ひとりぼっちの二重奏
ずっとずっと一緒だった。
大切で、かけがえがなくて、唯一で、何よりの私の理由だった。
私が、私として生きていくための、光を見失わないための、強く在るための、何よりの支えだった。
ずっとずっと一緒。
あなたを守って、側にいて、その笑顔を見ていられる。それがずっとずっと続く。変わらない。当たり前。
あなたの側に、隣にいるのは私の役目。私だけの、居場所。
そのはずだった。
いや、今もそれは変わらない。何一つ変わっていない。
変えてはいけない。失ってはいけない。
貴方を、貴方といられる私の居場所を。
私は、誰にも汚させはしない。
そう、誰にも。
いつもと変わらない朝がきた。
差し込む日差しに目を細め、ミララは大きく伸びをする。
昨日までの不安が消えて、すがすがしく開放的な気分が心を満たしていた。昨日の出来事を思い返す。セージとの会話。彼の大切な友人の存在とその約束。初めて聞いた話なのに、どこか他人事でないような、自分でもよくわからない不思議な感覚だった。
解れていたものが元通りになっただけ。そうかもしれない。だけれども、彼が打ち明けてくれたこと。彼自身の事も少しずつ伝えてくれると言ってくれたこと。昨日まで知り得なかった事を知れることは、ゆっくりだが、確かな前進といえるのではないだろうか。それはまるで子供の歩幅のように小さく、もどかしくも思えるだろう。しかしそれ以上に、立ち止まらずに進み続けているという事実は大きな希望のように感じられた。
さあ、今日も一日が始まる。
ここにたどり着いたあの日から繰り返される日々が、少しずつ日常へと変わっていく。知らない景色が見知ったものへと変わっていく。私の中に溶け込んでいく。
進む先には希望がある。
そんな予感を疑うことなく、ミララは扉を開け放った。
「ーーミララっ」
屈託のない声に呼び止められ、そちらの方を見向く。真夏の青空のような曇りのないソニティアの笑顔がそこにあった。
「どうしたの?ソニィ」
「いや、これから買い物にいくんだろ? 俺も付き合おうと思って」
彼の言葉の通り、ミララはこれから町まで買い物に行くつもりだった。必用品を買い込む為に用意された大きな鞄を手にしていたから、それによってすぐに分かったのだろう。
ここから町まではそれなりの距離があるし、加えて必要な買い物は数日分を想定していたのでその量もそれなりのものとなる。手伝ってくれるという彼の申し出は大変ありがたいものだ。ミララは即答した。
「うん、ありがとう。助かるよ」
思えば、ソニティアは大変自分のことを気にかけてくれている。こういう風に買い物のつき合いは良くしてくれるし、小さな変化にも気づいて声をかけてくれる。第一印象、人柄の良さそうな雰囲気を感じていたがそれは間違いではなかったようだ。
「ミララはさ、自分の家族とか心配じゃないの?」
だいたいの買い物を終えたところでふとソニティアがそんな言葉を口にした。
家族。忘れていたわけじゃないが、ずいぶんと久しぶりにその存在を思い出した気がする。
「家族……かぁ。無断で飛び出してきちゃったからなぁ」
ここに来るとき、家族を含めた故郷の人たちにはなにも言わずに家を出たのだ。そんな自分のことを当然心配しているだろうし、今でも探し回っているかも知れない。
「ミララはどうして家をでてきたの? 家族もみんないるんでしょ? 帰る場所がちゃんと在ったんでしょ?」
「それは……」
ソニティアのまっすぐな視線に、不思議と罪悪感のような感情が芽生えた。その瞳から垣間見えたのはソニティアとミレイの過去。ミララには知る由もない二人の人生だった。勿論、彼らがどんな風に今までを生きてきたのかは分からない。だけれど、目の前の少年にとって彼の紡いだ「家族」という言葉は、ミララの知るそれよりももっと重い意味合いを含んでいるように感じられた。
「あ、ごめん。別に深い意味はないんだ。ただ気になっただけだから……気にしないで」
ミララの心情を察してか、ソニティアは慌てて首を振る。
そんな彼に気を使わせぬようにと、なるべく笑顔を保つようにしてミララは彼の問いに答えた。
「あ、ううん。いいの。家族のことは心配だよ。優しくて暖かくて。でも私は、あそこにいたら自分が駄目になってしまう気がして。あのままの環境にいたら、前に進めなくなる気がして。それで家を出たんだ」
言葉にして話すと自然と思い返される。家族や幼なじみの存在。ミララにとってかけがえのない大切な存在。大切で、大切にしてくれる。たった一つの帰る場所。それは今でも変わらない。
だけど、もうそこに戻るわけにはいかないのだ。
居心地がよいあの場所は、同時に私を縛っていたのだから。
ミララの言葉を受けてソニティアは何か言いたげに口を開きかけた。しかし、その口はそのまま紡がれてしまい、ついに彼の中に生じた疑問を問うことはなかった。
追求を避けた優しさが、しばしの沈黙を生む。
それを破るように、今度はミララが彼に問う。なるべく明るい表情でソニティアの顔をのぞき込む。
「ねえ、逆にこっちからも聞いていい?」
「え?うん、いいよ」
「ソニィはずっとミレイと一緒にいたんだよね?」
「うん。そうだよ」
「ここに来るまでの事とか、教えてもらえないかな?」
「これまでのこと?」
ミララの問いにソニティアは少しだけ目を見開いた。
「私も気になっただけだから、言える範囲でいいんだけど・・・・・・ほら、なんでセージの家に居たのかとか」
「そうだなぁ、これまでの事って言うと長くなるけど……」
そう呟くとソニティアは思い出すようにしながらゆっくりと話し始めた。
「俺とミレイはずっと二人だけで生きてきたんだ。両親とか……家族と呼べる人も居たらしいんだけど、俺は良く覚えてないんだよね。まあ、いろいろあって二人だけになって。いろんな場所を転々として、楽しいこともつらいことも沢山あって。でも、なにがあってもミレイは俺の味方で。ずっと側にいてくれた。ほら、俺って頼りないだろ?情けないことに。そんな俺をミレイはいつも守ってくれてたんだ。ミレイはすごく強いから、俺はそんなミレイを追いかけてばかりだったな。俺も強くならなきゃーって。守られてばっかじゃ格好悪いもんな」
そこまで話してソニティアは苦笑う。荷物を持つ手に力がこもっているのか、彼が手にした袋がくしゃりと音を立てた。
「ミレイはあまり自分のことを話してくれないから、それが時々もどかしいんだ。俺だってあいつの力なってやりたいのに。どうすれば良いのか分からなくなる。今、俺たちはセージの家に居させてもらってるけど、言い出したのはミレイなんだ。俺はそれにそのままついて行って、で結果的に今みたいな形になったというわけだ。……俺はミレイの本心を、ミレイが何を考えているか、ミレイの目的は何なのか、それを知らないんだ。分からないんだ。こんなに近くにいるのにな」
語るソニティアの表情が歪められる。そこに滲む感情は不甲斐ない自分自身に向けられた悔しさや悲しさ、あるいは怒りであったようにも見えた。
「そう、なんだね」
「あ、ごめん。なんか俺ばっか喋っちゃって」
「ううん。教えてっていったのはこっちなんだから。ありがとうね」
「あ、うん……」
ソニティアもいろいろな感情を抱えて、今ここにいるのだろう。自分たちのことを話してくれたソニティアにミララは感謝の意をもって笑顔を返す。
それをみたソニティアの表情がほんのわずかに赤みを帯び様な気がしたが、すぐに顔を背けられてしまったため良く分からなかった。
「ミレイのこと、難しいんだね。ソニィでさえ分からないなんて。私ももう少し仲良くなりたいんだけどなぁ」
「そう言ってくれて嬉しいよ。俺もミレイにはもっと笑って欲しいんだ。ミララたちと打ち解けられたら、きっと今より楽しい気持ちになれると思う。今までたくさん苦労してきただろうから、ミレイには幸せになってもらいたい」
ミレイのことを語るソニティアはいつにもまして優しく頼もしい表情をしているように見えた。
「ソニィは本当にミレイを大切に思ってるんだね」
「うん。たった一人の大切な家族だからね」
照れくさそうに、だけど迷いなく。
力強い言葉はソニティアのミレイへの思いの現れだった。
ゆったりとしたテンポで、ピアノの旋律が流れる。踊るようななめらかな指先の動きにあわせて、弾かれた弦が優美に、されどしっかりと地を踏みしめるように、歌を奏でる。
ミララたちが外へでている頃、セージはいつものようにピアノへと向かっていた。染み着いた感覚が白と黒から正確な音符を導き出す。指先の感覚が弦を介して音となり、空気の揺らぎが鼓膜を振るわせ、世界が歌で満ちる。
幼い頃からずっと変わらない、唯一の習慣。はじめはやらされていたものであったが、次第にそれが当たり前となり、今ではなくてはならないものとなった。それは、この瞬間が世界を視ることが出来ない自分が世界を、世界に自分が存在していることを感じることが出来る貴重な時間だからかもしれない。
なんて、馬鹿げている。
自身の思考を嘲笑って、反響した和音に耳を澄ます。
まっすぐで迷いのない音の余韻が、次第に透明度をまし、ついには空気に溶けて消えた。
ふぅ、と息をついて、背後に感じていた気配に向かって語りかけた。
「どうかしました?」
気づかれてないと思っていたのだろう。気配の主はすこしだけ肩を強ばらせて、それから溜息。
「ーー別に」
つんとした声で答えると、ミレイはつり気味の視線を斜め上に移した。
「貴女が用事もないのに僕のところに来るとは思えませんが」
「……お見通しというわけね。さすがは由緒あるお家のお坊ちゃんだこと」
「家のことは関係ないと思いますが」
穏やかな口調とは裏腹に、部屋に充満する空気は緊迫したものだ。触れたら刺さりそうな沈黙。しばらく続いたような、あっという間に過ぎ去ったような、そんな頃合いにその沈黙は破られる。
鈍い色を放ったナイフの刃先が、まっすぐセージへと向けられる。
「あんたの知ってること、教えて欲しいの」
張りつめた空気と、ミレイから放たれる気迫。すぐに状況を察して、それでもセージは落ち着いた様子を崩さなかった。
「知っていること、ですか?」
「そう。5年前のこと……ひとりの記者が何者かによって殺された。この話に聞き覚えはない?」
「……記者? 何の話です?」
「とぼけないで!」
ミレイが声を上げるのと同時にナイフを握る手に力が入る。
「バルフリーディア……あんたなら知っているはず」
口調こそ落ち着いたものだが、高ぶる感情を抑えるための意図的なものだろう。震える声がそれを物語る。
だが、それは問題ではない。本当の問題は、彼女の発言。彼女が何を言わんとしているのか、彼女がどこまで知っているのか。
「落ち着いてください。ミレイ。大した殺意もないのに、刃物を人に向けるのは危険ですよ」
「はぐらかさないで。……私は、あんたを殺せる」
「ミレイ。生憎ですが、貴女の問いに僕は答えることが出来ません。貴女の知りたい情報を僕は知り得ない。これは本当です」
「嘘」
「嘘ではありません。だから、落ち着いてください。たとえここで貴女が僕を殺したとしても、何も得ることはありませんよ」
「……っ」
こちらの発言の真偽が解らず、ミレイは迷っている様子だった。ナイフを握った右手が震えている。
「貴女が何を知っているのか、追求はしません。なので貴女もこれ以上の追求をしないで欲しい」
「どういうこと? そう言われて、私が素直に従うとでも思うの?」
「勿論、思ってはいません。ですが、貴女のためでもあります」
「意味が分からない……そうやってとぼける気?」
「とぼけるも何も、貴女の知りたいことは分からないと先ほど申し上げたでしょう」
ますます意味が分からない。といった顔でミレイはこちらを見る。
これ以上何かを言っても、現状が変化する期待はもてないだろう
。ミレイが諦めてくれることを待つしかない。
「納得できないかもしれませんが、解ってください。ミレイ」
ミレイは眉をひそめ、しばらくこちらを睨んでいた。
再びの沈黙。しばしの均衡状態の間、ナイフを握る手の力は緩めず思考を巡らせる。言葉の真偽はどうあれ、これ以上の追求をしても結果は変わらない。そう判断したのだろう。溜息を吐くとナイフをシースに収める。
「あんたが何も話す気がないのは解ったわ。だけど、私はあんたを信用していないから」
むき出しの敵意を言葉に乗せて放ってから、ミレイは結い上げた髪を揺らし部屋の窓から外へと飛び出していった。
「まったく、困りましたね……」
それを呼び止めるわけでもなく、彼女の去っていった方向を向いてセージは息を漏らした。