あんだんて | ナノ

2


 ◆


「あなたみたいな方でも、なかなか役に立ちますのね」

 この先にある出会いを待ちわびて、少女のように声色を弾ませた女性がミララの少し前を踊るような足取りで歩いていた。
 案内をする側より先に行ってどうするのだろう、そんな小さな疑問が浮かんですぐに憂鬱にかき消される。

 ――こんなこと、前にもあったなあ。

 まさか、彼女の会いたい人がセージだったとは。世界というのは案外身近なところだけで回っているものだ。
 
 ――このまま連れて行ってしまったら、セージはきっと怒るだろうな。

 ため息が今にもおなかの中から飛び出してきそうだった。楽しげに歩く女性の前で思い切り吐き出すわけにもいかず、ぐっと飲み干す。
 この状況は依然セージの弟が訪ねてきた時と似通っていた。
 あの時、兄の身を案じて訪ねてきた弟のイリスを、彼は冷然と拒んだのだった。あんな風に誰かを拒絶するセージの姿は今でも信じ難くて、記憶の中に強烈な印象を残している。それゆえに、彼女を同じように拒絶するのではないかとミララは考えていた。
 彼は自分を知る人物を近づけたがらない。それは、彼が名を偽って生活していることと何か関係があるのではないか。だとすれば、自分がこうして彼女を連れていくことは、セージを困らせることになるのではないか。

「ちょっと、遅いですわよ。案内人が遅くてどうするんです」

 前から叱咤が飛んできた。考え事をしている暇はないようだ。
 ずんずんと前へと進む彼女はこちらが重い荷物を抱えていることはまったく考慮していない。

「……ごめんなさい」

 それでも、彼女に従うほかない。転ばせて服を汚してしまった責任がある以上、そのお詫びとして提示された条件を断ることはできないのだ。
 案内するだけして、あとは「留守だった」と嘘をつく。それで何とか帰ってもらう、と言うような稚拙な作戦くらいしかこの状況では思いつけない。

「それにしても。あなた、セージとどう言った関係ですの?」

「えっ」

 まるで嫌なものを見るかのようなじっとりとした視線がミララを見下ろす。どきりとした。「一緒に住んでます」など本当のことを話せば、その白雪のような肌が、一転し椿のように真っ赤に染まるかもしれない。

「えっと、近くに住んでて。すごく親切にしてもらってるんです」

「ふうん?」
 
 刺さる視線が疑いを含んでより粘着質になった気がした。怪訝に寄せた眉が、その不信を物語る。

「ま、良いですわ」

 が、驚くほどあっさり女性はその話題への関心をなくしてしまった。こんな田舎娘が何かをできるはずがないと、そう自らを思いこませたようにも見えた。

 しばらく歩くと木々に覆われた小道がひらけ、太陽にきらめく小さな湖畔と純白の雪原を閉じこめたような美しい屋敷が見えてくる。
 幸いにも、今はピアノの音はしていなかった。留守だと誤魔化すのにも悠然とした音色が流れていてはどうしようもない。
 
「ここですの?」

 女性の瞳が大きく開かれる。目の前にある絵画のような景色と会いたい彼がすぐそこにいるという感嘆と期待が、アメジストの輝きとなって光る。

「……普段だったらここにいるはずですけど、今日はピアノの音も聞こえないし留守かもしれませんね」

「……」

 白々しくもミララは言う。その言葉に少女は唇をつぐんだまま、じっと正面を見据えている。

「部屋も暗いですし。本当にいないのかも。わたし、様子を見てきま――」

 稚拙な思いつきは、秘策にはなりえなかった。

「セージ……!」

 扉へと駆け寄ろうとするミララの言葉を遮って、女性は声を震わせる。
 まさか。彼女がまっすぐ見つめる視線の先にミララもまた目をやると、そこにはセージの姿があった。
 なんということだろう。ミララは視界が真っ白になる感覚を受ける。

「ミララ、ですか? ――いや、その声は」

 自身の名を呼ぶ声にセージは不思議そうに目を細めた。その声がミララのものでもなく、かつて聞き慣れた声であることに気づいて。

「セージ! 会いたかったですわっ」

 勢いよくかけだした女性はブロンドの髪をなびかせ、そのままセージの元へ。思い切り彼の胸へ飛び込んだ彼女の、艶やかな金色と人魚のようなスカートの裾がふわりと舞い上がる。風に揺らめいたそれらが再び彼女の身体に沿って収束していくのを待たずに、女性はその瞳の中いっぱいにセージを見上げた。
 突然彼女が抱きついてきたことで、セージの身体はバランスを崩す。半歩下げた右足でそれをなんとか堪えると、自らをじっと見つめるその視線に当惑する。

「……シルヴィア」

「ああ、セージ……っ、わたくしずっと、あなたに会いたくて。どうして突然居なくなってしまったんですの?」

 シルヴィアと呼ばれた女性はぎゅうっとセージを抱きしめたまま、今にも泣きそうな声だった。セージは閉じたままの瞳に惑いの色を灯しながらも、自らにすがりつく女性を突然拒むことはしない。

「シルヴィ。どうしてこちらに?」

 それは、いつも自分に向けられるものと同じ優しい声色だった。
 ミララは目の前の光景に戸惑う心を感じていた。まるで、かつて読んだ小説のワンシーン。時代の波に引き離された恋人たちの再会の場面。目の前で起きている事が現実から遠く離れたもののように思えて、でもこれは虚構なんかではない。
 鉛を飲み干したような息苦しさが、もやもやとお腹にたまっていく感覚がした。
 
「あちらの方に案内していただきましたの」 

 シルヴィアがミララを指し示す。
 二人の意識が自分へと向くのを感じて、ミララははっとする。

「そうなんですか? ミララ」

 一体どうして。
 そうこちらへと問いかけるような視線だった。ミララがシルヴィアを連れてきたことに驚いている、そんな様子だ。
 やはり、案内を断ればよかった。後悔と罪悪感から、ミララはセージの顔を直視できなかった。

「……ここまでの案内、ご苦労様でした。そういえば、自己紹介がまだでしたわね。わたくしは、シルヴィア・ヴィーアリスタ」

 しっかりと両腕を回していたセージの胸元からくるりとその身を翻して、今度はその腕をぎゅっと抱きしめ、シルヴィアはにやりと微笑んだ。
 まるで見せつけるかのように、ここが自分のステージだと言わんばかりの自信に満ちた声がぱちくりと目を開いたミララの当惑をあざ笑う。

「セージの、婚約者ですの」

 言い放ったその言葉。おまえの存在など、取るに足らないちっぽけなものなのだと。そう知らしめるかのようだった。舞台の高みから見下ろす優越感に満ちたりて、シルヴィアの瞳が輝いた。

「……え?」


『婚約者』

 突如として出てきた言葉に、ミララは耳を疑った。思いもよらぬ事に、思考が追いつかない。頭のなかで大きな鐘が鳴り響くような衝撃が雷のように全身を駆け抜けて、くらくらと身体の力が抜けるようだ。抱えていた荷物を落としそうになる。
 
「ほ、本当なの? セージ」

 あまりに突然すぎて、信じることができなかった。婚約者がいるなど、そんな素振りはいっさい見せていなかったではないか。彼の存在が、一気に遠く離れていってしまう感覚を覚えた。
 できれば、冗談だと彼女の言葉を否定してほしい。心中で渦巻くそんな望みをミララはセージへと投げかけた。
 しかし、彼の答えは。

「はい。本当です」

 思わず呼吸の仕方を忘れそうになる。
 シルヴィアの顔が嬉しそうに綻ぶのが見えた。 

「ですが……」

「セージ! わたくし、あなたに会ったらお話ししたいと思っていたことがたくさんありましたの! もちろん、聞いてくださりますわよね」

 何かを言い掛けたセージの言葉は、華やかなシルヴィアの声にかき消されてしまう。ぎゅうっと腕を抱く力を強めて、この腕を二度と離すまいとするようだった。

「そうですね。わかりました。中で少し話しましょう」

 そんなシルヴィアをセージは拒むことをしなかった。
 柔らかく微笑んで、彼女を屋敷へと誘う。

「……ミララ。申し訳ありませんが、お茶を煎れていただいてもよろしいですか?」

「え? あ、うん。わかった」
 
 ミララはぎこちなくうなずいた。 
 
「なんです? あなた、セージの使用人でしたの?」

 シルヴィアがわずかにその眼光を鋭くした。
 彼女をここに案内するとき、ミララはセージとの関係を濁していたことを思い出す。
 使用人なんかではない。そう否定したい気持ちをぐっと飲み込んだ。

「実は、そうなんです。黙っていてすいませんでした」

「ふうん」

 シルヴィアほんの少し、その瞳でミララを蔑んだ。それから彼女への一切の関心をなくしたかのようにふいと顔を背けて、セージにぴったりとその身を寄せた。
 ミララは屋敷へと招き入れられるシルヴィアの美しいブロンズを呆然と眺めた。きらきらと、月のように輝くその美しさは自分のような平凡な人間にはけして手が届かない存在のようで。その隣に立つセージの凪いだ海のような優美さと美しく調和しとけ合っていた。静かな水面は、夜に輝く月を何よりも美しく映し出せるのだから。
 彼の隣に立つのに相応しいのは、彼女のような人なのだ。
 適うはずがない、諦めにも似た感情がぎゅっと胸を締め付けた。

 なにもかもが、思い描いていたものとはかけ離れていて。そのギャップをうまく咀嚼できずに、もやもやとした感情ばかり膨らんでゆく。
 
 ――どうして、こんな気持ちになるのだろう。


 ◆


「盗み聞きなんて、趣味悪いわね」

 眉根を寄せたミレイが呆れたようにつぶやいた。 
 その冷めた視線はセージとシルヴィアがいる、応接室の扉にぴったりと耳をあてている二人の人間に向けられている。

「そう言うミレイだって、ちゃっかり聞き耳立ててるじゃないか」

「うるさい」

「いてっ」

「二人とも、静かにしないとばれちゃうでしょ……!」

 しぃ、と立てた指を唇にあて、ミララは小声でじゃれ合う双子を諫める。
 紅茶を出し終えたミララが部屋を出てから四半刻ほど、二人は楽しげに何かを話しているようだった。
 セージの婚約者という存在がどうしても気になって、ミララたちはこうしてじっと息を殺し、扉越しに聞こえてくる声に全神経を傾けていた。

「それにしても、婚約者ねえ。さすが、良いところのお坊ちゃまは違うわね」

「一瞬顔見れたけど、すっごい美人だったよな。すごいなあ……」

 ミレイがどこか皮肉混じりに、ソニティアは感嘆の声で言う。彼らの言葉を後ろ手に聞きながら、ミララはじっと扉に耳を傾ける。
 扉越しにくぐもって聞こえてくる声は花の咲いたようなソプラノ。シルヴィアが楽しげに何かを語っている声だ。落ち着いたセージの声が時折あいずちをうって、再びソプラノが声を弾ませる。
 いったい何を話しているのだろう。ここからだと会話の内容までは聞き取ることができない。知りたいような、知りたくないような。特別な関係の二人の仲睦まじげな話し声はミララの心に鬱蒼とした陰を落とした。
 
「……はあ」

 思わず漏れ出したため息に、ミレイがにやりとする。

「婚約者なんて、予想外の難敵ね」

「な、難敵って……そんな」

 どうして、自分がシルヴィアへの敵対心を持つ必要があるのか。そう反論しようとするミララをミレイは人差し指で制した。
 
「誤魔化したって無駄。わかりやすいのよ。あんた」

「ちがうってば……」

 なんて事を言い出すのだろう。
 ミララは頬が熱くなるのを感じて、あわててミレイを否定する。

「それにしてもさ。前に弟が来たときと、ぜんぜん対応が違うよね。あのときは門前払いだったのに。今度はお茶まで用意させてさ。婚約者だから、やっぱり特別なのかな」

 ぽそり、ソニティアが言う。
 その言葉が心中の不安をずばり言い当てていて、ミララは熱を帯びていた頬が一気に冷めていく感覚を覚えた。

「さあね、どうでもいいわ」

 ミレイの冷めた声。そのすぐ後だった。
 扉の向こうから、高い声が響いた。

 ――嫌です!

 三人は一斉に、扉に身を傾けて息を潜めた。
 その先にある空気が、先ほどまでの睦まじく華やかなものとは一変している。壁越しに伝わる緊張感が、体感温度まで下げるようだった。
 
 ――。

 耳をすませる、話し声は聞こえない。

 ――カツカツ。

 ヒールが床をならす音。
 荒れた速いテンポで鳴るその音は次第に近づいてくる。

 ガチャリ。

 ドアノブが勢いよくひねられる。
 ぴたりと身を寄せていた扉が突然内側へと開かれて、耳を立てていた三人は一気に応接室へとなだれ込む。

「――!」

 信じられない。
 扉を開いたシルヴィアは眼を見開いた。その瞳の色はすぐに驚きから軽蔑へと変化していく。

「盗み聞き、ですの? ここまで低俗な行為をはたらけるなんて、驚嘆に値しますわね」

「あ、えっと。ごめんなさい……!」

 とっさに居直して、ミララは頭を下げる。
 見上げたシルヴィアの端整な顔立ちはその心中に渦巻く憤りと侮蔑と悲哀とで歪められ、その形相は激烈に震える鬼神にも似ていた。
 情状酌量の余地はない。どんな怒号や罵声を浴びせられても自業自得なのだ。そうミララは腹を据えるが、シルヴィアは何も言わない。

「そこを退きなさい」

 ただ冷え切った声でそう言い放つと、ミララや双子には一別もくれずに去っていく。

 カツカツカツ、荒んだ足音が床を蹴りつけて走り去っていく。
 その背中をミララは追いかけた。
 許してもらう為ではない。彼女の表情が、どうしても気がかりだったのだ。

「シルヴィアさん!」

 呼び止めたシルヴィアが足を止める。
 
「大変な失礼、申し訳ありませんでした。あの……」

「勘違いしているようですから、教えて差し上げますわ」

 ミララの言葉を遮って、シルヴィアが震えた声を放った。
 こちらを振り向くことはせず、視線は彼方を睨んだまま。

「セージはあなたのことを、微塵も特別になど思っておりませんわ。ただのお情けで側においてあげてるだけです。あなたはセージには相応しくない」

 ふわり、マーメイドスカートが翻る。
 鋭いアメジストの双眸が、ミララを射抜いた。

「セージの婚約者は、わたくしですから」

 きらめいたその瞳は、再びすぐに彼方へと向けられた。


 ◆

「なんです、皆さん。聞いていらしたんですか」

 応接室のソファに腰掛けて、とくに驚いた様子もなくセージは扉のそばに立つ双子を見た。

「聞いてないよセージ、婚約者がいるだなんて」

 心外だ、とでも言いたげにソニティアが頬を膨らませた。

「まあ、言っていませんでしたからね」

 セージはすっかり冷めてしまった紅茶をすすった。
 その様子にますます頬を膨らませたソニティアは、まるで頬袋に餌を蓄えた小動物のようだ。

「シルヴィア・ヴィーアリスタ。ヴィーアリスタ家のお嬢様と婚約関係だなんて、流石は名門音楽一家の長男坊様といったところかしら。怒って帰らせるなんて、一体何を言ったわけ?」

 対照的に落ち着いた声色のミレイは探るような視線をセージにやった。

「怒らせたのはあなたたちの方では? 家に戻る気はないと、そう伝えただけですよ」

「ふうん。婚約者がいるのに、ずいぶんと酷なことをするのね」

「そう、ですね」

「セージ……!」

「ミララ。済みません。気を遣わせてしまって」

 シルヴィアを追いかけていったミララが部屋へと戻ってくる。その表情はどこか浮かないものだった。ゆっくりとした足取りを部屋の中程で止め、じっとセージへ目線をやった。

「シルヴィアさんのこと、本当なの?」

 セージはおもむろにうなずく。

「はい。彼女が僕の婚約者、ということは本当です。ですが、もう昔の話です」

「昔の話?」
 
 それは一体どういう事なのか。ミララが首を傾げる。

「元々、親同士が決めた話なんですよ。両家を結婚させようというのは。しかし、僕はもうあの家を出ました。婚約の話は無効になったはずです」

「そっか……」

 婚約は無効。その言葉を聞いて、ミララはほっと安堵した。

「無効、とは言っても。あのお嬢様はそうは思ってないみたいだったわよ」

「ですから、そのことも含めて先ほどお話したんです。なかなか頑固な方なので、わかってくださったかどうかわかりませんが」
 

 先ほどのシルヴィアの表情の理由はそれだったのか。
 ミララは彼女の去り際の潤んだ瞳を思いだした。シルヴィアのセージへの思いは本物だ。だからこそ、ここまで追いかけてきたのだろう。
 それを婚約が無効になったからと無下にしてしまうのは、あまりに不憫なのではないか。 
 自分がこんな風に思える立場ではないことは重々承知している。しかしミララはセージの言葉に安堵すると同時に、彼のそばに居るのはシルヴィアの方が相応しいのではないかという相反する感情を抱いていた。
 せっかく一つの不安が取り除かれたというのに、二つの感情は水と油のように分離して、胸の奥にどかりと居座ってしまう。

「あんた、婚約者にも理由を話さず家を出てきたわけ? 後々になって面倒なことになるくらいなら、はじめからちゃんと話してくれば良かったのに」

「確かに、ミレイの言うとおりですね」

 セージは苦笑する。
 ミレイは面白くなさそうに、胸の前で組んでいた腕を後ろ手に組み直す。

「なんにせよ。シルヴィアのことは僕の問題ですから。あなたたちがこれ以上気にかける必要はありませんので。この話は終わりにしましょう」

 これ以上は語るつもりはないのだろう。ソファから立ち上がると、セージはテーブルのカップを片づけはじめる。
 話を途中で切り上げられたことに不服そうにしながら、セージが部屋を出ていってしまったので双子もそれにならう。
 皆が部屋を去ったあとで、ミララはセージを追いかける。

「カップ、わたしが片づけるよ」

 追いついた肩を並べて、あくまでいつも通りを心がける。

「大丈夫ですよ。今日はいろいろと申し訳ありませんでした」

「ううん」

 ミララは首を振った。

「ちょっと、驚いたけど」

「そうですよね。シルヴィは嵐のような方ですから」

「こっちこそ、ごめんね。本当はうまく案内を断るべきだったよね」

「やはり、気を遣わせてしまっていたようですね。申し訳ありません。イリスがここに来た以上、遅かれ早かれシルヴィも来るのではないかと思っていたんです。ですから、そんな気に病むことはありませんよ」

 話している内にキッチンにたどり着く。
 流しにカップを置いたセージがミララを振り返った。

「ミララ。僕はあなたに使用人として側にいてもらっている訳ではないことは、わかってくださってますよね」

 じっとこちらを見据えるまなざしのようなものを感じて、ミララの鼓動が速くなる。

「うん。わかってるよ」

「僕は、あなただからこそここにいてもらっているんです。あなたは、特別ですから」

 微笑む面差しは優しく、すべての不安を洗い流してくれるかのようだった。

 ――その言葉は、一体どういう意味?

 特別というその言葉がこそばゆくて、頬が熱を帯びてゆく。

「あ、えっと」

 なんと応えればいいのだろう。高鳴る心音が、ミララから次の言葉を奪った。喉が震えてうまく声にならない。


「――ありがとう」
 
 なんとか紡ぎ出したぎこちない声は、ひどく曖昧な言葉だった。
 いろんな感情がぐるぐると渦をまいていく。喜びであり、惑いであり、不安でもあるような。
 揺れるこの心が瞳越しに伝わることがないと解っていても、セージの顔を直視することができない。

「あ、そうだ! 昼間パン屋さんに行ってね」

 ぐるぐるぐる、回る思考と鳴り止まない鼓動の音。それを誤魔化すため、ミララは突如として話題を転換する。
 逃げだとわかっていても。これ以上は心臓が耐えられない。

「セージと食べてって、たくさんパンをもらったの。ご飯の前だけどそんなに大きいパンじゃないし、よかったら一緒に食べない?」

「本当ですか? でしたら、ありがたく頂戴します」

 セージは優しく笑った。
 あわただしくテーブルに置かれた紙袋に手を伸ばすミララの様子をほほえましく見守って、それ以上はなにも言わなかった。
 ミララが紙袋を開けると、香ばしいパンの香りが再び漂ってくる。転んだときにつぶしてしまっていないか心配だったのだが、幸いにも無事だったようだ。

「せっかくだからミレイとソニィも呼んでくるね。みんなで食べよう」

「はい、ではお茶を用意してお待ちしておりますね」

 逃げるようにミララは部屋を出た。 
 双子はいつもの屋根裏部屋に戻っているだろう。廊下を進み、階段を登る。
 進むミララの足取りはゆっくりだった。いまだどきどきしている心臓と頬の熱が冷めるまで、時間がほしかった。
 嬉しくなったり、悲しくなったり。忙しく揺れ動く心を、自分自身でもまだ受け止めきれていない。
 セージに婚約者がいると知って、シルヴィアが親しげにセージに触れるのを見て、今まで感じたことのない息苦しさを覚えた。
 彼女との婚約が過去のものでありセージにそのつもりがないと知ったとき、きつく胸元を締めていた紐が一気にゆるんで大きな安心感が生まれた。
 シルヴィアの存在を知ってから、たった少しの時間。自分の心は一喜一憂。嬉しくなったり、悲しくなったり、ふわふわしていて安定しない。
 心臓の音が大きく聞こえる。いつもよりテンポの速い、でもそれはどこか心地のよいスタッカート。
 この胸の高鳴りは、心を支配する苦い感覚は、それらすべてを内包して花のように綻ぶぬくもりは。まるで……。

 二階奥の倉庫部屋につく。
 ここから梯子をつたえば、そこは屋根裏部屋だ。
 使っていない部屋はたくさんあるのだが、双子たちは好んでここをつかう。ほこりっぽさと多少狭いことをのぞけば、こぢんまりとした空間は使い勝手が良く落ち着いて過ごせる良き居場所なのだろう。

 膨らんでいく感情のつぼみは、わずかな綻びを見せただけ。
 だから、まだこのままで。
 きっと、気のせいだったと思えるから。

 そうすることが、最善なのだ。

 梯子を登って、ミララは双子の名前を呼んだ。