あんだんて | ナノ

暗闇ラプソディー

 風が頬を撫でる。すこし、嫌な風だ。生ぬるくて、まとわりつくようで。


「セージ・バルフリーディアという人物を知りませんか?」

 そう言って目の前の青年は優しく笑った。見慣れないはずのその微笑みに、でもなぜだか不思議な既視感を覚える。そして、紡がれたその名前。セージの名前にミララはどきりとする。一体どうして、そんな疑問が浮かぶのと、隣にいたソニティアが口を開くのはほぼ同時だった。

「あんたは、一体?」

 初対面で出会っていきなり人の居場所を尋ねられてもすぐに応えられる訳がない。好意的な声色ではあるが、ソニティアの視線にはほんの少しの警戒心が織り交ぜられていた。それを察したのか、青年は「申し遅れました」と改める。

「僕はイリスと申します。ここには、兄を探しに来ました」

 そう言ってイリスは軽い会釈とともに微笑む。穏やかそうな物腰に、此方を惹きこむようななんとも不思議な雰囲気を纏っている。それはミララの知る人物によく似ていて、彼の示した「兄」という単語がそのすべてを物語っていた。

「この町に音楽家がいるという噂を聞いてやってきたんですが、町の人は彼を知らないようでして。……どうやら、無駄足だったみたいですね」

 ほんの少しうつむいたイリスはとても残念そうだ。
 詳しい事情は分からないが、兄であるセージをさがしてイリスはここまで尋ねてきたのだ。彼の居場所を知っているどころか、一緒に住まわせてもらっているミララが黙っているわけにはいかないだろう。ミララ自身、協力してあげたいと強く思う。しかし、なんだろうか。何かがおかしい。ここでずっと暮らしてきたセージのことを町の人たちが知らないわけがない。一方でイリスの発言が嘘であるようにも思えない。

「ミララ、どうするの?」

 小さいな声でソニティアが耳うつ。彼もまたミララと同じ心境なのだろう。
 どうするべきなのだろうか。そもそも、ミララはセージの事情をなにひとつ知らないのだ。盲目である彼が家を離れてひとりで暮らしている理由も、実の弟にすらその居場所を教えていない理由も。町の人たちが彼の名を知らないことも、今初めて知ったというのに。
 
 セージは、何かを隠しているのかもしれない。
否、隠しているのだろう。こんなに近くにいるのに、ミララは彼のことを何も知らない。


「どうかしました?」

 少し考え込んでしまった。心配そうに様子を伺うイリスの声ではっとする。

「あ、すみません。大丈夫です」

 いろいろ考えを巡らせても、どうすることが最善なのか分からない。第一印象、イリスは悪い人には見えなかった。むしろいい人だとミララは感じる。セージに会いたい一心で、確かな情報もない中ここまで辿り着いたのだ。ここは、彼に協力してあげるべきだろう。

「――イリスさん、私知ってます。セージのこと」

「本当ですか……!?」

 瞬間、イリスの瞳が見開かれる。

「知っているんですか? 兄さんのこと……その、居場所も?」

 驚きと喜びとが混ざった表情。落ち着いたような先ほどの雰囲気とは一変して、華やいだ面持はどこか幼さを帯びたようにも思われる。その様子にすこしだけ圧倒されるが、ミララはうなずいて彼に答える。

「案内して、くれますか?」

 イリスの視線がまっすぐにミララをとらえる。それは真剣そのもの。彼に似た青年に見つめられるのは妙な感覚だ。そこから覗く強い意志に反することなどできるわけがない。

「――はい」

「ありがとうございます……!」

 嬉しそうに微笑むと、イリスはこちらに礼をする。
 そして、思い出したように。

「そういえば、お名前を伺っていませんでした」

 言われてミララもはっとする。すっかり忘れていた。

「あ、えっと。私はミララです。で、こっちが」

「ソニティア!よろしく」

「よろしくお願いします」
 
「ミララと、ソニティアですね。よろしくお願いします」

 二人を交互に見てからイリスが手をさしだす。それを握り返す。細く、冷たい指先だ。


「それじゃあ、行きましょうか」

 言ってミララは歩き出す。次いでソニティアが進み、少し遅れてイリスも後を追う。


「ミララ、ね……」

 前を行く少女の背に、イリスはぽつりと呟いた。




 ミララたちが戻ることにはもう日が傾いていて、木々の隙間から差し込んだ西日が鋭く視界に焼付く一方、その反対側の空は薄紫が浸食し始め夕暮れの境界を作り上げていた。
 なんとなく寂しいのは、いつもの音色が聞こえないからだろうか。
 いつも聞こえるピアノの旋律。それが今日は聞こえない。先ほどの出来事から、正直セージに会うのは少しだけ気が引けた。なるべくならまだ顔を合わせたくはないが、イリスがいる手前そういうわけにもいかない。

 玄関から中に入ると、荷物を持っていたソニティアはそれを置きに向かう。すいぶんと重い荷物を長時間持たせてしまったのが申し訳ない。加えて、別れ際もこちらのことを気にかけてくれていたようだ。その優しさだけで十分ありがたい。

「こんなところにこんな屋敷があったんですね」

 玄関に飾られた彫刻を見上げてイリスが言う。

「私も初めて来たときは驚きました」

 セージの屋敷、ということは彼の実家であるバルフリーディア家の所有物であると思っていたが。イリスの発言からすると彼はこの場所を知っていなかったようだ。自分の家の所有地を知らないというのは俄かに信じがたいがお金持ちの名家のことだ、所有地が沢山ありすぎて把握できていないとかそういうことなのかもしれない。思考をそう結論づけて、ミララはセージのもとへと向かう。音色はしないが、おそらくいつものピアノの部屋だろう。

 廊下を歩いている間、イリスは興味深そうにあたりを見回している。とくに会話もなく、部屋の前に辿り着いてしまった。途端、心臓がどきどきとなり始める。まだ少し、怖いのだ。心の準備が欲しい。そう思うが、その時間は与えられない。

「おかえりなさい」

部屋の中から声が聞こえた。そこにはいつものように穏やかな笑みを浮かべた、セージの姿。

「た、ただいま……」

 なんとなく気まずい。先ほどのことを気にしてそう感じているのはミララの方だけなのだろうか。セージの様子は驚くほどいつも通りだ。

 しかし、そんな彼の表情に微かな変化。ほんの少し、些細な、だけど確かな。驚き、だろうか。否、それだけではない。そこに内包されている感情は……

「イ、リス……?」

 セージの視線はまっすぐ。ミララのその後ろ、イリスへと向けられていた。
 久方ぶりの兄弟の再会。これがよくある映画のワンシーンだったならばとても感動的に描かれたかもしれない。しかし、驚くほど、ミララの目に映った光景はそれとはかけ離れていた。

「兄さん……やっと見つけた」

 積年の思いを晴らしたような、心から喜びに浸るような、恋い焦がれるような。今までミララには見せることのなかった表情で、イリスはゆっくりとセージへと歩み寄る。

「あの日からずっと探していたんだ。会いたくて、話がしたくて……」

 語りかけるイリスに、セージは何も答えない。イリスの様子にも驚いたがそれに対するセージの様子もまたいつもと違うようだった。息を呑んで、ミララはその様子を見つめることしかできない。
 
 そして、ついに放たれた言葉にミララは耳を疑った。

「帰ってください」

 突き放す、拒絶の言葉。
 それを放ったのはセージだった。

「どうして……」

 思いがけないその言葉に、イリスは足を止めた。
 
「僕は、あなたに話すことなどありません。帰ってください」

 いつもと同じで変わらない。穏やかで優しい口調。なのに、そこに見えるのは確かな否定。閉ざされた彼の瞳はまっすぐに目の前の弟を見据えて、そして否定していた。
 あれは本当にセージなのだろうか。優しい彼が誰かを、自分自身の弟をこんな風に突き放すなんて。

「……兄さん」

 呟くようなイリスの声。悲しそうに微笑む彼のそんな呼び声にも、セージの返答は無音だった。

「わかったよ。……また来るね」

 そう言って再びセージに笑いかけると、イリスは踵を返して部屋を出て行ってしまう。

「あっ、イリスさん……!」

 慌ててミララが呼び止めるも、意味をなさない。追いかけようとすると、セージによって呼び止められた。

「ミララ、お願いがあります」

「セージ、なんであんなこと言うの?イリスさんはあなたに会うためにここまで来てくれたのに……」

 ミララはまっすぐにセージを見つめる。だが、瞼の裏のその感情はなにひとつ見えなかった。それどころか、ますます分からなくなる。

「――イリスにはもう、関わらないでください」

「え……?」

 告げられた言葉の意味が、というより、彼の真意が理解できなかった。
 どうして、そうまでして弟である彼を遠ざけるのか。どうして、そんなことを私に言うのか。

「どうして、そんな」

「お願いします」

 冗談で言っているわけではない、セージの様子は本気だった。だからこそわからない。彼の言葉を疑いたいわけではない。だけど、納得ができない。

「そんなこと言われても、分かったなんて言えないよ。理由を教えて」

「理由、ですか?」

 セージの表情に、戸惑いの色が生まれる。
 どうして躊躇うのだろう。

「……今は、言えません」

「――なら、私はセージに従うことはできないよ」
 

 私は、セージのことをなにひとつ知らないのだ。
 違う。セージは私に沢山のことを隠している。笑顔に隠して、なにひとつ教えてくれない。

 その現実が、痛くミララの胸を刺す。


「私、セージがわからないよ……。何も言ってくれなきゃ、わからないんだよ」

 ごめんね。
 そう呟いて、ミララは部屋を後にする。後ろで名を呼ぶ声を振り払って、ぐちゃぐちゃな心中を抱えて。


 少しずつ、距離が近づいて。貴方を知れていると思ったのに。距離が近くなるほど、わからなくなる。知っていくほど、遠ざかる。
 



「ミララさん!?」

 玄関を出ると、そこにはイリスの姿。驚いているのは突然ミララが出てきたことにか、それとも彼女の表情を見てか。

「あ、イリスさん。ご、ごめんなさいこんなみっともない顔……」

 慌てて顔を覆うミララ。イリスは心配そうにミララをうかがう。

「大丈夫ですか?何か、あったんです?」

「いえ!なにもないです。それより、こちらこそなんか……すみません」

「え?」

「私、何もできなくって。イリスさんに、つらい思いさせてしまったんじゃないかと……」

 あの時自分に何かできたなら、こんなことにはならなかったのかもしれない。もしかしたら初めから自分が案内などしなければよかったのかもしれない。そんな後悔の気持ちでミララはいっぱいだった。

 「いいえ、そんなことはないです。むしろ、貴女のおかげで兄さんにまた会うことができました。感謝してもしつくせないくらいです。ありがとう、ミララさん」

「イリスさん……」

 思いがけずイリスの口から出たのは感謝の言葉。予想していなかった言葉に、ミララはほっと安堵する。緊張が解けたのか、先ほど必死に抑え込んだ涙が瞳からあふれてきた。

「あ、ごめんなさいっ」

 困ったことに、ぽろぽろと雫はなかなか収まってくれない。そっとイリスがハンカチを差し出してくれた。

 セージはああ言っているが、ミララにはどうしても彼を否定することが出来なかった。悪い人どころか、その真逆の優しい人ではないか。兄想いの健気な弟、そうとしか思えなかった。こんな人をあんなふうに拒絶するなんて、ますますわけがわからなくなる。

「ミララさん、僕は兄さんと昔のように戻りたいだけなんです。今回は、駄目でしたけど」

 ミララが落ち着くのを待って、口を開いたイリスが寂しそうに笑う。
 彼とセージとの間に何があったのか、どちらが正しいのか、それはミララにはわからない。二人の関係に自分が踏み込むべきではないのかもしれない。でも、このまま何もしないでいることはしたくなかった。自分にできることがあるなら、力になりたい。

「イリスさん、私、協力します。迷惑かもしれませんけど……協力させてください」

「……」

 イリスは驚いたような顔をしてミララを見つめている。余計なことを言っただろうか、そんな不安がよぎるも、すぐにその表情は笑顔に変わる。

「ありがとう。ミララさん!あなたが協力してくれるなら、心強いです」 

「良かった……!」

 イリスは喜んでくれているようで、ミララはほっとする。目を細めて笑う姿はセージにそっくりだなと思う。

「日も暮れてきたことですし、今日はもう帰ります。ミララさん、本当にありがとう」

「いえ、こちらこそ」

「また来ますね。その時は、いろいろとお話させてください」

「はい!」

 最後に一礼すると、イリスは町の方へと歩いて行った。
 その後姿が見えなくなるまで見送って、ミララはこれからを考える。


 今は、セージには会いたくない。混乱した思考が落ち着くまで、もうすこしこのまま外に居ようか。あんな風に出て行ってしまった手前、家に戻るのもなんだか嫌だった。他に帰る場所がない以上どうすることもできないのだが。

 空を見上げる。生い茂った木々の隙間から、真っ黒な世界と揺らめく星が見えた。あの星から見下ろせば、こんな感情などちっぽけなものなのだろうに。小さなこの身体には、重く大きくのしかかる。
 ピアノの音色は今も聞こえない。思えばあの音色は私を導いてくれた月明かりだったのかもしれない。旋律に導かれて、私はここにたどり着いたのだから。

 まっくらな闇の中だけでは、何も見えない。だけど、だからといっていつまでも途方に暮れているわけにもいかないのだ。
 私は私の意志でここにいることを決めたのだから。導かれるのを待っているだけではきっと駄目だ。たとえ照らす明かりがなくとも、進む道は自分で切り開かなくては。
 
「それにしても、何も言ってくれないセージもセージだわ……」

 時間が経って少しだけ思考が落ち着いてきた。そうなると、今度はセージの態度への不満が込み上げてくる。何も言ってくれない癖に、自分の言うようにしてほしいだなんて勝手じゃないか。

「理由を話してくれれば、わかることだってあるのに」

 どうして彼は何も話してくれないのだろう。自分に信用がないのだろうか。そうだとしたら少しだけ、いや、なかなかに落ち込む。
 
「ちょっとは、近づけたとおもってたのにな」

「なにぶつぶつ呟いてんのよ」

 突然だった。空を仰ぐミララの、その背後から声がする。

「ミレイ?」

 驚いて視線を向けると、腕を組んだミレイが呆れたような視線をこちらに送って立っていた。
 
「ソニィがあんたのこと気にしてたから。仕方なく探してみれば……こんなとこでぼーっと突っ立って、馬鹿じゃないの?」

 ため息交じりのそっけない口調。家に戻らなかったことを心配してくれたのだろうか……と思ったが、彼女の表情からはそのような感情は伺えない。発言の通り、ミララへの心配はこれっぽっちも抱いていないようだ。いらぬ手間をかけさせるんじゃないわよ。そう言いたげな視線が鋭い。

「何があったかは知らないけど、ソニィに余計な心配かけさすんじゃないわよ。まったく」

「あ、ごめん……。心配かけちゃって」 

「別に、私はこれっぽっちも心配なんてしてないわよ」

 ふい、とミレイは顔を背ける。
 ここまで来てくれたことは嬉しいが、その言葉が本心だとしたら複雑だ。ミララは苦笑する。

「ほら、帰るわよ」

 そう言うと、ミレイはミララに背を向けて歩きだす。
 それについて帰るべきか、ミララは一瞬躊躇う。

「どうしたのよ?」

 その様子を疑問に思ったのか、ミレイは不思議そうに此方を眺める。

「いや、ちょっとね……」

 心中をさまざまな事がよぎる。このまま戻っても、いつもどおりに出来る自信はない。複雑な気持ちを抱えたままでは、きっとまた上手く話すことが出来ないだろう。そんな思いが、ミララの足を止めた。
 そんなミララをミレイは怪訝そうに見つめる。

「何をうだうだ考えてるか知らないけどね、ここに居たってなんも解決しないでしょうが」

「えっ……?」

「というか、私にとっても迷惑なの。見つけたのに置いてきたなんて言ったらソニィに顔向けできないし。悩んでるのは勝手だけど、それは誰にも迷惑かからない場所でやってよね」

 発言をオブラートに包む気はないらしい。ばっさりと言いきってミレイは鋭い視線をこちらに向ける。

「いい?」

「……でもっ」

 言い方こそ棘があるが、ミレイの言うとおりだ。ミララは思う。自分の行動が彼女やソニティアの迷惑になっているのだとしたら嫌だ。しかし、それでもミララの迷いは消えない。

「私だって、時間がほしいの。いろいろ、自分の中で整理したいの。だから、ひとりになりたかったんだし……」

 ミレイから視線を逸らす。目を合わせていたら、このままミレイの勢いに圧倒されてしまいそうだったからだ。 
 どうするべきか。気持ちの整理がまだ出来ていない。今のまま、自分がどうすべきか解らないでいるままではきっとなにも見えないまま終わってしまう。

「そんなの知らないわよ」

「な……っ!?」

「あんたの都合なんてしらないわよ。それに、ひとりで考えてなんとかなるわけ?」

「……」

 ミララは言い返すことができない。ミレイの言うとおり……かもしれない。自分一人で何とかしたい。そう思うが、果たしてそれが上手くいくかはわからない。

「あの男の事でしょ?」

「えっ?」

「なら直接聞けばいいじゃない」

「でも……」

「一度くらいで諦めてんじゃないわよ。ちゃんと話してみれば?」

 見事に全部お見通しである。まるではじめからわかっていたかのように、揺れていたミララの心をぴしりと叩く。
 彼女の言う事も一理あるのかもしれない。

「ちゃんと、話してくれるかな?」

 もう一度きちんと向き合えば、何か変わるだろうか。

「さあ。そんなこと、私が知るわけないじゃない」

 相変わらずのそっけない声色で、ミレイはふいとあさっての方を向く。
 
「――ありがとうね、ミレイ! わたし、もう一度ちゃんと話してみるよ」

 そのまま歩きだしたミレイの背にミララは叫ぶ。
 返事は返ってこないが、その背中を追いかける。


 明日、もう一度ちゃんと話してみよう。もう一度聞いてみよう。
 そして、ちゃんと知りたい。知って、解って。どうするかはそれからだ。


 
 大切なことはまだ見えない。それでも、進もう。少しづつ、響き始めた音とともに。
 夜風がやさしく、ミララの頬を撫でた。