独奏ノスタルジィ
朝が来た。
いろいろあった昨日の出来事などすべて夢だったかのような、穏やかな朝だ。
昨晩はあの後家にもどってから、セージと顔を合わせることはなかった。たった一晩のことなのに、響き渡るピアノの音色や普段通りの和やかな会話が遠くむかしのことのように感じられる。
セージとちゃんと話そう。ミララの心はそう決まった。はずなのに、いざ直接会おうと思うとやはり緊張する。いつもより速いテンポの心音をすこしでも落ちつけようと深く息を吸う。
「よし」
部屋を出て、一歩を踏み出す。
正直、彼と話すことをこわいと思う気持ちもある。もしなにも答えてくれなかったら。知ることを拒否されてしまったら。その可能性を考えると恐れは消えない。
出来ることならもう少し時間がほしい。臆病にもそんなことが頭によぎるが、こういう時に限って時間はあたえられないものだ。
「おはようございます」
降ってきたセージの声はいつもよりも、すこしだけ躊躇ったようなものだった。
それでも表情は穏やかでいつもと変わらない、ミララはそれをじっと見つめた。
「おはよう。セージ」
今度は逃げない。ちゃんと向き直って、話をしよう。
「あのね、セージ。私、あなたに聞きたいことがあるの」
まっすぐに送ったミララの視線。セージもまた。まっすぐにそれに答えた。
「はい。僕も、貴女とお話がしたいと思っていました」
伏し目がちに微笑んで、セージはミララの手をとる。
突然の事に驚くミララ。その手を優しくひいて、彼は言う。
「来て欲しい場所があるんです」
来て欲しい場所、とは一体どこなのだろうか。
セージに話を聞くつもりが、まさか屋敷の外に連れ出されるとは思ってもみなかった。ほんの少し前を歩くセージの姿をみつめる。めずらしく杖を手にした彼は、ゆったりと慣れた足取りで進んでいく。私たちが歩くこの道は、道といっても自然が作り出したような整備も何もされていない森の小道。とてもじゃないが、目をつむって歩くなんてことはミララに出来そうにない。
彼の行動にはきっと彼なりの考えがあるのだろう。「話がしたい」そう言ってくれた言葉を信じて、何も聞かずについていく。
それにしても、こんな道があるなんて知らなかった。何処からか波のような音がする。海が近いのかもしれない。
ふと、前方から人の姿。町の人だろうか、老人がひとり。こちらに向かって歩いてくる。
「おや、セシルさんじゃないですか。おはようございます」
セシル?
聞き覚えのない名前だ。人違いだろうか。そう思うミララの予想を裏切って、にこやかにセージが応える。
「その声は、マルコさんですか? おはようございます。今日早いですね」
マルコと言われた老人は親しげにセージと会話を交わし始める。
状況がいまいち呑み込めないまま、ミララは二人のやりとりをみつめていた。少しの世間話の後、「それでは」と老人は去っていく。
「セージ」
一体どういうことなのか。疑問全てを詰め込んで、彼の名を呼ぶ。
「……説明しなくてはなりませんね」
セージは困ったように笑う。
当然だ。ミララがそう目で告げると、セージはゆっくりと話し始める。
「セシル、はこの町での僕の偽名なんです。セシル・エーデルシュタイン。そう名乗っています」
「なるほど、それで町の人はセージの名前を知らなかったんだ……」
これで昨日のイリスの言葉の理由が分かった。偽名を名乗っているなら、当然町の人が「セージ」を知っているはずがない。
「でも、どうして……?」
偽名なんて、ミララにとって縁のないものだった。ミララでなくとも、普通に暮らしていて偽名を名乗る必要性はまずないだろう。
「まあ、いろいろあるんですよ」
微笑むセージ。
最近わかったことがある。こうやって、何かを隠してセージは微笑う。そして、そういう場合彼は絶対にその理由を話してはくれない。
「話せないことなの?」
なるべくなら、隠し事はしてほしくない。だけど、それが言えるほど自分とセージとの距離は近くないのだ。歯痒いけれど、それが現実。
「すみません」
どんなに追求しても本当の事は話してもらえないだろう。だが、ここで諦めるわけではない。
「――わかった。でも、いつか教えてくれるよね?」
いまはまだ遠くても、いつかそれを知れたなら。
その時を待ってみようと思う。
ミララの言葉に少しだけ驚いた顔をして、それからセージはうなずいた。
マルコと別れてからは誰とすれ違うこともなく、静かな道をしばらく歩く。
どれくらい経っただろうか。
視界がひらけて、海が広がる。
「こんな場所があったんだ」
穏やかな海風が、草花を揺らした。一面に緑が茂る風景。そこから伸びた崖の斜面を境界に、水平線まで続く蒼。
「ここは僕の大切な場所なんです」
素晴らしい景色に心を奪われる。この景色を見せるために、ここまで連れてきてくれたのだろうか。
そう思った時、ふと目についたのは花に埋もれるようにして小さな石碑。真新しい大理石で作られたそれは十字架を形どって、静かにそこに存在していた。
「……お墓?」
良く見るとそれは小さな墓標だった。
一体誰の。そう疑問に思っていると、セージがそちらに向かって歩き出す。
そのあとについて墓に近づく。そこに刻まれた名前、それは――
「――オリファ。僕の、大切な友人です」
「オリ、ファ……?」
胸が締め付けられる。そんな感覚。心の奥から、悲しい気持ちが溢れてくるようだった。
「このお墓は僕が作ったもので、本物ではないんですけどね。彼が居たから、僕はこうして立っていられる。今の僕があるのは、彼のおかげなんですよ」
セージの声はいつも通り、穏やかな声色で。取り繕っている様子はないけれど、それがなんだか余計に切なく胸をうつ。
「……どうして、私をここに?」
胸が苦しい。どうして、こんな気持ちになるのだろう。どうして、こんなにも懐かしくて、こんなにも悲しいのだろう。
「ミララ。僕は貴女に歌ってほしいといいました」
「うん」
「その曲は、僕の親友が書いたといいました」
「うん」
「それが、オリファなんです」
「……うん」
「僕は彼と約束しました。いつか素敵な声にのせて、この唄を世界に届けようと。だから、僕は君にこの唄を歌ってほしいと、そう言ったんです」
セージの言葉は、まるで胸のすきまにすとんと落ちてくるようにミララの中に響いた。まったくしらない、初めて聞く名前。約束の話。だけど不思議と、鼓動が高鳴る。
「そう、だったんだね。でも、なんで私が?私、歌なんて歌えないし。彼のことも知らないのに」
「……」
瞬間、セージの表情が少しだけ寂しそうに歪んだ。
その口が何かを言いかけて、そのまま閉ざされた。次の表情はいつものような穏やかな微笑み。
「貴女はあの曲を、懐かしいといいました。僕とオリファしか知らない、ひみつの曲を。だから、ですよ」
きっと、その言葉の裏にはいろんな思いが隠れている。
それを知ることは、今のミララには出来ない。
笑顔に隠した寂しさを、胸を締め付けるこの思いを、消せないのは何故だろう。
「――ごめんなさい。私にはやっぱり、歌えないよ。こわいの、歌うことが」
「ミララ……」
「でも、頑張ってみるよ。セージが話してくれたこと、嬉しかったから。ちゃんと応えられるかわからないけど」
もし、その歌を歌うことが出来たならば。彼の寂しさの理由も、この胸の苦しみの理由も、わかる気がする。
そしてそこに、それを知った先に、何かたいせつなものがあるような気がするのだ。
「私、ちゃんと知りたい。知らなきゃいけないことがある、そんな気がするから。それに、もっと知りたい。貴方のことも。だから……」
そこまで言って、ミララの手のひらに暖かなぬくもり。そっとその手に触れたのはセージの指先。そして見つめた先に、くもりのない優しい笑顔。
「ありがとう。ミララ。貴女の気持ち、とても嬉しいです。僕も同じです。貴女のことが知りたい。そのために、少しずつですが、伝えていきますね。僕のことを」
この笑顔にはきっと裏も表もないのだろう。何も隠れていない、純粋な彼の言葉。少なくともミララにはそう感じられた。そしてそれが嬉しくて、ミララもまた笑う。
「――それじゃあミララ。仲直り、しませんか?」
「仲直り?」
「はい。前みたいに、自然にいましょう。仲直り、です」
仲直り、なんだか可笑しい。
私たちは喧嘩をしていたのだろうか?それとは少し違う気もするが、こじれていたものが元通りになるのだ。意味合いとしては正しいのかもしれない。
まるで、子どものようだ。仲直り。その言葉に喜びを感じるのが、可笑しくて、幸せだ。自然とこぼれたのは笑みだった。
「うん!」
触れあった手をもう一度つよく握った。
溶け合うようなそのぬくもりが、それを感じられることが特別なことのようで、とてもいとおしい。
大切にしなくては。もう二度と、離さないように。離れないように。そう、思った。
「二人とも何処に行ったんだろうな?」
きょろきょろとあたりを見回して、ソニティアが呟いた。
「さあ?別に私たちには関係ないことじゃない」
「んー、でもさ。昨日のこともあったから、どうしても気になって」
家中探しまわってなお落ち着かない様子の片割れを、ミレイはあきれ顔で見つめた。
放っておけば良いものを。一体何をそこまで気にすることがあるのだろうか。
「ミララ、大丈夫かな……」
『ミララ』またその名前だ。
昨日辺りから、ソニティアの様子はどこかおかしい。その女のことをやたら気にしているし、言動も落ち着かない。否、もっと前からだったかもしれない。何時から、なんてどうでもよいことだが。
「妙に気にするわね、そいつのこと」
「えっ、そうかな?」
ミレイの言葉にソニティアは驚いたような顔をするが、気にしているのはどう見ても明らかだ。本人は気付いてないのだろうか。
「……そうよ」
「いや、だってさ。なんか落ち込んでたみたいだし、助けになってあげたいじゃん?」
ソニィは優しすぎる。
だから、誰かが困っていることを放っておけないのだ。涙を前に、黙っては居られないのだ。
「余計なことかもしれないじゃない。それに、下手に関わりすぎるのもどうかと思うわ」
「そうかな……やっぱ、余計かな?」
優しさは、時に猛毒だ。触れたもの全てを侵すほどの。
だから、私が彼を守らなくてはならないのだ。彼の優しさが、彼自身を滅ぼさぬよう。
「そうよ。だから、これ以上はやめておきなさい」
「うーん……でもさ、やっぱり放っておけないよ、俺」
ソニティアの瞳には迷いはない。彼女の力になりたい。その思いがはっきりと伝わるようだ。
「余計なことかもしれないけどさ、ちょっとでも力になれればそれでいいんだ」
私が居ないと、私が傍で彼を守らないと。そうでなくては駄目なはずなのに。
「ミレイ?そんな怖い顔しないでよ」
ソニティアに言われ、ミレイは自分が鋭い目つきをしていたことに気付いてはっとする。
「ごめん」
「いや、俺こそごめんね。ミレイは俺のこと心配してくれてるんだろ?でも、大丈夫だから。ミレイに心配かけなくてもいいように、しっかりするからさ」
頼もしげにそう告げると、ソニティアはミレイに向かって笑いかける。
「……何言ってんのよ。そういう冗談はもっとしっかりしてから言いなさいよね」
「俺は本気だぞー」
ソニティアは頬を膨らます。
それと同時に、人の気配。遠くから話し声が徐々に近づいてくる。それに気付いたソニティアは途端にそちらへと目を向ける。
「もしかして帰ってきたのかなっ」
そう言うや否や、「様子を見てくる」と落ち着きなく走っていく。
残されたミレイはその背を追うことなくぼんやりと見送った。
遠ざかっていく弟を、引き留めることができなかった。
「……ソニィ」
彼は優しくて、それゆえに強くはなくて。だからこそ、私が。ただ一人の家族である私が、守らなくてはならないのだ。彼の傍にいるのは、私だけで十分なはずなのだ。いままでも、これからも。なのに。
面白くない。
ソニティアが走り去っていった方向、空を睨む。
少しづつ、何かが変わっていく。そのスピードはけして速くはない。だけど、ゆるやかに、確実に。
彼女の声がわずかに震えていたことを、彼は気付かない。
綻んでいく。