あんだんて | ナノ

3


 ◆

 森全体が彼らの歩みを止めようと襲い来る。 
 枝が鼻先を掠めていく、身を捻って蜘蛛の巣を避け、大地を横切る大木の根を飛び越える。それでも避けきれない障害物はナイフで払って、ミレイはひるむことなく進んでいく。
 真っ白な猫の身体は、暗闇でも目立つ。たとえ見失っても、鈴の音に耳を澄ませばその位置は特定できる。
 追いかけることはそれほど困難ではない。しかし、その距離はなかなか縮まらない。

「っこの、猫野郎っ」

 募る苛立ちから、ミレイは声を上げる。
 それと同時にポケットから黒い玉のようなものを取り出し、それを猫へと投げつける。
 直径三センチ程度の小さなそれは、猫の肢体めがけて飛んでいく。猫はひょいと身を翻し、それを軽々と避けてしまう。避けられた黒い玉は、あえなく地面へ。
 しかし、ミレイの目的はそこにあった。
 地面へと衝突した途端、玉は爆ぜる。そこからもくもくと出る白い煙が猫諸共周囲を包み込む。
 すると、それまで軽快きわまりなかった猫の歩みが止まる。その足取りはふわふわとおぼつかないものとなっていく。その姿からは先ほどまでの鼻につく優美さは消え去り、まるで酒に呑まれた人のように享楽的だ。

「特製、またたび玉よ。猫風情が人をおちょくるんじゃないわよ」

 猫がまたたびにうっとりとし始めたのを確認し、ミレイの口元が得意げに歪む。
 酔った猫を捕まえるのはさほど困難ではない。

「観念しなさい」

 ふらついた猫がごろんと茂みへと倒れ込もうとする。
 それをねらって、ミレイは走る。猫が地面へと倒れる前に、バランスの崩れたその身体を抱き抱えることに成功したのだ。
 酔っていながらも、猫はしっかりとその口元に封筒をくわえていた。

 抱き抱えた猫の重さが腕に伝わる。ミレイはほっと安堵する。
 それも束の間のことであった。
 
 猫を捕獲するために踏み出した一歩。
 その一歩が、宙を迷う。

「え」

 嫌な浮遊感が襲いくる。
 猫が倒れようとした茂みの先、ミレイが飛び込んだその先は、切り立った崖になっていたのだ。
 ミレイがその状況を理解した時にはすでに遅く。勢いのまま、その身体は重力に吸い込まれていく。

「ミレイ!!」

 ソニティアとミララの叫ぶ声が聞こえた。

 世界がぐるりと回る。


 ーーああ、落ちる。
 そう理解した次の瞬間、鈍い痛みが身体を襲った。痛みは肺を駆けめぐり、息が出来なくなる。

「……っ」

 声にならない苦痛が吐息となって漏れる。しかし、耐えられないほどではなかった。幸いにも、崖はそれほど大きなものではなく、さらに崖下に生えた茂みがクッションの役割をはたしたようだ。
 しばらく我慢すれば、呼吸も落ち着き痛みも和らいできた。

「ミレイ! ミレイ! 大丈夫かっ」

 上からソニティアの声が降ってくる。
 身を乗り出してこちらを伺う彼は、心配のあまり今すぐにでも飛び降りてきそうだった。

「大丈夫」

 そう伝えたいが、うまく声が出ない。
 なんとか右腕を上げて、無事を伝える。

 崖の高さは5、6メートル程度だろうか。
 上るには少しばかり困難な高さだった。上へと戻る道が探せば見つかる可能性もあったが、起きあがって辺りを散策するほどの力は今のミレイにはない。
 猫と手紙は無事だろうか。確かめると、腕の中でへにゃりと頼りない顔の白猫の姿。怪我は負っていないようだ。落ちる間際とっさに握りしめた手紙は、手のひらの中でくしゃくしゃになっていた。


 ◆ 


「どうしよう、ミララ……」

 崖の上では、涙目のソニティアが落ちたミレイとミララの顔を交互見て慌てふためいている。

「まずは落ち着こう。ソニィ。ミレイも無事みたいだし、とりあえず助けを呼びましょう」

 ミララは速まる鼓動を深呼吸で落ち着かせる。
 非常事態での冷静な判断。彼女もそれが得意な方ではない。このような時は混乱してしまい、周りの判断に身をゆだねる場合が多い。だが慌てたソニティアの様子が、逆にミララを落ち着かせていた。ここは自分がしっかりせねばと、冷静であろうと気を引き締める。

「助け、だね」

「うん。この森の中には牧師さまが住んでるのよね。その人ならきっと助けになってくれるはず」

「わかった。俺、助けを呼んでくるよ! ミララは危ないからここにいて」

 助けを呼ぶ、自身の為すべき事がはっきりし、ソニティアの目から
迷いが消える。それと同時に、必ずそれを為すという確固たる決意がその目に爛々とした輝きを灯した。

「わかった。気をつけてね、ソニィ」

 ミララはうなずく。

「ミレイ! ちょっとだけ待っててね!」

 崖下のミレイへと叫ぶと、ソニティアは森の中へと走っていった。
 その背が消えるまで見送って、ミララはミレイをのぞき込んだ。
 
 力なく浅い呼吸を繰り返している彼女はとても弱々しく見えた。いつも強く張りつめている意志の糸のようなものが消えかけていて、このままでは消えてしまうのではないか、そんな心配さえ抱かせた。
 彼女をこのままひとりにしてはいけない。漠然とした不安がそこにはあった。

「……よし」

 ミララの中で、一つの決意が生まれた。
 ゆっくりと深呼吸をして、頬を叩く。気合いを入れる意味合いだ。

 崖下を見下ろす。
 ここから真下、ちょうどミレイが落ちたところは勾配が急になっていて、ほぼ垂直に落下してしまう。
 しかし、そこから東へわずか数歩移動すると傾斜が一気に緩やかになる。もちろん、下へ降りたら上ることは出来なくなるが、下へ降りるには比較的安全な道、といえる。途中、突起状になっている岩肌が露出しておりそこに足を掛けて利用すれば勢いを押さえて降りられるだろう。

 ミララは崖のふちに立つ。
 そして、ゆっくりと一歩を踏み出した。


 ◆


 まったく、ついていない。

 ミレイは深く息を吐く。少しだけ、浮かれていたのかもしれない。
 痛みの波も引き、半身を起こせる程度にはなった。それでも、そこから立ち上がることは叶わなかった。
 落ちたときにできたのであろう、膝の傷が酷く痛んだ。皮膚が剥け、そこから赤い血が流れ出ている。それだけならまだ立ち上がることくらいはできただろう。
 怪我を負った右足、その足首から先の感覚が失われている。おそらく、感覚が麻痺しているのだ。動かそうとしてもちっとも力が入らない。

「……困ったわ」

 再び、ため息。
 鬱蒼たる心を吐き出しても、状況は何も変わらない。それは重々承知している。されど、今のミレイにはそれくらいしか出来ることがなかった。
 他と言えば、腕の中の白猫の様子を伺うことくらいか。
 またたびの効果がまだ抜けていないのか、先ほどとは別の猫のようにすっかり大人しくなってしまっている。
 腕の中にぬくもる白い毛並みは手触りが良く、手入れが為されているようだ。良く見ると、首に巻かれた赤いリボンに小さく文字が刺繍されている。

「アンジュ」

 この猫の名前だろうか。文字を読み上げると、猫の尻尾がゆらりと
揺れた。どこかの言葉で、『天使』を意味していただろうか、ずいぶん大それた名前だ。だが、舞い落ちる白い雪を思わせるような汚れのないその白は、その名にふさわしいようにも思える。

「にゃあ!」

 弾かれたように、高い声で猫が鳴く。それを合図に白い身体はじたばたと暴れ始める。手足を大きく動かして、ミレイの腕から逃れようと。

「ちょっと! 大人しくしなさい……!」

 ミレイの声もむなしく、するんと滑り落ちるように猫は腕から離れてしまう。ちりん、鈴の音が着地と共に小気味よい音を鳴らす。
 それをさよならの代わりにして、猫は振り返ることもなく走って行ってしまう。深い森はあっという間に、その小さな白を呑み込んで見えなくしてしまった。

「……」

 ミレイはぽつんと、森の中に置き去りにされたような気分になる。暗がりの中でひとり、身動きもとれない。否定したとしても、夕暮れに延びる影のように、言い得ぬ感情が背後から忍び寄ってくる。
 
「なによ、あんたも行っちゃうわけ?」

 寒さを覚えて、自らの肩を抱き寄せる。
 先ほどまであったぬくもりが急激に冷めていく。それが余計に、心細さを加速させた。

 ほんとうに、ついていない。

 何度目かも分からないため息が唇を震わせた、その時。
 

「ーーぅわわ……わあぁ!?」


 素っ頓狂な声が、突如として降り注いだ。
 思わず肩が跳ねる。ミレイは反射的に上を見上げる。

 静寂を引き裂くように、それは斜面を滑り落ちてくる。
 一体何事か。ミレイが状況を把握したときにはすでに、歓迎できない来訪者は間抜けにも尻餅をついていた。


 ◆

 ゆっくりと斜面を下り、ゆっくりと降りていく。
 ーーその予定だったのだが、見通しが甘かった。予想よりも斜面は滑りやすく、靴底が触れたその瞬間からずるりと岩肌が削れ落ちる。
 
 気づいたときにはもう勢いは止められない。
 岩肌を削る音、砂埃が夕日を反射してきらきらと舞う。

「わわわっ……!」

 間の抜けた声で喉を震わせて、ミララは崖を滑り落ちてゆく。

「ーー痛っ!」

 最後は思い切り尻餅をついて、ミララの身体は崖下の茂みになんとか到達した。勢いよく打ち付けたお尻がじんじんと熱を持つ。
 思い描いていた理想では、もう少しスマートに着地出来るはずだったのだが、現実は甘くなかった。まあ、小さな擦り傷程度でここまでこれたのだから良しとしよう。

「あんた……なにしてるの!?」

 信じられないものを見た、きっとそういう表情だろう。ミレイは大きな目を見開き、あんぐりと口を開いて、今日で一番感情のこもった顔をしていた。
 それは驚きと呆れが入り交じった驚嘆の色。呆れの色合いの方が若干強いかもしれない。
 
「えへへ、来ちゃった」

「来ちゃった、じゃないわよ。バカじゃないの!? 何考えてるのよ……!」

 ソニティアが助けを呼びに行っているとはいえ、崖下に落ちてしまっては戻る手段がない。そんな中で上にいたミララまで崖下に来てしまっては、救出の困難さも増す。ミララの行動は火に油を注ぐだけだ。しかも、その油は劣化している。ミレイは当然、彼女の来訪を歓迎するはずがない。

「ミレイが心細そうだったから、つい」

「はぁ……!?」

 ミレイは口を開いたまま、しばらく静止した。
 そして視線をミララから外すと少しだけ考え込む様子を見せる。
 やっとのことで彼女が紡いだ言葉。

「……別に、心細くなんてなかったわよ」

 節目がちに小さく呟く少女の頬は、わずかに赤く染まっていた。
 ミララは優しくほほえんで彼女に寄り添う。

「そうだ、ミレイ。怪我はない? 痛みは? 大丈夫?」
 
「ああもう、大丈夫だってば。放って置いてよ」

 矢継ぎ早の質問を心底鬱陶しそうに拒絶するミレイ。その抵抗を無理矢理押さえ込んで、ミララは怪我の様子を確認する。
 目立った外傷は右膝の傷くらいであろうか。あとは小さな傷が所々、白い肌に赤い痕を残している。幸いにも大したことはなさそうだが、細菌が入り込んではいけない。 

「大丈夫じゃないよ。こういうときは早く処置しないと」

 ミララは抱えていた小さな鞄から救急道具を取り出し、手際よく手当をしていく。有無を言わせない手際の良さに、はじめは抵抗していたミレイもやがて大人しくなる。

「落ちたとき、どこか痛めたりした?」

「まあ、衝撃はあったけど落ちたのは茂みの上だし。特に問題はないわ……」

「よかった。立つことはできそう?」

「どうかしら……」

 身体を起こそうと力を込めたミレイは、途端に顔をしかめる。
 今まで麻痺していたのか、気づかなかった鋭い痛みが動かそうと力を込めた右足を襲った。

「痛ぅ……」

「足? みせてみて」

 ミララはゆっくりとミレイの足を持ち上げると、自らの膝の上に置く。そして注意深く履いていた靴を脱がせる。
 露わになった足首に、ミララは思わず息をのんだ。痛々しいまでに腫れ上がり、もとの細さの倍以上に膨れ上がっている。思わず目を背けたくなるような状態だ。内出血を起こしているのだろう、皮膚は青黒く変色してており、高熱を発している。少し動かすだけで激痛が走るのか、ミレイの顔が歪む。

「足、動かせそう?」

「っ……、無理ね……」

「もしかしたら折れてるかも。動かないで、安静に。ちょっと待っててね!」

 出来るだけ冷静に、ミララはそう自分に言い聞かせる。
 ここで自分が狼狽えてしまっては、ミレイの心労を減らそうと降りてきた意味が無くなってしまう。
 動かぬようにミレイに告げると、ミララは少しだけ彼女を残し辺りを探索する。添え木になりそうな枝を探しているのだ。幸いここは森の中、ちょうど良い大きさのものがすぐに見つかる。
 あとは患部を冷やせる水があれば良いのだが、近くに水辺はないようだ。ミレイを残して遠くへはいけない。自分が迷ってしまっては元も子もないし、迷わない自信は正直ない。
 水を探すのはあきらめて、ミララはミレイのもとへ戻る。

「ごめんね、ミレイ。お待たせ」

「……」

 ミレイはなにも言わず、うなずきだけでミララに応える。
 離れていたのは少しの間ではあるが、やはり心細さを感じていたのだろう。こわばっていた表情が、少しだけ安堵に綻んだ気がした。

「応急処置しかできないけど、少しだけ我慢してね」

 ミララは持っていたハンカチを水筒の水で湿らせると、腫れ上がった患部を冷やしてやる。冷却処置を終えると、拾ってきた太めの枝を添え木として足首を固定しようとする。タオルで添え木ごと足を巻いていくが、ここでミララの動きが止まる。

「しまった」

「何よ?」

「布が足りないや」

 鞄の中には、先ほど使用したハンカチとタオルくらいしか使えそうな布が入っていない。お弁当を包んでいたランチョンマットがあったが、崖を降りる際に上に置いてきてしまった。

「布がないなら別にこのままで良いわ。さっきよりマシになってきたし」

「駄目だよ! 怪我の時は早めの処置が大切なんだよ! 放置が一番良くないの!」

「わ、わかったわよ」

 ミララの気迫に押され気味のミレイ。ここはミララに任せた方が良いと判断したのか、それ以上は口を開くことはしなかった。

「うーん……そうだ!」

 少し考えて、ミララは一つの案を思いつく。電球が灯るように、その目がきらりと輝いた。

「ミレイ。ナイフ貸して」

「は? 良いけど……何に使うわけ? 危ないわよ」

「大丈夫だよ、別に危ないことに使う訳じゃないから」

 気が気でないが、ミレイはナイフをミララに手渡す。
 それを受け取るとミララは慎重に鞘から刃を抜く。一体どうするのか、不安な面持ちのミレイに見守られながら、ミララはおもむろにその刃先を自らへ向ける。

「ちょっと……!?」

「大丈夫だってば」

 慌て出すミレイに微笑むと、ミララはためらい無くナイフを履いていたスカートへと突き立てる。
 そのまま刃をスライドさせ、ちょうど良い長さまで布を引き裂いていく。それなりに気に入っていたスカートだが、誰かの為に役に立つのならば、ミララに後悔はない。

「よし、これでいけるわ。ありがとう、ミレイ」

 ナイフを鞘に収め、ミレイに手渡す。

「あんた……良かったの?」

「ぜんぜん問題ないよ。そんな申し訳なさそうにしないで」

「違うわよ、申し訳ないとかじゃなくて。あんたに借りを作りたくないと言うか……そうまでする必要はなかったのに」

「いいのいいの! さ、固定するから、待っててね」

 ミレイは決まりが悪そうだったが、さして気にする様子もなくミララは布で添え木をしっかりと固定していく。

「これで良し……と。あとは動かさないで、安静にね。ソニィが助けを呼んできてくれるまで待ちましょう」

 ミララはミレイの隣に寄り添うように座る。
 その近い距離に居心地の悪いのか、ミレイは肩を強ばらせる。距離をとろうにも、足が動かせないため十分に離れることが出来ない。ぴったりと触れあうような状態から、なんとか拳三つ分程に距離を置いてそこで身を落ち着かせる。ミララもそこから距離を詰めることはしなかったため、拳三つ分の距離感のまま二人は助けを待つことにする。