あんだんて | ナノ

1



 目を覚ますと、そこはいつもの真っ白な天井。
 ぼんやりとした思考でも分かった。ここは自分の部屋だ。


 ゆっくりと身体を起こす。あれからどれくらいの時間がたったのだろう。閉じられたカーテン。その先に広がる暗闇と静寂から、今が夜であることは判断できた。

 真っ白なカーテンの隙間から、白い光が見えた。そうか、今日は満月なのか。まんまるに大きくなった月が輝いている。その光は世界のすべてを優しく包み込むヴェールのようだ。

 その満ち欠けと共にいろんな想いがたまってたまって膨らんで、ぱんぱんになって。抱えきれなくなった想いが光となってはじけ飛んだものが世界を照らしている。その想いを見て欲しくて、聞いて欲しくて、だから満月は明るいのだと。むかし誰かが言っていたような気がする。
 はじけた後はゆっくりと落ち着いて、姿を消して。そしてもう一度いろんな感情が芽生えて、そしてまた繰り返していく。
 満月はすべてを照らしてくれるけれど、それと同時に自分の想いを吐き出しているのだ。だから、月が暗闇を照らしてくれていることに感謝するのではない、それはお互い様なのだ。月が私たちを見てくれてるのと同じように、私たちも月の想いを受け止めているのだから。
 

 胸に手を当てると、とくん、と自分の鼓動の音がする。
 ああ、本当だ。自分の中にたくさんの感情があふれている。満月に呼応して、たくさんの想いが、とくんとくんと、いまにもこぼれ落ちそうだ。

 そうやって月を眺めていると、コンコンとノックの音が聞こえてくる。少しだけどきりとして、すぐに返事をする。それを待って、部屋のドアがゆっくりと開かれる。

「目が覚めたんですね」

 月を映した水面がさざめきを返すような、穏やかな声色。微笑みをたたえて姿を現したのはセージだった。

「話はソニティアから聞きました。……無事で良かった」

 ゆったりとした動作でベッドの隣の小さな椅子に腰掛ける。繊細に編み込まれた長い髪が、それに伴って揺れる。まるで船の帆が夜の風に揺れているようだ。金色に照らされた海を、ゆっくりと進んでいく小さなセイ
ル。

「なにも出来なくて、申し訳在りません」

 薄く閉じた瞼に影が落ちる。彼の細い輪郭を、漏れ出した月光が彩っている。綺麗だな、ミララは思う。
 さざ波が砂をさらっていくかのように、満ちていた心が凪ぐ。

「大丈夫」

 ミララはそう応える。セージの指先に触れる。細く長いそれは奏でる音色と同じくらい美しいかたちをしていて、ひんやりとした温度が流れ込む。

 いろんな事を伝えたい。話したい。それはいっぱいあったはずなのに、波にならされ、すっかり姿を隠してしまった。
 触れた指の感覚、流れてくるやさしい体温。それはずっと求めていたもののような気もするし、それとは全く違うもののような気もする。すべてが曖昧で、はっきりしない。だけど、今はまだ、それが心地よく思うのだ。


「怪我はありませんか?」

「大丈夫、ちょっとすりむいたくらい」

 ソニティアが守ってくれたおかげだろう。小さな擦り傷ががかすかに痛むだけで、幸いにも大きな怪我はないようだ。
 

 けれど、胸の真ん中がちくりと痛む。
 ミレイをあそこまで追いつめてしまったのは自分だ。
 

「……わたし、気づかない内に、ミレイを傷つけていたんだね」


 風に運ばれて雲が流れる。月光が遮られて、照らし出されていた輪郭が闇に隠れてしまう。

 ミレイにとってソニティアがどれだけかけがえのない存在だったのか、そんなことを考えもせずに踏み込んでしまった。
 彼女にとって唯一の片割れは、彼女が命を懸けてでもつなぎ止めたい存在であり、生きる理由であり、彼女のすべてだったのだ。

 向けられた切っ先の鋭さのままに、切り裂かれるような悲痛。
 あのときの彼女の叫びは、満ち満ちたミレイの思いそのもの。今胸の奥を締め付ける痛み以上に、彼女は痛みを抱えていたのだ。

 ソニティアが笑いかけてくれたことが、少しずつ近づけていると思えたことが嬉しくて、舞い上がっていたのかもしれない。
 潜んでいた闇に、揺れ動いていた感情に気づかなった。気づこうともしなかった。
 
 心が苦しい。刃を向けられた事実と、それ以上に彼女を追いつめてしまっていたこと。それが胸を締め付けて、息が出来なくなる。
 

「あなたのせいではありませんよ」

 優しい声が、震える肩を撫ぜる。

「そんなはずないよ」

 うつむいたまま、ミララは首を横に振る。

「……正確には、誰のせいでもないと、僕は思います」

 カーテンが揺れる。分厚い雲が払われて、その隙間から漏れ出した白金が暗闇へとのびる。隠れていた輪郭が、少しずつ鮮明になる。

「人は、想いをずっと閉じこめていることなんて出来ないんです。閉じこめれば閉じこめただけ、想いは溢れようとするものです。どんなに押さえ込もうとしてもいつかは必ず限界がやってくる。閉じこめていた心は、なんらかのかたちでいつしか開け放たれなければならないのです。ミレイにとって、それが今だった。それだけです。だから、誰も悪くない。ミララのせいでもなければ、ミレイのせいでもない。あなたが負い目を感じる必要はないんです」

 細く長い指先が、ミララへと触れる。
 月明かりに照らされて、糸のように輝く髪をその指が撫でた。骨張った華奢な掌が触れるたび、すこしづつ安らいでゆく。


「大丈夫ですよ。ミララ」


『大丈夫。だから、君は笑っていて』

 頭の中で、セージの声が誰かの声と重なった。
 これは一体、誰の声だろう。その答えを探ろうとするが、頬つたう涙に気づいて、それ以上は考えるのをやめた。


「……ありがとう、セージ」


 凪いでいた心から、再び想いが溢れてくる。こぼれる雫を抑えることはしないで、ミララはただ、溢れる想いに身を任せた。  


 ◆


 頬を撫でるやわらかいぬくもり。
 差し込む朝日で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。

「おはようございます」

 その声に顔を上げると、すぐ近くにセージが居た。昨夜からこうして側に居てくれていたようで、ミララが驚いて離れるまで、その指先はずっと繋がれていたままだった。

「し、心配かけてごめんね。もう大丈夫」

 指先の感覚はいまだ鮮明だ。感じていたぬくもりが彼のものだと思うと、なんだかくすぐたい気持ちになる。
 なんだかとても恥ずかしい。頬が赤くなるのを感じて、今回ばかりはセージに見られることがないことを感謝してしまう。

「元気なようで、安心しました。僕は先に行っているので、ミララはゆっくりと来てくださいね」

「うん」

 ミララがうなずくと、セージは部屋をあとにする。
 昨日の出来事から時間がたって、少しずつだが気持ちも落ち着いてきた。『大丈夫』そう言ってくれた言葉を信じたい。
 
 鏡を見る。泣きはらした瞳はほんの少し赤みを帯びていて、それでも心のつかえは取れた気がする。
  
 
 ちゃんと、ミレイと話したい。
 ぱしんと自分の頬を叩く。大丈夫、迷いはない。

 窓から差し込む太陽は、一点の陰りもなく揚々としている。
 やさしく静かな月の光とは対照的だ。

 月の光が溢れ出した想いだとしたら、太陽の光は何だろうか。
 そう訪ねたら、あの人はなんと答えるだろう。


 ◆


「ミララ! もう大丈夫なの?」

 飛び込んできた第一声と共に、ソニティアが駆け寄ってくる。

 昨日の出来事があってから、ソニティアといつものように接していいのかわからなかった。けれどそのためらいは、ソニティアの心配そうな面持ちによって打ち消されてしまった。その表情は彼のまっすぐで優しい心をそのまま表していて、その優しさを遠ざけることのほうがよっぽど酷いことのように思えたのだ。

 ソニティアはいつもと変わらず、自分に接してくれる。ならばミララもその気持ちに応えるべきだろう。

 ひとつ、憂慮は晴れた。彼の気持ちを嬉しく思い。しかし何よりも目に付いたのは痛々しくその掌に巻かれた包帯だ。

「私はもう平気。それより、ソニィの方こそ、大丈夫?」

「俺はもう、へっちゃらへっちゃら!」

 朝一番の太陽にも負けない笑顔を燦々とさせ、ソニティアは手のひらをにぎっては開いてを繰り返す。何回かで、「いてて……」と表情を歪ませているところを見ると、やはりその傷は深いようだ。

「でもまあ、ミララが大丈夫なようで良かったよ。心配だったから。怪我もないみたいで、本当に良かった!」
 
 屈託のないソニティアの笑顔はミララを安心させるには十分だった。彼がミララ以上にミレイのことを気にしていることは確かで、この精一杯の笑顔はそれを悟られないための強がりであろう。それでも、ソニティアが笑顔で居てくれるだけでどれだけミララの救いになるだろう。

「昨日は本当にありがとうね。ソニィが助けに来てくれなかったら、どうなってたかわからないから。ありがとう」

 ミレイに襲われたとき、ソニティアは二度もミララを守ってくれたのだ。彼がいなかったら、間違いなく血を流すのは自分だった。それを思うと、ソニティアは恩人なのだ。感謝してもしつくせない。ミララは深々と頭を下げた。

「いや、いや! 当たり前のことをしただけというか……だから、そんな風に頭下げなくて良いから! ミララが傷つくのも、ミレイが誰かを傷つけてしまうことも、どっちも嫌だったから。俺は自分のためにやったんだ。だから、そんな風に感謝なんてしないでよ」

「それでも、あなたは私の恩人だわ。感謝しないなんてこと、できないよ。おとなしく感謝されてください!」

「あ、うん。わかったよ……。おとなしく感謝されます」

 人に頭を下げられることに慣れていないのか、ソニティアは少し居心地が悪そうに、だけどまんざらでもなさそうに、そわそわと肩を揺らすのであった。

 しっかりと頭を下げたあと、ゆっくりと頭を上げる。改めてソニティアと向き合ったあと、ミララはちらりと周りを伺う。一番の気がかり、ミレイの姿が見えないのだ。

「ミレイはまだ来てないよ」

 ミララがミレイをさがしていることを感じ取ったのか、ソニティアが告げる。彼女の名を語ると、先ほど笑顔の下に隠していた不安が僅かに顔を覗かせた。ほんの少し、その表情が陰る。

「そっか……」

 それを聞いて、残念なような、安心したような。複雑な気持ちになる。ミレイとちゃんと話をしたい。そう思うと同時に、まだ怖い。彼女がここにいなくて良かったと、そう安堵する気持ちがあるのだ。
 
 けれど、このままではいけない。
 彼女とちゃんと向き直らなければ、何一つ変わらないのだ。このままお互いに思いを曇らせたままで終わるのは嫌だから。

 そう思ったとき、声は突然降ってくる。

「……私はここにいるわ」

「ミレイ!」

 ミレイが現れたことへの安堵か、ほんの少し緊張をはらみながらも反射的に名を呼んだソニティアの声はいつもより高い。

 一方でミララはすこしだけ肩を震わせて、脈を早める心を落ち着かせようとする。ゆっくりと声の方向を振り向いて、ミレイと目が合う。

 顔を合わせにくいのはお互い様なのだろう。ミレイは居心地が悪そうに、目線を下へと逸らす。その姿は心なしか弱々しく見え、自らの身体を抱くように組まれた腕はいつもより繊細で、まるでその身を守るようだ。
 強い意志に輝いていた瞳は涙の痕で赤く腫れている。身に纏う武具を奪われた戦士のように、そこにあったのはありのままの弱々しい少女の姿だった。