あんだんて | ナノ

4

 ◆


 伸びきった草木が足を絡め取るように、進む行く手を遮る。思うように進まない足取りは、それだけのせいではないことはわかっていた。
 町中からすこしだけ奥へと進んだところにある小さな森の中。木々の隙間にひっそりと佇むように。朽ちた灰色の外壁が見えてきた。今や誰も立ち入らない、忘れ去られた教会。
 なだらかな丘陵の形をした建物、その中央には塔がそびえ立ち。まっすぐに天へと伸びた尖塔には十字架がかかげられている。塔の下部にはアーチ状の入り口が構えられており、その周りをトレサリーが美しく飾る。
 かつて町の人の祈りを受け入れ、燦然たる光のもと純白の輝きを放っていたその姿は、長い年月に風化し今や見る影もない。

「立派な建物ですね。こんな森の中に隠されているなんて、勿体ないと思うくらいです」

 かつての姿に想いを馳せ、イリスが感嘆の声を漏らす。
 それを隣で聞きながら、ミララは一層激しさを増す痛みを必死に堪えていた。息が苦しい。気を抜けば意識すら遠のいてしまいそうだ。
 イリスはその足を教会の入り口へと進めていく。ドアも老朽化が進み、あちこち塗装が剥がれて木がささくれていた。取っ手に手をかける。鍵はかけられていないようだった。迷うことなくイリスは腕に力を込める。ギギ、軋んだ音をたててゆっくりと扉が開いていく。
 礼拝堂の奥へ進んでいくイリスを追って、ミララも意を決して中へと踏み込んだ。埃っぽさと黴のにおいが混ざったじめじめした空気が鼻をつく。
 外側と同様に内側も老朽化が進み、まっすぐと伸びたカーペット、その先に続く祭壇。規則正しく並べられた木の椅子や、鎮座する鈍色のパイプオルガン。そのすべてがぼろぼろに朽ち果てていたのだが、入り口の真正面にそびえる天使の意匠が描かれたステンドグラスや、上空にあるいくつもの窓が光を取り込んで、驚くほどその中は明かりに満ちていた。

「外観だけでなく、中も美しいですね。使われていないのが不思議なくらいです」

 イリスは興味深そうに周囲を見回している。その声が、高い天井に反響する。
 めまいがするようだった。ここに居たくない。震える身体がそう訴えている。

「一体、ここで何があったんですか?」

 どくん、ミララの心臓が大きく跳ねた。イリスの声が近くに、遠くに聞こえる。解けぬように固く結んだ記憶の糸が、ゆっくりと綻んでいく。

 ――だめ、思い出してはいけない。

 口の中が急速に水分を失っていく。警鐘の音が、頭の中でがんがんと響く。
 呼吸の仕方がわからなくなり、息苦しさに喘ぐ。

「ねえ、教えてください。ミララさん」

 イリスの手が、肩に振れる。痛みを感じるほどの力強さに、朦朧としかけた意識が呼び戻される。

「……あ、」

 乾いた唇が、うまく言葉を紡げない。
 あの日と同じ、この場所が、この空間が、心を、身体を、きりきりと締め上げていく。
 イリスのまっすぐな視線が、射抜くようにミララの瞳を覗いていた。そこに潜む、深淵よりも深い闇に、どろどろになった得体の知れない何かに、背筋が凍り付いた。

「あの日……」

 ゆっくりと、ミララの唇が過去を紡ぐ。うわごとのように、懺悔のように。
 頭の中で鐘の音が響く、ずっしりと重たい痛みが共鳴して思考にノイズを生む。混濁した記憶の断片が、フラッシュバックしてあの日の情景を呼び覚ます。

 響く銃声。
 鳴り止むメロディ。
 暗転する世界。
 悲鳴にも似た人の声。
 
 ――頭が、痛い。

 現れた大きな影。
 ぎらりとひかる、ナイフ。
 振りかざされたそれは、まっすぐに、わたしを……

「――っ、」

 息が苦しい。呼吸の仕方が良くわからない。
 身体の震えを抑えるように、ミララは自らの両腕で肩を抱く。
 こぼれ落ちる記憶は、間違いなく自らの記憶。間違いない、あの日の記憶。

 真っ赤な血が、教会の床を染め上げていく。
 その真ん中で私はうずくまって。どうしようもなく、この身を引き裂くほどの痛みに溺れて、そして……
 
 ――違う、違う。そうじゃない。

 違う? 違うはずがない。この身刻まれた痛みも、恐怖も。否定することが出来ない確かな真実だ。
 そのはずなのに、どこかから声がする。何かが違うと否定する。

 ――思い出して。
 ――思い、出さないで。
 
 思い出す?
 一体何を?
 これは正しい記憶、確かな真実。ならば、これ以上何を思い出す必要があるだろう。一体何があるというのか。

 ――わたしは、なにか、忘れている?

 頭が痛い。自らの唇からこぼれ落ちた支離滅裂な言葉がはたして何を紡いだのか。もやがかかった思考では、それすらよくわからない。



「それが、ここであったことのすべて?」

 夜闇に凪いだ海のような、静かな声だった。
 感情は一切見えない、ひどく冷たい抑揚のない音。暗闇の中に秘されたものの正体。それがわからないことが、ぞくりと背筋を凍らせた。

「……はい」

 ミララは頷いた。
 それから、僅かな沈黙。不気味なまでに静かな数秒。おそるおそる、ミララはその表情を覗こうとして、そして、息を飲んだ。

 目の前に、無機質な穴がぽっかりと空いていた。
 吸い込まれ、落ちていきそう。ふと、そう思った。鋼鉄色の闇は、イリスの腕からまっすぐにこちらへと掲げられていた。
 それが銃口であると理解するのに、時間はかからなかった。

「イ、リス……さん?」

 さあ、と血の気が引いていく。何が起こっているのだろう。事態がうまくのみこめない。ただ、力なく漏れだした声が無意識にイリスの名を紡いでいた。
 
「……ふざけるなよ」

 イリスが微かに声を震わせた。鼓膜を震わせるにはあまりに小さな声。けれどはっきりと、ミララの耳には聞こえた。

「そんなはずがないだろう!」

 一転、雷轟を思わせる激しい激情が閃いた。
 ミララの肩がびくりと跳ねる。
 それすらも恨めしそうに、イリスは目を見開いて、感情のままに声を上げた。

「そんなはずがないんだ! どうしてそんな風に語れる!? 自分だけが傷ついたみたいに! 当たり前のように、なかったことにできるんだよ!」

 濁流のように押し寄せる感情。今まで見てきた穏やかで繊細な彼からは想像できない、はじめてみる姿だった。嵐のように暴力的で、うねる大波のように破壊的。取り繕う事をやめた、裸のままの言葉。
 凶器の形をしてミララへと突きつけられているのはむき出しの感情、煮えたぎる憎悪だった。

「イリス、さん……一体、どうし……」

 パアン。
 どうして、そう問いかけようとしたミララの言葉は乾いた銃声によってかき消された。
 放たれた銃弾は上空へと吸い込まれ、天を仰いだ銃口からはゆるやかに白煙が登る。身体の力が抜け、ミララはその場へとへたり込んだ。

「どうして? ハッ、ふざけるなよ。それはこっちの台詞だ。どうしてお前はそんな風にのうのうと生きていられたんだ? すべてを忘れて、何も知らない顔をして。どうしてそんな風に生きていられる?」

 上空へと掲げられていた右腕を、イリスは再びミララへと向けた。

「本当に、忘れたのか? お前は、彼を……! オリファのことを!」

 どくん。心臓が飛び跳ねる。
 オリファ。どうしてその名前が出てくるのだろう。わからない、しらない。わたしは、彼のことなど、なにもしらない――。
 ぐるぐると巡る思考は、答えを見いだせずに混濁していく。
 
「どうして……どうして! 忘れられるんだ! 僕から、兄さんから彼を奪っておいて、どうしてそんな風に何も知らないなどと言えるんだ! 無知を装って被害者面して、胸くそ悪いったらありゃしない」

 見下ろすイリスの視線に、ミララは思わず後ずさった。その瞳には、怒りも、妬心も、執着も、憎悪も、すべて超越した果ての闇。ただそれだけが広がっていた。それはおおよそ人に向けられるものではない。駆除すべき害悪へと向けられるもの。
 ぞくり、言いしれぬ恐怖がミララの全身を支配する。逃げなくては、そう思うのに身体がまったく動かない。
「う、嘘……ですよね……? イリスさん……」

 震える声に、イリスの広角が歪んだ。

「嘘なものかよ! 僕はお前が憎かった! ずっと、ずっとずっとずっと! 殺してやりたかった! そんな気もしらないで、馬鹿みたいに僕のこと信用してさ! 力になりたいだなんて抜かして、ほんと、可笑しいよね! 愚かしさに、笑いがとまらないよ」

 肩を震わせてイリスは笑う。まるで狂ったかのように笑い続け、そして何の前触れもなく、ぴたりと止まる。

「――だから、さ。今ここで殺してやるよ」

 ミララは追いつめられる。ついにイリスとの距離がゼロになる。

「そう、思ったんだけどね。ただ殺すんじゃ、おもしろくないでしょ。だから、利用してあげるよ」

「何を……きゃ!」

 銃を右手に構えたまま、イリスは乱暴にミララへと覆い被さる。

「お前のすべてを踏みにじって、ぼろぼろのぐちゃぐちゃにして、絶望のなかで自分の人生を呪わせて、それから殺してやる。お前なんかを大切にしている、兄さんのためにもさ。大切なお前が、他でもない僕の手によって蹂躙されたことを知れば……兄さんは僕を恨んでくれるだろう? そうすれば、兄さんは僕をみてくれる! 憎しみという感情でもって、僕は兄さんと今よりもっと、もっと深く繋がれる……!」

「い、や……!」

 イリスの言葉が、何一つ理解できなかった。だが、抵抗しようにも身体の力がうまく入らない。喉元の銃口が、いつこの身を貫くかもわからない。その恐怖が全身を蝕み、陵轢を拒むことができない。助けを求める声すらも、萎縮した喉からは絞り出すことが叶わなかった。
 

 ◆


 あの子、一体どこに行ったのよ。
 時間がたつにつれ、焦りが苛立ちへと変わっていくようだった。ミレイは足早に、まばらになりつつある人影の中を歩く。
 ソニティア達と分かれてから暫く町の至る所を虱潰しに探しまわっていたのだが、ミララが見つかるどころか手がかりすらも手に入らない。一体どういうことなのだろう。

 ――そもそも、なぜわたしがあの子のためにここまでしてやらなくてはならないのか!

 そう思うと、苛立ちをはっきりとした形でもって認識できるようになってくる。もう、帰ってしまおうか。そう思ったときだった。

 ――……

 微かに、空気の震える音がした。
 聞き間違えかもしれない。けれど、妙に心がざわつく。心臓をくすぐるような不快な破裂音。こんな町中にあっていい音ではない。

 嫌な予感がする。
 ミレイは走り出す。どこだ、一体どこから聞こえてきた。
 微かに残った余韻をたぐり寄せるように意識を集中させる。五感を研ぎ澄まして、目に見えない微かな綻びを探り当てる。
 
「こっちか!」

 鼻孔に僅かに絡めた、燻った臭い。間違いない、硝煙の臭いだ。
 平和な町に似つかわしくない、喧騒の兆し。それを追いかけて、ミレイは町外れの雑木林をかき分けていく。
 足に絡む伸びきった蔓草を引きちぎりながら進んだ先に、ひっそりと隠れるようにして廃墟が佇んでいた。かつて、教会であったのだろう名残が僅かに残る、その朽ち果てた建物は確かにミレイがつかみ取った喧騒の糸の発信源で間違いないようだ。
 はっきりとわかる、火薬の香り。それに混じって、血のような臭いも感じる。中で、なにかが起こっている。ミレイは息を潜めて、けれどなるべく素早くドアへと駆け寄る。

「――! ――――!」

 耳を傾けると、中から人の声が聞こえてくる。その内容までは聞こえないが、ただならぬ様子であることはわかる。
 
「――い、や……!」

「!」

 間違いない、ミララの声だ!
 ミレイはドアを開けて中へと入ろうする。しかし、鍵がかかっているのだろう、どれだけ力を込めても、ドアは開く気配すらみせない。
 助走をつけて体当たりをしても、足で蹴破ろうとしても結果は変わらない。

「くそ……」

 どうすれば、このままではミララが危ない。
 逸る感情を必死で宥め、打開策を探す。辺りになにか使えるものがないか。見回していると、大きなステンドグラスが目に入った。
 これなら――!
 ミレイは建物から距離をとると、地面を蹴って走り出す。見据える先は、林立する木々の中で、一際高くそびえる一本。助走で得た勢いのまま、ミレイはまっすぐ大木へと走る。そして、その距離が寸前に迫ったところで、思い切り地面を蹴りつけて跳躍する! 浮き上がった身体は大木の幹へと跳び、さらに彼女は振り上げた左足で幹の側面を蹴りつけ、勢いのまま上方へと前進する。
 一歩、二歩、三歩――幹を蹴り付け駆け上ったミレイは、身体をくるりと逆方向へ捻る。そして、四歩目、今まで以上の力で思い切り踏み込んだ足は、大木という砲台から彼女の身体を思い切り打ち出す撃鉄となる。

「はああああ!」

 離れた弾丸はまっすぐにステンドグラスをめがけ、そして描かれた意匠すべてを打ち砕き、教会の中へと吸い込まれていった。


 ◆


「……っ、や……嫌……です、やめて……」

 喉からこぼれるのは意味のをさない力のない嗚咽だけ。
 抵抗の言葉も虚しく、はだけた衣服の隙間に覗く肌にイリスの指が滑る。

「大人しくしてよね。まだ、こいつで撃たれるのは嫌でしょう?」

 視界に銃口をちらつかされ、身動きがとれない。どうにかしないと、このままでは取り返しのつかないことになる。わかっているのに。自らを組み伏せる男の腕から逃れることができない。

「……っ」

 びくり、ミララの身体が跳ねる。
 イリスの指が、蛇のようにミララの身体を這う。首筋から鎖骨を撫で、舐めるように、焦らすように。その輪郭をなぞって、腹部へと。そして、薄い布で隔てられた胸部へとその手が伸ばされようとして――止まる。

「は?」

「……?」

 突然あがった声は、酷く間の抜けたものだった。訳が分からず戸惑いながら、ミララはイリスを見上げる。

「なんだよ、これ。どうして、こんなものがお前にあるんだよ」

 こんなもの。そう言ってイリスが当惑の色と共に瞳に映したものは、ミララの腹部にある、小さな古い傷だった。
 まるでナイフで刺された痕のような、数センチ程度の傷。

「あの時刺されたのはオリファだ。お前じゃない。そのはずだ。なのになんで、お前にこんな傷があるんだ」

 そんなはずが、ない。
 イリスは小さく狼狽し、頭を抱える。その時だった。

 ガシャァァァン――!

 大きな音をたてて、ステンドグラスが崩壊していく。赤、青、橙。鮮やかな硝子が破片となって降り注ぐ中、一人の少女が降り立った。そして――

「あんた……なにやってんのよ!」

 落ち行く破片が地に落ちるよりも早く跳躍すると、イリスの頬を思い切り殴り飛ばした!

「ぅ、ぐ……!」

 殴られたイリスの身体は容易くその勢いに吹き飛ばされる。それが地面に転がるのを確認することもせず、ミレイはミララへと駆け寄った。

「ミララ! 大丈夫!?」

「ミ、レイ……」

 ミレイの姿を目にして、張りつめていた心の糸が解けたようだった。身体から力が抜け、同時に安堵と恐怖でがくがくと震えが止まらなくなる。
 もう大丈夫よ。ミレイは一度だけ強く、ミララを抱きしめると、着ていた上着を脱いで彼女の肩に掛けてやる。

「お前、自分が何をしたか、わかっているのか!」

 夜叉と見紛う形相で、地面に座り込んだままのイリスを見下ろす。一方でイリスは、憮然とした表情で口元の血を拭った。

「何もしてないよ。まだね」

「貴様……!」

 イリスは手にした銃を再び構えようとする。それを察知したミレイは瞬きの速さでイリスのもとへ詰め寄ると、その指が引き金へと伸びる前に掌ごと銃を思い切り蹴り上げる。

「……っ」

 衝撃に、イリスの手から離れた銃が空中へと放り出される。歪んだ顔に、間髪入れず回し蹴りを叩き込む。
 一切の加減のない一撃に、イリスの身体は回転しながら地面へと叩きつけられる。彼が倒れたことをみて、ミレイはミララのもとへ走ると、その手を引く。

「立てる? 今のうちに逃げるわよ」

 ミララはこくりとうなずいて、ミレイに身体を預けるように立ち上がる。足取りは覚束ないが、かろうじて走ることはできそうだ。
 椅子の間を抜けて、扉へと向かう。扉の取手の間には棒が挟まれていて、これが鍵の変わりになっていたようだ。ミレイはそれを外すと、ドアへと力を込める。鈍い音と共に、外の光が射し込んでくる。
 
「さあ、行くわよ」

 そう言って、再びミララへと手をさしのべようとした時だった。

 パアン――。

 乾いた音が響いた。
 ミララの目の前で、赤い色が迸る。
 イリスの放った弾丸が、ミレイの肩を穿つ。
 ぱたた、滴り落ちた血がくすんだ木の廊下を鮮やかに染め上げた。
 どくん、心臓が大きく跳ねた。
 
「――――」

 フラッシュバック。

 響きわたる銃声。
 メロディは止まる。
 世界はぐるりと暗転して。
 だれかの悲鳴が聞こえる。

 そして。

 赤く、赤く染まっていく。
 願いは叶わず、とめどなく流れる血は止まらない。
 真っ赤に染まった世界。その中心に横たわるのは――

「いや……いやあああああああ!」

 叫び声が聞こえた。喉が引き裂かれんばかりの、鮮烈なる悲痛。
 ああ、これはわたしの声だ。
 どうして、わたしは。こんなにも、大切なことを忘れてしまっていたのだろう。

「っ、ミララ! しっかりして!」

 遠くで、ミレイの声が聞こえた。
 何度も繰り返されるその声が、次第に小さくなっていく。
 ぷつん、糸が切れたように。ミララの意識は深く水底へと沈んでいった。