いますからね。誤解しないでくださいね!」
別れの言葉に一言そう添えて、ミララはセージのあとを追った。
「ええ! わかったわ!」
おばさんの声が聞こえたが。絶対にわかってくれてなどいないだろう。
「セージ、いいの? おばさん誤解しちゃってるよ」
「誤解? どういうことです? むしろ誤解は解けたではありませんか。ミララは使用人ではないのですから」
「そういうことじゃないのだけど……」
おばさんの勘違いは別の方向に拡大してしまっている。そのことにセージは気付かなかったのだろうか。何事も気にすることなく、平然とした彼の様子にミララは思う。
大切な人。
そんな表現をされてしまったら、勘違いしてしまうに決まっているじゃないか。
考えないようにしていたのに、また心臓がせわしなくなる。
これ以上は駄目だ。その行動、発せられる言葉のすべてに期待をしてしまう。その度に、シルヴィアの姿がちらついて、余計に胸が苦しくなる。
深呼吸をして心を落ち着かせる。どうしてこんな気持ちになるのか。出かけている答えを飲み干して、気のせいだとしまい込む。そうしないと、苦しいだけだから。
変な期待を持つのはやめよう、すべてセージの優しさゆえだ。彼が私を側に置いてくれていることに、深い意味はない。双子たちにもそうしたように、彼は根無し草に鉢を与えてくれているにすぎないのだ。
「ミララ、どうしました?」
立ち止まったミララの様子に気付いたのか、セージが振り返る。
「ううん、なんでもないよ」
「少し疲れましたね。どこかで休憩にしましょうか」
歩き回ったことで疲れているのだと思ったようだ。立ち止まっていた理由はそれではないのだが、言われてみれば少し疲れたような気がする。単純なもので、自覚が生まれたとたんに喉まで渇いてくる。
「そうだね。少し休憩していこうか。すてきな喫茶店があってね。いつかみんなでいきたいなって思ってたんだ」