あんだんて | ナノ

2

 ◆

 カランカラン――
 軽やかなベルの音が、開かれたドアとともに奏でられる。それとともに、ふわりと漂う芳醇な珈琲の香りが鼻孔をくすぐった。

「いらっしゃいませ。あら、ミララさん。今日は珍しい方とご一緒なんですね」

 こちらもすっかり顔見知りになった店員が来店に気付いて駆け寄ってくる。

「席、あいているお好きなところへどうぞ」

 店内を見回すと、朝市の開催もあってか人気はほどんどない。適当な近場の席に腰掛けると、すぐに店員がグラスを運んできてくれる。

「こんな所、町にあったのですね。知りませんでした。とても良い珈琲の香りです。心を落ち着けるには良い場所ですね」

「そうなの。すてきなところでしょ? それに飲み物もお料理もとってもおいしいの」

「はい、とても。よくここに来るのですか?」

 なんて事の無いはずの質問に、どきりとしてしまう。
 イリスとここに来たことがあるなんて、口が裂けても言えない。彼と関わるなとセージに言われている以上、それを無視して何度も顔を合わせていることは絶対に秘密なのだ。
 
「あ、うん。お買い物の後とか、たまに!」

「そうですか」

「何か頼もうか! セージ、なにか食べたい物とかある? ここのおすすめはね――」

 メニューを読み上げて気を逸らす。大丈夫、普通にしていれば怪しまれることはない。幸いにもセージはそれ以上追求をしてくることはしない。うまく誤魔化せたようだ。内心でほっとする。

「僕は飲み物だけでいいですよ。紅茶の種類は何がありますか?」

「そう? えっとね……」

 メニューの中から紅茶の欄を探す。ダージリンやアールグレイ、アッサムなどたくさんの名前が並ぶ。いったいセージは何を選ぶのだろう。その選択を楽しみに待ちながら、紅茶の種類を読み上げていく。
 このお店は茶葉や珈琲豆の販売もしているので、帰りに何点か買っていくのもいいかもしれない。お家にあるティーポットで、小さなお茶会を開くのだ。ミレイやソニティアも誘って、お菓子をみんなで食べて。考えるだけでわくわくしてくる。そういうのも、きっと悪くないだろう。

「それでは僕はダージリンにしましょうか。ミララはどうします?」

「そうだなー……」

 ミララは頭を悩ませる。ここの喫茶店は本当にどのメニューもおいしい。どれを選んだとしてもはずれはない。だが、ミララには密やかな目標がある。毎回違う物を頼んで、すべてのメニューを制覇するというものだ。そんなわけで今日も新たなメニューへの挑戦をしようと思うのだが、あいにくお昼前という微妙な時間である。あまり食べ過ぎるわけにはいかない。

「うーん」

 うなるほど真剣なミララの様子に笑い声が漏れる。
 前を見やると、なんとも微笑ましげな笑顔でセージがこちらを見つめていた。気付いたミララはとたんに恥ずかしくなる。

「ごめんね! 迷っちゃって」

「いいえ。存分に迷ってください。そんなミララの様子を見ているのも楽しいものですから」

「もう……」

 だから、どうしてこの人は平然とそんな台詞が吐けるのだろう。本人にしてみればとりたてて深い意味は無いのかもしれないが、こちらの心境は穏やかではない。
 静かなカフェ。二人きり。テーブルで向かい合う。
 ここに来ようと誘ったときにはなんとも思っていなかったのに。まるでなんだかデートみたいだ。気恥ずかしくなって、食欲はどこかへ引っ込んでしまう。心臓がどきどきして、そわそわと落ち着かない。

「わたしもセージと同じにしよう! すみませーん!」

 早急にメニューを決めて、店員を呼ぶ。静かな店内は静かだ。それほど大きな声を上げずとも店員には気付いてもらえるのだが、すっかり動転してしまったミララはそんなことは気付かない。
 注文をすませて数分。テーブルに紅茶が運ばれてくる。
 鼻孔をくすぐる、洗練された芳醇さ。すっきりとしていて、それでいて奥が深い、すうっと心まで落ち着くような茶葉の香りは、優雅なティータイムにすてきな彩りを与えてくれる。

「うん。香りもよく、茶葉の風味が生きています。いい紅茶ですね」

「そうだね」

 満足げなセージの様子に、よかったと嬉しくなる。

「こうして二人でティータイムなんて、久しぶりですね」

「そうだね。ミレイとソニィが来てから、二人でっていうのはなかったかも」

 紅茶の優しい香り。溶かした砂糖のほのかな甘み。年代物の蓄音機が奏でる、ゆるやかな音楽。
 この時間が特別な物のように思えるのは、心を安らげてくれる喫茶店の雰囲気のせいだろうか。それだけではないことは、この場所に何度か通っているミララには分かりきたこどだった。
 すべて、彼がいるから。こんなにも心が忙しないのも、入れすぎてしまった砂糖が紅茶を甘くしていることも、まっすぐに前を見ることができないことも。
 すべて、セージと一緒にいるからなのだ。

「うれしいな……」

 思わず口を出た言葉は、驚くほど素直な感情だった。恥ずかしくなって、紅茶を一口。

「ふふ、僕もうれしいです」

 柔らかな微笑み。とくんと、心臓が高鳴った。
 あたたかくて、くるしくて。せわしない鼓動は、心の音色。
 頬が熱いのも、幸せだと感じることも、紅茶のせいだけじゃない。
 この感情の答え、それは――

「ミララ」

「はい!」

 突然名前を呼ばれてはっとなる。少し考えに浸りすぎてしまっていたようだ。
 向き合ったセージの表情が思いの外真剣なものだったから、余計にどきりとする。
 さっきまでの穏やかな時間が一変するのを感じた。それは彼女にとって好ましい空気感ではなく、むしろその逆のものだった。突如漂う緊張感に、身が引き締まる。

「どうしたの……?」

「すみません。せっかくゆっくり話をできる時間を頂いたので、少しばかりお話をさせてください」

 改まって、いったいなんだろうか。

「以前、話をしましたよね。歌って欲しい歌があると」

「う、ん」

 うなずいたミララの声が震えた。
 紅茶の熱が急激に冷めていく気がした。どうして今、その話をするのだろう。

「すみません、突然でしたよね」

 すまなそうな声とは裏腹に、セージは話を止める気はなさそうだ。いつもの彼ならば、ミララの声のちょっとした機微から感情を感じ取って、話を避けることは容易いはずなのに。

「歌うことができないと。以前、この話をしたときそうおっしゃいましたよね。もちろんそれを忘れたわけではありません。これが無理なお願いであることもわかっています。それでも、僕は諦めきれないのです」

 ずきん。
 突然わき上がった痛みに、ミララはぎゅっと唇をかみしめる。

「オリファの曲、あの歌を紡げるのは貴女しかいないと思っています」

「そんなの、買いかぶりすぎだよ」

 いいえ。セージは首を振る。

「僕は知っています。貴女の声の美しさを。どこまでも透き通る、清らかな水面のような歌声を」
「どうして……」

 どうしてそんなことが言えるのか。あんなに心地よかったこの場所が、逃げ出してしまいたいほどに息苦しい。

「ごめんなさい。やっぱり、わたしには……」

 できない。わたしは歌えない。
 あの日、海風の香る墓標の前で交わした約束。彼の思いに応えたい、それはミララの心からの思いでもあった。あのときはなった言葉は嘘ではない、嘘にしたくない。
 けれど、けれど……。

「わたし、ね。怖いの」

 うつむいて、ミララはぎゅうっと瞳を閉じる。途方のない息苦しさ。頭が重い。軋んだ音を立てて、胸の奥底にしまいこんだ記憶の扉が開こうとする。
 ああ、いやだ。思い出したくない。
 そう望んでも、朽ちた錠はその役割を果たしてはくれない。息が苦しい。

「――むかしね、大好きだったの。歌うことが」

 苦しさからのがれるように、こみ上げてくる言葉を吐き出す。霞がかった意識の中から、途切れにされた記憶の断片を語る自分の声が響く。

「幼馴染みがいて、彼が私にいろんな事を教えてくれて。歌うことも、その一つだった」

 ノイズにまみれたモノクロの景色が、瞼の裏によみがえる。

「私の歌が好きだと言ってくれて。それがとてもうれしくて、歌うことが大好きになって。毎日がきらきらと輝いて、幸せで……」

 遙か彼方、遠い日々の記憶。波の音と太陽の輝きに彩られた、宝石のような日々。
 けれど、それはもう戻らない。

「みんなの前で歌を披露しようって言ってくれて、小さな教会をステージに、発表会を開くことになって……がんばって練習したの。ありがとうって、気持ちを伝えたいと思って。でも……」
 

 言葉に詰まる。いつの間にか握りしめていた掌が、かたかたと震えていた。
 苦しい。どうしてこんなに苦しいのだろう。呼吸の仕方がわからなくなる。水中の中でもがくようだ。
 
「発表会の、日……。事件があって……」

 ずきり、お腹に鈍い痛みが走った。

「目の前に刃物があって、それで、わたし……ッ」

 フラッシュバック。
 
 ざわめき。悲鳴。
 染まる、赤――

「ミララ」

 落ち着いてください。
 柔らかな声に、力強いぬくもり。パニックに陥りそうになったミララをの掌をセージが掴んだ。

「はあ……はッ……」

「大丈夫ですか?」

 荒い呼吸を繰り返す中で、セージの声が聞こえる。 
 返事をしようにもうまく声が出せない。
 顔面蒼白のまま、ミララはこくりとうなずく。 

「ゆっくり息を吸って、そう。そして吐いてください。……落ち着きましたか?」

「ごめ……なさい……、わたし……」

「いいえ。こちらこそ、申し訳ございません。辛いことを思い出させてしまったようですね」

「ううん」

 ミララは首を振る。
 セージが気にすることではない。
 呼吸が落ち着いて、幾分か気分も楽になってきた。
  
「ミララ」

 触れたセージの掌に強い力がこもった。
 突然のことに、そして込められたあまりにも大きな力に、ミララは驚き眉を表情をゆがませた。
 視界に移るセージは微笑んでいた。しかし、その手に込められた力は余りに強く、まるでミララを逃すまいとするかのようで。

「セージ?」

 おそるおそる、ミララは名前を呼ぶ。
 そうしてやっと開かれたセージの唇から紡がれた言葉は、耳を疑う物だった。

「それは、違います」

「え……?」

 その言葉の意味が全くもってわからなかった。
 ミララは呆然と、セージの変わらない表情を見つめる。

「どういう、こと?」

「そんなはずはないんです――」
 
「わたしが、嘘をついてるって言いたいの……?」

「……」

 帰ってきた返答は沈黙。セージは何も応えない。
 それが肯定を意味するということを、ミララはすぐに理解した。

「どう、して……?」

 声が震える。

「歌いたくないから、嘘をついてるって……そう、言いたいの?」 

 ずきり。
 再びよみがえる痛み。
 刻まれた深い傷。それはすべて悲痛なほどに深く、確かにこの身に刻まれている。すべて夢であれば、嘘であれば。そう願って止まなかった。くるしくてくるしくて、忘れてしまいたくて。けれどできなくて。少しずつ受け入れて、やっと背負うことができたというのに。
 
 
「そういうわけではないんです。ですが、それではおかしいんです」

 ――どうして、そんなことをいわれなくてはならないのだろう。

 簡単に否定することが、どうしてできるだろうか。
 この痛みも、苦しみも、その瞳には映らないというのに。

 ――何も知らない、あなたに!

「セージに、何が分かるっていうの?」

 ずきり。とうに癒えたはずの傷が脈打つように痛む。
 触れていたセージの掌が離れていく。強い力から解放され、同時に熱を失った掌が急激に寒さを覚える。

「……」

 セージはなにも言わない。

 ――ああ、そうか。
 気付いてしまった。そうか、そういうことだったのか。
 冷めていく。鮮やかだった景色が、急激に色あせていく。 
 ――彼が、私を側に置いていてくれた理由。
  
 勘違いして。舞い上がって。ばかみたいだ。
 セージはただ、私の歌を必要としていただけなのだ。
 親友の作った歌を完成させる。わたしはそのための、ただのパーツにすぎなかったのだ。
 ガタン、勢いよく椅子が動く音がした。
 衝動的に立ち上がったミララがたてた音だった。

「――ごめん、ちょっと外の空気をすってくる」

 そう言い残して、ミララは走り出す。
 もうあの場にはいたくなかった。セージという存在が、これほどまでに遠く、理解しがたいものに感じられたのは初めてだった。
 飛び出したミララは驚く店員の顔や、開け放たれたドアの勢いで鳴る乱暴なベルの音など見向きもせずに。ミララは走った。
 湿気た外の空気が吸い込んだ胸にこびりつくようだ。あれほどまでに晴れ渡っていた空は、いつのまにか見る影もなくなってしまった。
 ミララは走る。すれ違う人々に肩が触れる事にも気付かずに。
 どこへむかっているのかも、どうして走っているのかもわからない。
 ただただ苦しかった。その苦しさから逃れるために、ミララは走る。けれど、どこまで走っても消えない。それどころか、荒い呼吸に痛んだ肺が余計に苦しさを訴えてくる。

 ぽつり。
 一滴が、ミララの頬をぬらした。
 それを皮切りに、一粒、二粒。空から大きな雫がこぼれ落ち、あっというまに大地をぬらしていく。
 冷たい雨はどんどん温度を奪っていく。身体も、心も冷え切って。気力すらそがれて。ミララは足を止めた。
 すべてが信じられなくなっていく。
 優しさも、笑顔も、温もりも、声も。ぜんぶがつくられたまがいもので。そこには私の姿などみじんも映っていなくて。
 私は、ただの道具にすぎず。約束を果たすそのためだけに、ここにいることを許されていたのだ。
 それを、勝手に勘違いして。心躍らせて。ばかみたいだ。
 
 苦しい。胸が締め付けられるようだ。雨は激しさを増し、大地を叩く水音だけが世界に響く。まるで世界からそこだけ切り取られて、隔絶されてしまったかのようだった。孤独で、空っぽな空間。寒さに身体が震える。
 指先のリングが微かに光る。こんなもの、貰わない方が良かった。その輝きが美しいほどに、あの時の幸せが偽りだと思い知らされる。
 こんなにも悲しいのに、むなしいのに。指輪を捨ててしまうことすらできない。
 それ以上に愚かしいのは、もっとも捨て去るべき思いを捨てられないことだ。
 口元に笑みが浮かぶ。嘲りから生まれたものだ。愚かな私はまだ、期待してしまう。
 優しい微笑みとともに、その掌が差し伸ばされることを。この雨を払うあたたかくて大きな傘とともに、あなたが来てくれることを。

「ミララ」

 誰かが名前を呼んだ。
 雨音がノイズになって、その正体はわからない。
 振り返ることができずにいると、頭上の雨がぴたりと止んだ。差し出された傘が、冷たさからミララを守っていた。
 しばし躊躇って、覚悟を決めた。ミララは振り返り、その目が大きく見開かれる。
 そして――。


 ◆


 どうやら、通り雨が降ったようだ。
 かすかに湿気を含んだ空気と、しっとりと濡れた町のにおいが先ほどまでの雨の余韻を伝えていた。水たまりに移る空は青く澄み切っていて、ぱしゃり、晴れやかなその鏡面が踏み入った革靴によって乱れ、ゆらゆらと揺れた。
 彼女の痕跡は、この雨にすっかりと洗い流されてみえなくなってしまった。あの雨はまるで彼女の姿を隠すためだけのものだったようだ。手繰るべき糸も手がかりも、もうどこにも感じられない。
 セージは深く息を吐いた。ため息と形容するに相応しいそれだった。
 彼女のことだ。置いていった荷物をそのまま放っておくことに気を揉まないはずはない。だから、暫くすれば戻ってくるのではないか。そう考えたのは浅はかな愚考だった。
 己の放った言葉に、彼女が何を思ったのか。
 それを理解できないほど愚かではない。しかし、言葉を放つことを抑えられるまでに自分を律せられるほど、賢明にはあれなかった。
 彼女の語る『過去』は間違っている。
 多少の誤魔化しや、脚色程度ならば気にとめやしない。しかし、彼女の言葉が正しいとするならば、あまりにも大きなものが失われてしまう。それを黙って受け止めることなど出来るはずもなかった。そうすることは、これまでの自分自身の信念を曲げるに等しいことだったから。
 だから、自分が放った言葉を後悔はしていない。この先のことを思えば、少々短絡的ではあったかと、反省はするが。それでも、彼にとっては些末なことであった。ここには戻ってこなくても、きっと先に家に戻っているだろう。もう一度顔を合わせて非礼を詫びれば、まだ修正はできる。やり直すことはできる。
 ぬかるんだ帰路をセージは歩く。跳ねた泥が靴やズボンの裾を汚しても彼が気付くことはない。同じように、暗闇に包まれた彼の視野は少女の心を写すことはない。ゆえに彼は気づけない。それこそが大きな誤りだということに。頑なな想いが何よりも彼を盲目にさせていることに。
 雨雲は通り過ぎ、風に流れるその隙間から真っ青な空が覗く。
 草木を濡らした露は乾き、そよそよと穏やかな風がながれ、いつのまにか空の色は橙に変わる。太陽がゆっくりと沈み、星空が天井へと上っていく。夜が訪れ、一日が終わりを告げようとしていた。時の流れとともに空は幾重にも様相を変える。
 どれだけそれを繰り返そうと、雨に姿を消した少女が帰り来ることはなかった。