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◆
「……」
「……」
しばらく、沈黙が続いた。
先ほどまでのせわしない様子が嘘のようで、逆に落ち着かない。ミレイはそう思った。それを口に出すことはしないため、無言のまま時は過ぎる。
木々が空を閉ざしているため、わずかな隙間からしかその色を見ることが出来ない。思いの外時間が過ぎているようだ。先ほどまで青かったその色に、夕暮れの気配が歩み寄っていた。
このまま、日が暮れてしまったら。
それを考えるだけで、ミレイの心は安定を揺るがす。
鬱蒼と茂る森の木々は月明かりさえ閉ざしてしまうだろう。そうなれば、訪れるのは漆黒の闇。深い沼に黒を溶かしたような、光の届かない深淵の世界。
昔から、闇は嫌いだった。
そして、誰かにそれを知られることはもっと嫌だった。
早くこの場を去りたい。そう思うのに痛む足はそれを許さない。
怯える自分を見せたくなくて、いっそひとりになりたい。けれど、しっかりと寄り添うぬくもりはちっとも離れようとしない。
「……あんた、何も出来ないと思ってたのに。意外だった」
「手当のこと? ああ、これはね。幼馴染みが詳しいの。お医者さん、目指してるから。前自分が怪我したときに同じようにして貰ってね。それで、私も覚えたの」
「ふぅん。幼馴染みなんていたのね、あんた」
「うん。故郷にね。しばらく会ってないけど」
「そう」
「……」
「……」
再び沈黙。
短い会話を交わして、長い沈黙。それを何度か繰り返して、時が過ぎる。
ざわざわ、木々が呻きにも似た音を立てて揺れる。
風が吹き抜けたのだ。冷たい風が、肌を掠めて通り過ぎていく。
いつのまにか夕暮れが深まっていた。
見上げた木々は枝葉の黒いシルエットを真っ赤に染まった空を背景に移しだす。そのはっきりとしたコントラストは美しく、同時に沈みゆく太陽が引き連れる憂愁を感じさせた。
鳥がどこかで鳴いている。紅の空は、わずかに紫色をその色彩に織り交ぜて、鮮やかなグラデーションを生み出していた。
夜の足音が迫る。
言い得ぬ焦燥が胸の奥からせり上がるようで、身体がわずかに震えはじめる。
「……!」
指先に温度が触れる、はっとしてミレイは傍らに寄り添う少女をへと視線を向けた。
「大丈夫」
ミララは、そう言って優しく微笑んだ。
伝う体温から、鼓動のリズムに合わせてぬくもりが流れくるようだ。それが、とても心地が良い。
この温もりを受け入れることは、不安に苛まれる弱い心を、それを拭ってくれる誰かの存在を求めていたことを、認めることになる。
それはとても恥ずべきことで、避けなければならない。そう強く感じているのに、ミレイは触れる指先を払うことが出来なかった。
「こういう時はね、歌うといいんだって」
空を見上げて、ミララは言った。
「寂しいとき、押しつぶされそうなとき、心の中に重たいものが溜まって、どうしようもなくなったとき。その心を歌に乗せて、空に放つの。そうすれば空の神様がちゃんと聴いていてくれて、受け止めてくれるんだって」
「……なによそれ。バカみたい」
ずいぶんなお伽噺だ。そう思いながら、ミレイは自分の口元が綻ぶのを感じた。
「思い出したんだ。昔、私もこんな風に一人迷子になって、寂しくて、不安で、心細くて泣きたくなって、膝を抱えて。誰かが見つけてくれるのを、ずっと待ってたんだ。そんなとき、誰かが見つけてくれて、手を握ってくれて。そして、この話をしてくれたんだ。誰だったか、忘れちゃったけど」
「さっき言ってた幼馴染み?」
「うーん、どうだったかな。そうだったかも」
「ずいぶんと曖昧ね」
「えへへ。だからほら、ミレイもさ。歌おうよ」
「歌……? 嫌よ、そんな。あんたが歌いなさいよ」
「え? 私? ……ごめんね。私歌えないんだ」
「なにそれ? こういうときは歌えって、自分で言っておいて」
「……ごめんね」
「別に、いいわよ。謝らなくて」
「私ね、歌えないの」
「さっきも聞いたわ」
「うん」
「……なにかあったわけ?」
「……分からない。昔は、多分好きだったの。歌うことが。でも、今は無理なの。歌うことが嫌いになったわけじゃないのに。でも、なぜか駄目なの。歌えないの」
「ふうん。なら、無理して歌うことないじゃない」
「それで、いいのかな?」
「いいんじゃない? 知らないけど」
ミレイもまた、空を見上げていた。
お互いの表情はまったく見ずに、指先だけは触れたままで。
「歌、ね。私もしばらくは歌ってなかったかも。昔はソニィと、どうでもいいようなこと。歌いながら過ごしていた気がする」
「そうなんだ。ねえ、今度聴かせてよ」
「絶対嫌」
「ええー」
そう言えば、ソニティア以外とこんなにも長い時間を共有したのは久しぶりかもしれない。
彼以外は必要ない。そう思っていたのに。その想いはこんなにもあっさりと、揺らがされてしまうとは。誰かの温もりを、受け入れようとする自分がいるとは。
「あんた、変な奴よね」
「そう?」
「変よ、頭おかしいわ。だって、私は一度あんたを殺そうとしたのよ。今だって、そう思ってるかもしれないのよ。そんな人間に恐れず近づいて。それだけじゃない、助けようとするなんて。変わってる」
「そんなことないわ」
ミララはゆっくりと首を振る。
「ミレイは大切なお友達だもの。友達を助けたいと思うのは当然だわ」
「……私のこと、怖いとか、避けたいとか思わないの? 普通、思うでしょ。あんな目にあったら」
「思わないよ。そりゃあ、あの時は怖かったし、何よりショックだった。でも、ミレイは私を殺さないで居てくれたでしょう。もう一度って、私の手を取ってくれたでしょう。だから。私はミレイを信じているの。恐れたりなんてしない」
「……馬鹿ね、あんた」
ああ、本当に馬鹿だ。
そして何より、それに救われる自分自身も。
ミララがここに降りてきたとき、彼女の行動に心底呆れ、理解に苦しむものだと、ミレイは思った。
しかしそれがミレイのために為された行為であるということを知って、大きく戸惑った。
崖下に降りてくる行動はこの状況に置いて間違いであったのは確かだ。しかし、それをさせる程に、彼女にとって自分が心細そうに見てしまったことを、ぬぐい去れなかった不安を見透かされてしまったことを恥じた。
先ほど自らの頬を染めた感情は、その羞恥によるものだとミレイは思っていた。
しかし、それは誤りだと、その感情が羞恥によるものだけではないことにミレイは気がついていた。
ーーあのとき私は、嬉しかったのかもしれない。
自分のために、ここまで来てくれる存在がいる。自分を想ってくれる存在が居る。
それが嬉しかったのだ。
ーー素直にそれを認めるのは、悔しいけれども。
「おーい! ミレイー!」
上空から待ち望んだ呼び声が聞こえた。
見上げると、ソニティアが大きく手を振っている。その側に、彼とは別の人影が見えた。彼は無事、助けを呼んできてくれたのだ。
「……って、なんでミララまで下にいるの!?」
「えへへ……、ミレイ。良かったね。これでやっと帰れるよ」
立ち上がったミララは驚くソニティアへと手を振り応える。そして、ミレイのもとへ振り向くと、しゃがんでその手を取る。
にっこりとした笑顔と共に、しっかりと自らの右手を握るその手のひら。なんだか急にむずがゆくなって、ミレイはその手を振り解く。
「ミレイー」
寂しくなった手のひらを不満そうに見つめる。そんなミララに、ミレイは小さく息を吐いた。
「いつまでもべたべたしないわよ。鬱陶しいわ」
「むぅ」
「でも、」
言い掛けて、ミレイは目線を下方へ伏せる。
「でも?」
ミララは彼女をのぞき込む。
「……でも、今回は、ありがとう。ミララ」
「……!」
まるで花が咲いたかのようだった。
ミララの表情が、ぱあっと綻んだ。
「はじめて、ちゃんと名前で呼んでくれたね」
心から、本当に嬉しそうだ。頬を桃色に染め上げて、星空のようにその目が輝く。
「ありがとう! ミレイ!」
ぎゅっと手を握って、満面の笑顔。つられてミレイも、自らの口元が微笑みを形どっていることに気づいた。
◆
「いやあ、今回は大変だったね。改めてようこそ、歓迎するよ」
丸太を切って組み立てられた、手作りの丸椅子に腰掛けて初老の男性が優しく笑った。空に浮かぶ雲のような、真っ白もこもこした髭を揺らして、垂れ下がった目元は慈愛に満ちた優しい眼差しを放つ。
ここは、森の奥の教会。その隣にある、木製の小屋であった。自然のままの丸太をそのまま活かし何本も組み合わせて作られており、落ち着いた空間となっている。建物だけではない、そこにおいてある家具もすべて木から作られていて、人工物はランプと、鉄製の調理器具くらいだ。
本棚には聖書やいろんな本が規則正しく並べられていて、そのほかの家具の配置もきちんと整頓されている。この家の持ち主の几帳面な正確が至るところから読みとれた。
ソニティアが連れてきたのは、今回の目的の人物である教会の牧師であった。胸元に十字架をきらめかせ、ふくよかな体型を黒い衣服で包んでいる。大きな手が撫でるのは、膝上でくつろぐ真っ白な飼い猫がくぁ、と大きくあくびをした。
今回の騒動の一因である白猫は、この牧師の飼い猫であったらしい。普段は大人しく、聡明で、祈りを捧げるために森へやってきた信者を導く、まさしく神の使いのような猫であるそうなのだが。今回なぜこの様な行動をとったのか、神父にも見当がつかないらしい。
「この子も唯一、言うことを聞かないものがあってね。大好物の魚を前にすると、夢中になってしまうんだ」
「魚……」
「そう言えば今日のサンドイッチ、魚が入ってるものがあったわよね」
「なるほど、納得がいったわ」
ミレイは目を鋭くさせて、一枚の紙切れを提示した。牧師に看てもらったところ、足の骨までは折れていなかったようで。痛み止めの薬草をもらい、すっかり元気を取り戻していた。
彼女の手の中にあるそれは、セージに託された手紙。猫にくわえられ、落下に巻き込まれ、すっかりくしゃくしゃになってしまっている。
「これのにおい、かいでみて。ソニィ」
「へ? ……うん」
差し出された手紙のにおいを言われるがまま嗅ぐソニティア。くんくんと鼻をひくつかせて、そしてはっとする。
「……魚のにおい」
「原因はこれよ。手紙についた魚のにおい。猫はこれに反応して、魚だと勘違いして手紙をくわえていったのよ」
「なるほど! でも、なんでまた」
「サンドイッチの具材が手紙の上に落ちたのね。きっと。まあ、あれだけ勢いよく食べてれば、そうなるわよね……?」
ぎろり、氷柱のような視線がソニティアを突き刺す。
首筋を這うような氷点下に、刺されたソニティアは身を震わせる。
「えええ……お、俺……?」
「あんたしかいないでしょう、ソニティア。サンドイッチを食べ、かつ手紙を管理していたのは、誰かしら……?」
「お……俺ですね……」
「覚悟は良いかしら?」
「ままままま……待ってよミレイ! 慈悲を! 慈悲をください!!
」
「問答無用!」
「ぎゃあああああ」
ミレイに制裁を加えられるソニティアを生ぬるい目線で見守った後、ミララは牧師へと向き直る。
「今回はご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした」
「なあに、気にすることはない。すべて神の思し召し。きっと意味があるのです。こちらこそ、我が飼い猫が迷惑を掛けてしまって、すまなかったね。明日からしばらく、好物はお預けだな」
牧師の膝の上で寝息を立てている白猫は、自身の見に降りかかる火の粉があるなんて夢にも思っていないのだろう。ゆらゆら、長い尻尾が優雅に揺れて、すっかり夢の世界だ。
「手紙、くしゃくしゃになってしまってごめんなさい。大事なものだったら謝ります」
ソニティアへの制裁を終えたミレイが、神父へと手紙を手渡した。魚のシミと砂埃にまみれていて、見るに耐えない無惨な姿に変わり果ててしまっている。
「大丈夫、幸い中身に問題はないようだ。少し染みてしまっているが、問題はないよ」
封筒の中身を取り出して、ふぉふぉふぉ、と牧師は笑った。
中身はセージからのメッセージと、楽譜が入っていた。
「君たちをよろしく頼むと、そう書いてあるよ。それに、有事の際は寝床を貸して上げて欲しい、とまでね。ふぉふぉ、ここまでお見通しだったのかねえ」
「なにそれ、もし本当にこうなることを見越して魚のサンドイッチを入れたりしてたら……絶対に許さない。帰ったら殴ってやる」
「ま、まさかそんな。落ち着いて、ミレイ」
拳をぱきぱきとならすミレイを何とかなだめて、本当にミレイの言うとおり、ここまで見越していたのでは……という可能性を否定できずに苦笑う。
「まあ、今日は遅いし。いろいろあって疲れただろう。ゆっくり泊まっていくと良い。ここは部屋もたくさんある。好きに使ってくれて構わないから」
牧師のお言葉に甘えて、今日はここで泊まることにしよう。
小屋、というには少し広さのあるこの家は、牧師が猫と暮らすには十分すぎる空間があった。
旅の教徒や、巡礼でやってくる聖職者を泊めることが出来るよう、部屋を多めに設けているとのことだ。
本日の寝床が決まり、落ち着いたところでミララは気になっていたことを牧師に投げかけた。
「牧師様はセージとどういった関係があるんですか?」
「セージくんかい?」
ふわふわの髭を指先で弄びながら、牧師は目を細めた。
「彼の父親と古くから付き合いがあってね。小さい頃から彼を知っているんだ。そのつながりで、今もこうやっていろいろと協力してもらってるんだよ。私が食材とか、日用品を送って、そのお礼としてこんな風に質の良い葡萄酒とか、音楽を提供してもらっているのさ。今日持ってきてもらったこの楽譜は、町の聖歌隊のための曲なんだよ」
「そうだったんですね」
聖歌隊のための曲、そんな大事なものが入っている手紙が取り返しのつかないことにならなくて本当に良かった。
ミララは内心ほっとする。
「今彼が住んでる家も、私が提供したものなんだよ」
「えっ、そうだったんですか?」
「そうそう、身内に設計が趣味のものがいてね。そいつと協力して別荘として建てたんだよ。遊び心もふんだんに取り入れてあってね、落とし穴とかいろんなギミックがあるんだよ。実は」
「な、なるほど……」
これで謎が一つ解けた。
双子と最初に出会ったとき、網やら落とし穴やら妙な仕掛けがたくさんあったと思ったが、それは設計者の趣味だったのか。
と、いうことはまだまだ知らない仕掛けがあるのだろうか。
「まあ、どこにどんな仕掛けを作ったのか作った我々も忘れてしまったんだけどね。ふぉふぉふぉ」
「そう、なんですね」
なんということだ。どんな仕掛けが、どれくらいあるのか分からない、一番恐れるべき事態ではなかろうか。
掃除の時は今まで以上に用心していかないと。そう密かに決心する。
「まあ、嬢ちゃんよ」
牧師の目が、ひときわ優しい輝きを放っている。そう感じられた。
「はい」
思わず身構えて、返事にも力がこもる。
「これから先、人生は長い。きっといろんな困難や、目を背けたかった真実が襲い来るだろう。けれど、けして折れてはいけないよ。心の火種を消してはいけない。強い意志をもって、歩んで行きなさい」
いいね。にっこりと、すべてを暖かく包み込む笑顔で、牧師は優しくそう告げた。
それが、神からの啓示なのか、未来の暗示なのか、ミララには分からない。しっかりと彼女はうなずいて、その言葉を受け止めた。
◆
朝を迎えても、相変わらず森は鬱蒼と薄暗いままだった。
けれど、帰り支度をまとめた三人の面持ちは晴れやかだった。
「ミレイ、大丈夫? 本当に歩けるの?」
「大丈夫よ、これくらい。もし駄目だったら、ソニィにおぶってもらうから、問題ないわ」
牧師から貰った松葉杖を手に、ミレイは意気揚々と帰路を臨んでいた。彼女の分の荷物を持ったソニティアは、すでにげんなりとした表情を浮かべている。
「道中気をつけてな。神の加護があらんことを。それと、セージくんにもよろしく伝えておくれ」
「はい、牧師様。ありがとうございました」
「またね、牧師様」
「ありがとうございました」
それぞれに別れを告げて、教会を発つ。手を振る牧師の腕からするんと抜け出た白猫のアンジュが、帰り道を先導してくれる。
「それにしても、ほんとこの猫にはやられたわ」
「駄目よミレイ。そんなこといって機嫌を損ねたら、また変な道を行かれちゃうよ」
「そんなことされたら今度はペンキ玉投げつけてやるわ」
「だから、平和的にいきましょうって」
幸いアンジュは機嫌を損ねなかったようで、すんなりと出口までの道のりを案内してくれた。
不思議なもので、行きはあんなに長かった道が帰りはあっという間に感じられる。天使の導きのおかげなのだろうか。
森の出口へたどり着くと、まるでトンネルの出口のように太陽の光が真っ白に輝いているのが見えた。
ちりん。鈴の音を鳴らして、アンジュが別れの挨拶をした。
森の中を帰って行くその姿を見送って、三人は出口へと進む。
降り注ぐ光のシャワー。
あたたかな光が、帰還を祝うように優しく包み込む。心も体もなんだか晴れやかになって、軽くなるように感じた。
「外だー!」
大きく伸びをして、太陽の光を全身で受けながらソニティアが叫んだ。
「なんだか、ずいぶんと久しぶりに感じるわ」
「たった一日の出来事なんだけどね」
ふふ、互いの目を見つめてミララとミレイが笑う。
それをみたソニティアは満足げに口元を歪めた。
「なんかさ、結果的に親睦も深まったみたいだし。悪くなかったよね、このお使いも」
「別に、親睦を深めたつもりはないけど?」
「まーた、そんなこと言っちゃって。ミレイは!」
「なによ。あんた、昨日の反省がまだ足りないの?」
「うわわっ、ごめん! ごめんって!」
「二人とも、仲良く。帰りましょ!」
暖かい日差しの下、笑い声が響く。
町まで続く長い道を今度は歩幅を合わせてゆっくりと進む。
この先をながれる唄が、祝福のものでありますように。
願い、高らかに歌いながら、歩いていく。