放浪少女とピアノソナタ
もう嫌だ。こんな生活。
毎日毎日繰り返される同じこと、いつもいつも変わらない、何の変化もない生活。
押し付けられるだけ。閉じこめられるだけ。
そんなものはごめんだ。もう、嫌だった。
――だから私は飛び出した。
ガタン、ガタン。
揺れる列車の中、窓の外を見慣れた景色が行き過ぎてゆく。
誰にも言わず、こっそりと逃げ出した。くだらない毎日をやめたくて、それに甘んじる自分を変えたくて。
汽笛がなり、列車はトンネルへと進入していく。移り変わる窓の景色が、開けた草原から無機質な暗闇へと変化する。
見る景色がなくなって、少女は車内にぼんやりと視線を移した。
乗客は少なく、しっかりと前を見据える旅人風の青年と、目的地への思いを馳せる母子、そして自分だけだった。
きっとそれぞれ、いろいろな理由があって、目的があってここにいるのだろう。
窓の外は暗闇。楽しむべき景色もない。
手持ち無沙汰になって、少女はふと冷静になる。
――これからどうしよう?
感情と勢いに任せて飛び出してみたものの、この先のことは何一つ考えていなかったのだ。行くあてなんてどこにもないし、手元にあるのは数日分の衣服とわずかなお金。そして空腹しのぐためのパンがひとつ。
無計画にもほどがあった。本当に、思いだけで飛び出してきたのだ。数刻前の自分を馬鹿であったと思いはするが、後悔はしていない。
「行くと決めたんだ。行けるとこまでいかなきゃ……!」
金銭的に考えて、あと2つ町を越えることはできるだろう。そこから、程良いところで降りて、残ったお金で数日はすごしていけるはず。
――よし。
たどり着く先に不安がないわけではないが、少女の心中を占めるのは希望の方が大きかった。今後自分がどうしていくかは辿り着いた町で決めればよいだろう。働き口を見つけて、新たな生活をスタートさせるのだ。
可能性は広大な海のように広がっている。期待に胸が高鳴る。なんとなく、なんの根拠もないが、この先には光が広がっている。そんな確信があった。
列車がトンネルを抜ける。柔らかな光とともに、新しい景色が少女の瞳に飛び込んできた。
真っ暗闇を越えて、その光は祝福の歌声のよう。
希望に満ちた世界へ、少女は足を踏み入れる。
◆
『終点ー。終点です。御乗車ありがとうございましたー』
駅員の声が辺りに響く。
列車は長い旅を終え、終着駅へと辿り着く。
その声を目覚ましに、少女はゆっくりを目を開いて、狼狽した。
「やってしまった!!」
少女は大きな後悔の念にかられ、現状に驚愕する。
あたたかな日差しに心誘われ、心地よさに身を預けたのが失敗だった。
端的に言おう。寝過ごしたのだ。降りるべき駅は遙か昔。列車はとんとんとその歩みを進め、少女を律儀に終着駅へと運んでしまった。
――戻らなくては。
悔恨に浸るよりも、すべきことがある。少女はひたすらに戻りの列車をさがす。
今の彼女の持ち金ではこの駅で降りることはできても、その先の生活をしていくことが出来ないのだ。そんな状態で新天地に降り立ったとて、悲惨な結末が待ち受けていることは容易に想像できる。
ゆえに少女は素早く鞄を持ち直し、来た道をたどる列車へと急ぐ。
しかし。
「首都方面の列車? そんなのもうないよ。ここは田舎町だからねぇ。一日の本数は限られてる。ちなみに、今出発した列車が本日最後の列車。残念だったね。」
目の前が暗くなる。哀れむような駅員の声がどこか遠くに聞こえる。
あざ笑うかのごとく汽笛が鳴り、列車は揚々と少女を置き去りに走り出していった。
この町で降りる。
少女に与えられた選択肢はそれだけだった。
列車代を払って駅を後にする。財布の中身はすっかり軽くなってしまった。家出生活を開始し、ものの数時間で一文無しだ。しかもその理由がうっかり睡魔に負けてしまったことときた。
自分の愚かさに最早笑う気力も起きない。笑う暇があるならば、この状況を打開するすべを考えなければ。
現状、今の所持金では今晩の宿を探すことも難しい。それどころか、目の前の空腹感を満たす術もないに等しい。絶体絶命八方塞がり万事休す。これからどうしよう。少女は途方に暮れる。
すれ違う人々は皆知らない顔。当たり前のことだが、ここに自分を知るものはいない。手にしたものは自由。しかし、それに伴う対価として、言いようのない不安が足下に絡まり付く。先ほどまで希望に胸を膨らませていたというのに。我ながら滑稽だ。
わだかまる思いを振り切るように、少女はふるふると首を横へと振った。
いつまでも狼狽えてなどいられない。ここで立ち止まっていても、状況は変わらない。歩き出さなければ、なにも始まらないのだ。
少女は町並みを見渡すと、一歩を踏み出す。
終点の田舎町。そのわりには小綺麗な町だった。のどかで落ち着いた雰囲気の漂う町並みだが、行き交う人も少なくはないし、真白に塗られた煉瓦を一定の間隔で敷き詰めて整備された道は美しくもある。
新生活を始める新しい町。普通であれば、来る未来への期待に胸を踊らせるのだろうが、一文無しであてもないこの状況では明日への希望どころか一寸先の光さえも見いだせない。
傾きかけた午後の日差しに目が眩む。いつもならば気にならないその日差しが、ほんの少しうっとうしく思われる。
もとはといえば自業自得なのでそう文句は言えないが、こんな時間に列車がなくなるとはどういうことだ。少女の感覚的に、電車が終わる時間にしては速すぎる。田舎なので仕方がないといってしまえばそうだが、行き場のない憤りを感じる。どうしようもないことだということは分かっていても、焦りや不安は心を苛む。
――とりあえず、歩いてみよう。
運がよければ親切な人に泊めてもらえるかもしれない。なんとしても、新生活早々の野宿は避けたい。日が沈む前になんとかこの状況を打破しなくては。
少女は歩みを進める。
少しだけ、いつもよりも速いテンポが煉瓦道をゆく。
◆
町はいつもと変わらぬ日常を送る。
ふらりと現れた少女のことなど、誰も気に留めはしてくれなかった。
少女はしばらく町の中を探索したが、現実は理想ほど甘くはない。町の人は余所者に関心など抱かないようで、声をかけることも出来ずすれ違っていく。町に唯一の宿泊施設は、金策尽きた少女がそのドアを叩くには敷居が高すぎた。
小さな田舎町は、少女の足でもあっという間に一周出来てしまう程だった。それゆえ、抱いていた淡い期待が砕かれるのも時間はかからなかった。
「これはちょっと……本当に困ったかも」
町中歩き回ったが、過ぎ去るのは時間ばかりで状況は何一つ好転しない。
日はその経過とともに緩やかに傾き、東の空はほんのり紫色に染まっていた。このまま夕暮れを迎えてしまえば、本当に野宿という選択をせざるを得なくなる。今日を野宿でしのげたとしても、この先のことを考えると少女の表情は青ざめる。
「……というか、ここはどこだろう」
白い煉瓦の道を無心で辿っていたせいか、気がつくと少女は町の中心からは外れた林道に立っていた。周囲に家らしい家はなく、人の気配も感じられない。
道路が舗装されていることから、人の往来がないわけでは無いだろう。煉瓦の小路は林道のずっと奥へと続いている。その果てになにが有るのか、薄暗い道の先は少女のいる場所からはわからない。
この先にも人が住んでいる可能性はある。彼女を受け入れてくれる場所があるかもしれない。そう思いはすれど、進めば進むほど日の光は閉ざされ、鬱蒼とした世界が広がっているのだ。そのわずかな可能性だけを頼りに林の中を進んでいくことは躊躇われた。遠くで鳴く鳥の声が夕闇の訪れを告げる。
――やっぱり町に戻ろう。
元来た道を引き換えそうと踵を返す。その瞬間。
「――?」
『音』が聴こえる。
小さな、零れ落ちるような音色。
しかし確かに紡がれている、それは旋律だった。
「ピアノの音……?」
やさしく、澄み切った心地よい音色。まるで語りかけるように、少女の胸の奥に染み渡る。
はじめて聴く歌、けれど不思議な感覚がわき上がる。
――この音色、どこかで聴いたことがあるような……?
何故だろう、なぜかとても懐かしいような。あたたかい気持ちが少女の中に芽生えた。
音は道の先から聴こえてくる。弾かれたように、導かれるように、少女は歩みを進めていた。
煉瓦道を進むにつれ、歌うような旋律は大きさを増す。近づいている、高まる心音。
一体誰が、こんな綺麗な音色を奏でているのだろう。好奇心が少女をかきたてる。
突然に視界が開ける。そこには小さな湖があった。射し込む夕日が水面に反射してきらきらとまぶしい。美しさを感じる景色の中、一際目を引いたのは湖畔に寄り添うようにたたずむ一軒の大屋敷。綺麗に飾られた真白な外装が風景に溶け込んで、ひとつの調和を生んでいた。
「わあ………」
絵画のようだ。少女はそんな風景に目を輝かせる。鳴り響くピアノの旋律と風景が織り成すそれは、ひとつの完成された世界だった。
どうやら、旋律はあの屋敷から聴こえてくるようだ。
このメロディを紡ぐ人間が、あそこにいる。
鼓動が高鳴るのを少女は感じた。それを押さえつけて、少女は屋敷へと近づく。細やかな装飾を施された白い門をくぐり、おそるおそる扉へと手をかける。ほんの少し力を加えるだけで、その扉は驚くほど呆気なく開いた。
「開いてる……」
鍵はかけられていないらしい。どうしようかと一瞬躊躇うも、ゆっくりと屋敷内部へ足を踏み入れる。すると、ピアノの音色はより一層鮮明なものとなった。穏やかで、ほんの少し悲しい音が、鼓膜を揺らし音の世界へと誘う。呼んでいる、そんな気がした。その導きに従って、少女は迷いを捨てる。
屋敷はとても大きく、人がたくさんいてもおかしくはない。そう思っていたのだが、歩みを進めても誰一人として出会うものはいない。名画と言われるような絵画や、趣向を凝らした彫刻。見たことのない文様の描かれた花瓶など、多くの美術品が飾られているが、どれも手入れが行き届いていないようで、汚れやほこりが目立っていた。
そんな様子を不思議に感じながらも、ただただピアノの音を目指して進む。どきどきと、高鳴る心音がたゆたうメロディと重なって心地よいリズムを刻む。この先になにが待ち受けているのか、心は逸る。しかし不思議と不安はなかった。
やがて、少女はひとつの扉の前へと辿り着く。
「ここ、よね……」
装飾の少ないシンプルな扉は、淡雪が降り積もったような純白で塗られている。唯一金色に輝くドアノブに手をかけると、ひんやりとした感覚が指先を伝う。まるで本当の雪のようだ。そう感じるのと同時に、ドアノブを握る手のひらが迷う。
勝手に入って良かったのだろうか、今更そんな考えが脳裏に浮かぶ。扉を開けて本当に良いのか。この先に待つ邂逅のその意味を自身の心に問う。
目をつむり、ゆっくりと息を吸い、吐く。ここまで歩いてきたのは自分の意志だ。引き返すわけにはいかない。
ゆっくり目を開き、手のひらの力を込める。キィ、と小さな音とともに扉が開いた。
――旋律。
やさしい、やさしい音楽。懐かしいメロディーが少女を出迎える。
部屋にあるのは一台のピアノだけ。星のない夜空のような、ゆるぎない漆黒。それに寄り添うようにひとりの青年。白く細い指先が、鍵盤の上で踊る。それにあわせて、暗闇の空を彩る星々が生まれ、輝き、満ちてゆく。黒鍵が跳ねる。音が紡がれる。ゆらめきに合わせて、長い銀色の髪が揺れる。
それはまるで音の洪水。ピアノの唄は次第に力強さを帯びていく。とめどない音が流れて、少女を引き込む。高らかな唄。魅せられる。心を奪われる。少女は目を閉じ、ただただ音の流れに身をまかせた。
遠い昔の情景。
なにもしらない、無垢な心を精一杯輝かせて走っていた。あの頃の記憶。見上げた夜空に瞬く、刹那のきらめき。
今はもう失ってしまった、遠い日々。けれど確かに心の奥底に残っている。忘れられない灯火。
――ああ、なぜだろう。
――どうしてこんなにも、泣きたくなるのだろう。
最後の一音、その響きが空を振るわせた。
唄が終わる。あまたの星が朝を迎える。水面に広がった波紋が静かに消えゆくように、世界が収束してゆく。
「お客様ですか? 珍しいですね」
終焉を迎えた音の余韻。それに浸っていた少女を、音が現実に引き戻す。
「!」
その音は声。凪いだ夜の海のように、穏やかな声だった。
どきり、少女の肩が跳ねる。気づかれないわけがないと、わかっていたはずなのに。鼓動は突然に脈を速める。
「わ、えっと……勝手に入ってすみません………音が、聴こえて。つい……」
緊張のあまり、喉が震えた。やはり、勝手に入ってきてしまったのはまずかったかもしれない。怒られるだろうか、そんな恐れを感じながら身構える。
しかし、青年が放ったのは少女の恐れとは正反対の言葉だった。
「いいえ。聴いていただけたのなら光栄です。ようこそ、いらっしゃいました」
青年はゆったりと微笑む。
突然やってきた侵入者に対して、警戒するでもなく。咎めるでもなく。彼はだだ、穏やかに微笑んでいる。
「え……?」
思わぬ言葉、反応に呆気にとられる。まさか、歓迎されるだなんて思っても見なかった少女は拍子抜けしてしまう。ぽかんと口をあけて、椅子に腰掛けたままの青年をみつめる。日の光に晒されていない、白い肌。すらりとした細い体躯。鍵盤に添えられた指先は、精巧な美術品のよう。長く伸びた銀色の髪はゆるやかな三つ編みにされ、肩口から胸のあたりまで垂れている。綺麗な人、それが少女の抱いた感想だった。
「それにしても。こんな屋敷にまでやってくるなんて。どういった御用件です?」
端整な顔立ちをくすりと歪ませて、青年は少女に問う。
伏せられたままの瞳は、長い睫に覆われてその色は伺い知れない。しかし、不思議とすべてを見透かされているような感覚を覚える。嘘や偽り、それは少しの意味も為さない。ありのままを、少女は返す。
「えっと……ごめんなさい。特に用事とかはないんです。ただ、聴こえてきた音楽が、懐かしい気がしたから」
「懐かしい……? 不思議なことを言うんですね」
「呼ばれてるような気がして。変ですよね、こんな……。そんなわけがないのに。本当、ごめんなさい」
自分の言葉に嘘や偽りはない。しかし、言いながらそのおかしさを噛みしめる。自分は突然やってきた侵入者だ。ただでさえ怪しいのに、その理由もきっと、意味の分からないことだろう。泥棒だって、もっとましな話をする。自分の話を聞けば誰だって怪訝に思うだろう。不審に思わないわけがない。
「ふふ、変などとは思いませんよ。メロディというものは心の奥深くに刻まれるもの。あなたの覚えた感覚も、間違いではないのかもしれません」
目を閉じたまま、青年は笑う。水面が風に揺られるように。ゆったりとした息遣い。
不思議な人だ。
少女は思った。拒むでもなく、否定するでもなく。たゆたう水のように優しく包み込む。
しかしその瞳は少女を見つめることはない。閉ざされた瞼の奥に静かにその輝きを秘めたまま。そこに隠された色を覗こうとして、じっと見つめた少女の視線に青年は気付いたのだろう。そして、優しく歪められた口元がゆっくりと開く。
「僕の目が気になりますか?」
「あ、えっと……すみません」
「いいえ、謝ることではありません。誰でもはじめは不思議に思うのでしょう。この目は光を映しません。ですが、別段不自由はしていないのです。歩くことが出来る足があり、この手は音楽を紡げます。だから、それで十分なのですよ。あなたが気に病むことではありません」
変わらず微笑んだまま、青年は言葉を紡ぐ。とても優しい声。そこに微かに漂う寂寥、誰とも分け合うことの出来ない孤独の片鱗を垣間見て、少女はきつく唇を結んだ。
「そんな顔をしないでください。気に病む必要はないと言ったでしょう。……優しいんですね」
目には見えずとも、紡ぐ言葉に惑う少女の様子が解ったのだろう。凪いだ声は包み込むように優しい。
気遣うべき相手に逆に気遣われて、少女はふるふると首を横に振った。その様子にくすりと微笑んで、青年はゆっくりと立ちあがる。
「……さあ。もう日も暮れます。あまり遅くなってはご家族の方も心配されるでしょう。そろそろ、帰られた方がよいのでは?」
少女の身を案じてだろう。青年の言葉を受けて、少女は窓の外を見る。レースでできたカーテンのその先、空はすでに緋色を越えて紫色の薄闇が広がっていた。
そうだ、もう帰らなくては。そう思って、そして現実を思い出す。
「……ないんです。帰るところ。」
おずおずと、少女の口がぎこちなく言葉を紡ぐ。
「……それはどうして?」
青年は静かに問う。驚いた様子ではないが、不思議そうに首を傾げた。
「えっと、それは――」
少女はいままでの経緯をすべて話した。初対面の相手の家にいきなり上がり込んだうえに、このような話をするのもどうだろうか。そう思いもしたが、ここまで来たら話さないわけにもいかない。
一通り話し終えたところで、少女は青年の顔を伺う。彼は腕を胸の前でくみ、なにやら考え事をしているようだった。
青年は沈黙し、その思考を阻害しないようにと少女も口を噤む。しばしの無音が訪れる。
「……なるほど。わかりました。」
小さくつぶやいて、にこり。青年は口角を上げる。
なにゆえ彼は微笑むのか。その笑みの理由がわからず、少女は疑問符を浮かべる。
「それならば、此所に住むというのはどうでしょうか?」
「はい?」
降ってきた言葉は、少女にとって予想外のものだった。
ここに住んでよい。彼はそう言ったのだ。少女は思わず目を見開く。初対面の、そして不法侵入同然の女に対して、そこまでの世話を焼いてくれるなんてあり得ることではない。普通であれば、一晩泊めてくれるくらいが精一杯だろう。しかし、目の前の青年は相変わらずの笑顔である。そこには微塵のためらいも、悪意も感じられない。少女は見開いた瞳を二、三度瞬かせた。
「空き部屋はたくさんあるんです。好きに使ってくれて構いませんよ。僕一人では広すぎたので、ちょうどよかった」
彼のなかでは、すでに少女を招き入れることが決定しているらしい。使うならばあの部屋が良いのでは、などひとりでに話を進めてしまっている。
「え、ちょっと。あの、良いんですか?」
「もちろんです」
清々しいまでに親切な言葉。それは同時に少女を戸惑わせる。
現状、一文無しの彼女に行くあてがないことは確かな事実だ。いわば身一つで海に投げ出された状態。目の前に飛び付く島があれば木片でも浮き輪でもなんでも良い。しがみつくという選択肢しか残されていないのだ。
ましてや、目の前に差し出されたものは豪華客船ばりの立派な船。これに飛びつかずして、何に飛びつくというのか。
目もくれず飛びつきたい。その衝動に駆られながらも、少女は葛藤していた。
差し伸べられた掌は、本当に信用できるものなのか? そんな猜疑心が少女を躊躇わせる。そして同時に、その掌を疑う事への罪悪感が心をきつく締め付ける。
――どうしたらよいのだろう。
惑う少女の掌を、細い指先が包み込んだ。
「実を言うと、今日は僕も不思議な予感がしていたんです。何かが起こるのではないかという、確信にも似た予感が。そして、あなたが現れた。あなたはとても不思議な空気を持っている。僕の心を惹き付ける。今日の出会いはきっとなにか特別なものだ、そんな気がするんです。ですから」
指先から伝わる体温。それはとても冷たくて、けれど暖かくて。孤独や不安に苛まれる寂しさを、包み込んでぬくもりをくれる。それはどこか不思議な感覚。はじめてふれ合う懐かしさ。
柔らかく夜空を照らす、月のようだ。そのほほえみに、その言葉に、少女のなかで何かがとける。躊躇いも、惑いも、疑いも越えて。
ひとつ、こたえが決まった。
「――えっと、はい。じゃあ、よろしくお願いします」
小さく、けれどしっかりと、少女は頷いた。
握る掌に力を込めて。その温度を感じる。
「――はい」
青年の表情が色づいた。嬉しそうな、安堵したような、そんな表情。
こんな風に喜ぶのも安心するのも、本来は自分の方なのに。
不思議な空気をもつ人だ。少女は青年が自分にかけた言葉をそのまま彼へと感じとる。
――きっと大丈夫。
根拠はない。けれど不思議とそんな気がした。
何かがはじまる、そんな予感。
歩きだした、大きな一歩。それはきっとこの瞬間だ。
「自己紹介がまだでしたね。僕はセージ。セージ・バルフリーディアです」
触れていた指先を離して、改めて青年は手を差し出す。
「私はミララ。ミララ・バース。よろしく、お願いします」
「ミララ、すてきな名前ですね」
ミララがその手を取ると、セージは柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
孤独な指先は温もりに出会う。
ひとり紡いでいたメロディは、いつしかハーモニーを奏でる。
ゆっくりと、歩くような速さで。
物語ははじまる。