1
真っ赤な空が、高く茂った木々の隙間から見えた。
赤と橙の絵の具を混ぜたような彩色を、黒く陰った木の枝が覆い隠している。木の陰がまるで空を裂く亀裂のようで、ひび割れたガラス細工に思えた。
助けを呼ぶと言ってソニティアが去ってからどれだけの時間が過ぎただろう。あれから戻ってこない彼の姿は、見上げた視界に現れる気配もない。
鳥たちの声が遠くに聞こえる。時間ばかりが過ぎて、すでに目の前に夜の足音が迫っていた。
隣で小さく震える少女の手のひらを、そっと握る。
冷え切った指先は冷たく、不安に凍えるようだ。
「大丈夫」
振れた肌を通して、温度が伝わる。
大丈夫、暖かい。ここには確かな鼓動がある。
空のグラデーションが、緋色から藍紫に移り変わっていく。
セージは心配しているだろうか。家を出たのが、なんだか遠い昔のように思えた。
◆
朝食はみんなで一緒に。
誰かが決めたわけではないが、いつの間にかそれが自然と日常になっていた。
暖かな光を窓からいっぱいに取り込んだキッチン。そこに据え置かれたアンティークのテーブルに広がる、おいしそうな彩り。
「おはよう」
そう声を掛けると、あたたかな声が返ってくる。
「おはようございます。昨晩はゆっくり休めたようですね」
「おはよう、ミララ。早くしないと冷めちゃうよー」
遅れてやってきたミララを出迎える声。
悪戯っぽくミララを急かすと、ソニティアは手にしたグラスに牛乳を注いで皆の前に配っていく。
コトン、と音を立ててグラスの中で牛乳が揺れる。
そのちょうど目の前、そこに居る少女の姿。
ーーああ、やっと来てくれた。ミララの表情が綻ぶ。
「何よ、早くしなさいよね」
自分を見つめる視線を妙に思ったのか、ミレイはむっとした表情を返してくる。そんな彼女にミララはうれしさのあまり視線を送り続ける。
「さ、さっきからなんなのよ」
居心地がわるいのだろう、自分へと向けられる視線に戸惑いながらミレイは怪訝そうに眉をひそめた。
「ミレイ、おはよう!」
「はあ?……おはよう」
さんざん自身を見つめたあげく、意気揚々と出てきた言葉はそんなことか、とミレイは少し拍子抜けしたような様子だった。
呆れたミレイの様子、だが、ミララにはどれだけ彼女に呆れられようと、そんなことは構いやしなかった。
それよりも、ミレイが朝の風景に居てくれること。その喜びが勝っていた。
先日の出来事から、ミレイはほんの少し自分たちとの距離を近づけてくれたのではないか。ミララはそんな変化を感じていた。
それは本当に些細な変化で、その距離はまだ遠い。ほんとうの意味では未だ彼女に近づけてはいないのかもしれない。
それでも、昨日まで同じ空間に居ようともしてくれなかった彼女が、こうして一緒の時間を共有してくれるようになったことは、声を大にして喜ぶことのできる紛れもない進歩なのだ。
「……人の顔見てにやけるの、やめなさいよね。気持ち悪い」
「あ、ごめんね。つい」
ミレイは呆れ顔を通り越して、うんざりした様子だった。
ついつい感情が露わになってしまったと、ミララは緩んだ頬に力を入れて、なんとか正す。
「ミレイと一緒なのが嬉しいんだよな、俺も嬉しいし」
まるでミララの心境を代弁するかのように、満足げな表情で笑うソニティア。
ミララはうなずく。
「そうなの、居てくれてありがとね。ミレイ」
「なっ、何言ってるの。馬鹿じゃない……」
嘘偽りのない素直な感情を真っ直ぐに向けられて、ミレイはますます戸惑っているようだった。ふいと視線を明後日の方へ向けてしまう。
それをみたソニティアがさらに頬を緩ませたのは、彼女の行動が照れ隠しから来るのを見越して、だろうか。
朝のキッチンが和やかな雰囲気に包まれる。
そんな中、思い出したようにセージが口を開いた。
「そうだ、三人にお願いがあるんです」
三人、とはここにいる内セージを覗いたミララと双子のことだろう。
「何よ」
「お願いって?」
お願いとは一体なんだろうか。
突然の申し出にミララが一度瞬きする間に、ミレイは警戒心を露わにして、一方でソニティアは好奇心を露わした声で応えた。
「隣町の教会に届け物を持って行って欲しいんです。いつも良くしてくださる牧師さんがいるのですが、世話になっているお礼の品を届けていただきたいのですよ」
「なんで私が……」
「いいよ! おもしろそうだし」
ミレイが不服そうに口を尖らせ不満を漏らすのを遮って、元気良くソニティアが快諾する。
「ちょっと、ソニィ」
「いいじゃん。隣町とか行ったことないし。ちょっとした探索みたいだし。な、ミララ」
「うん。そうだね」
わくわくした様子で、ソニティアは乗り気なようだ。ミララもまたそれに反対はしなかった。
しかし、ただ一人だけが首を横に振った。
「私はいかないわよ」
両腕を胸の前で組んで、ミレイは頑なだ。
何があっても行かない。深く椅子に座り直して、断固とした意志を表す。
「えー、なんでだよミレイ。面白そうじゃんか」
残念がったソニティアが促してもその意志は揺らぐ気配がない。
だが、対する相手もまた頑なだった。
「駄目です」
口元にたたえた微笑み。しかしそこに確かに存在する、笑みに似つかわしくない威圧感。
セージもまた、断固として自身の意向を変える気はないらしい。
「なによ、それ」
一方的な反対をミレイが素直に受け入れるわけがなかった。彼女はさらに意固地になって自が意志を貫こうと反発する。
ここはすでに戦場と化していた。
頑なな二人の静かな対決は、穏やかだった朝の食卓にピリリとした空気を走らせる。竜虎の対決よろしく、天地を穿つような戦いが小さく勃発していた。
「紹介の意味も兼ねて、三人で行っていただきたいのですよ。今後も何かと世話になることもあるでしょうし。それに、皆の親睦を深めることにも繋がりますし」
「親睦なんて深める必要ないわよ。何になるって言うの」
「一緒に暮らすのですから、お互いのことを知るというのは大切なことですよ。まあ、貴女がそこまで頑なに行きたくないとおっしゃるなら仕方ないですけど。でも、いいんですか? ミララとソニティアの親睦だけが深まってしまいますよ?」
「……! そ、それは……」
「それは面白くないでしょう?」
「……だったら。私とソニィの二人で行くわ。お礼の品とやらを届ければいいんでしょう」
「それではミララの紹介にならないじゃないですか」
「後で別に行けばいいでしょ」
「彼女をだけ一人でですか? ずいぶんと酷いことをおっしゃるのですね……」
「あんたが紹介してやればいいじゃない」
「彼女だけ特別扱いするのもどうかと。それに、せっかく皆そろっているのですから、この機会に皆で一度に行った方が効率的です。隣町といってもそれなりに距離はありますし、道中何かあった時側にいれた方が安心でしょう? だから、ミレイ。お願いします」
「……」
ミレイはすぐには応えなかった。先ほどまでの応酬のようにすぐに反論する事はしなかったが、それでも依然として納得のいかない顔をしていた。
「別にいいだろ、ミレイ。行こうよ」
無害な笑みを浮かべてソニティアが誘う。
やはりミレイにはこの方法が一番利くのだろう。ソニティアの声に、彼女の頑なな意志が揺らいでいく。
「……わかったわ」
ソニティアが言うのだから、仕方なくよ。
そう言いたげな面持ちで、ミレイはしぶしぶうなずいた。
「さあ、そうと決まれば早く朝食を済ませてしまいましょう」
ぱん、と手をたたいてセージが切り出す。
先ほどまでのミレイとの戦いが嘘のように、すがすがしい声だった。
「親睦を深める、とか言っておいてあんたは来ないつもり?」
棘のある口調でミレイが言う。
セージの言うように事が進むのがやはり不満なのだろう。
「申し訳ありませんが、今回は僕は留守番いたします。三人で仲良く、楽しんできてください」
「なによそれ」ミレイは呆れて眉をひそめた。
「僕はみなさんと同じペースでは進めませんからね。地図はお渡しするので、この通りに行けば大丈夫なはずです」
そういうセージの手にはすでに一枚の紙切れが準備されていた。四つ折りにされた手のひらサイズのそれには、まるで蔵書を切り出したかのような緻密さで、牧師の住む教会までの道順が示されていた。
「準備いいのね」
ミララはセージから地図を受け取ると、まじまじと眺める。道はそれほど複雑ではなく、整備された主要路をたどれば難なくたどり着けるようだ。
「挨拶に行くと伝えたら、牧師さんが地図を送ってくださいましたので」
「なるほど」
確かに、目の見えない人間が描いたには正確すぎる地図ではあった。添えられている文章の筆跡も、以前見たセージのものとは異なる。
それにしても、本当に精密な地図だ。線の一本一本がきちんと定規でひかれており、出版されている地図の複製と言われても納得できるほどだ。
これから会いに行く牧師様とやらは、とても几帳面な性格なのだろう。
「夕方までには行って帰ってこれる距離のはずです。気をつけて行ってきてくださいね」
◆
「こうやって一緒にどこかに出かけるのも悪くないよな」
青空の生み出す開放感がそうさせるのか、いつになくはしゃいだ声でソニティアは踊るように町を進んでいく。
「はしゃぎすぎ、転ぶわよ」
一方で、落ち着いた様子のミレイはゆっくりとしたペースで片割れをたしなめる。ミララの少し前を歩くその足取りは淡々としていて、片割れの分まで落ち着いているのではと思わせた。
そして、案の定転んだソニティアに言わんこっちゃない、とため息。
「届ける前に届け物壊したりなんかしたら怒られるわよ」
「あはは……ごめんごめん」
言いながら、ミレイはすぐソニティアへと駆け寄って手を差し出す。その手を取って立ち上がるソニティアへと向けられる彼女の視線はとても優しく、慈愛のようなものが込められていて、やはり二人の間には特別な絆が存在しているのだと、ミララは思った。
絆、なんて言葉で形容してしまうのは不適切なのだろう。二人はずっと共に生きていたのだ。唯一の家族、互いが互いの半身で、掛け替えのない存在。特別な、唯一無二の関係性がそこにはある。自分なんかが言葉で表すのは烏滸がましい、崇高なものが。
そこに自分は入り込めない。
それは当たり前のことだし、入り込もうなどそれこそ烏滸がましい考えはない。
ただ、ほんの少し羨ましく思う気持ちは存在していた。
自分にも、そんな風に思い合える唯一無二がいたら、と。
「ミララー!」
「なにぼんやりしてるのよ。置いてくわよ」
「あ、ごめん!」
考え事をしているうちに、二人とはわずかであるが距離が開いてしまっていた。待ってくれている二人のもとへミララは走る。
「ちゃっちゃと用を済ませて帰るわよ。あの男の言うことを聞くのは癪なんだから」
地図を手にしたミレイは、先ほどまでとのゆっくりとした足取りから一転して少しだけ早足で進み出した。未だセージへの不満が強く残っているようで、呟く口元から怨嗟の声が聞こえてくる。
そういえば、今までミレイとセージが一緒にいるところをあまり見たことがなかったが、二人の仲は円満とは違うらしい。
はっきりと目に見える形でその不和を認識した訳ではないが、思えば二人が話している時、どこか妙なぎすぎすした空気が流れているような気がする。
真偽はどうあれ、ミレイがセージを快く思っていないことは確かなようだ。
時折見せるはぐらかすような態度にやきもきする事はあっても、ミララにとってセージは嫌悪の対象にはなり得ない。そうなる要素も見あたらないように思えるのだが、二人には二人の事情があるのだろう。
気にはなるが、彼らが何も話さないと言うことは追求すべき事ではない、ということなのだろう。
それから、しばらく歩くと町の外へと出る。
駅へとやってきた列車の汽笛が三人を送り出す。
隣町への道路はきちんと整備されていて、地図の通り従って進めば迷うことはなかった。
とりとめない会話をして、時折笑い声をとばしながら進んでいく。
道はミレイが、届け物はソニティアが持ってくれていたので、ミララは小さなバスケットだけを抱えて、特に何をするでもなく双子の後をついて歩いた。
町と町をつなぐ街道沿の景色は進む度にさまざまな様相を見せた。穏やかな平原地帯をはしる街道は基本的には平坦な草原が続く。だが、町に住む人が作った畑や、小さな小川など気候が生み出す自然の色合いが時折変化をもたらし、何の変哲もないはずのそれが、見る度に小さな感動を生むのだった。
「すごい! ミララ、見てよこれ! カカシだ!」
興奮したソニティアが指さすのは、これまた何の変哲もないただの鳥獣除けだった。畑を動物が荒らさないように、十字に組まれた小さな丸木に布をくくりつけただけの簡素なものだ。
纏う衣服は小さな子供がもう着なくなったような古びたものだが、軍手と麦藁帽だけは新品だった。広げた腕の先には真白の軍手をだらんと垂らし、ぱりっとした麦藁帽を目深に被ったその顔は素朴でありながらどこか愛嬌があって、それが妙な魅力となっていた。
「そうだね。カカシだね」
本当に、何の変哲もないカカシだ。とりたてて騒ぐようなことでもない。
なのだが、ソニティアはまるでその光景が初めてのものかのように目を輝かせている。喜ぶその様子はほほえましく思えたが、同時に可笑しくもあった。
ふふ、ミララの口元が綻び微かに息が漏れた。
「なんだよ、笑うことないだろー。珍しいだろ、カカシ」
「いや、別に珍しくもないと思うけど」
ミララに笑われた事が少しだけ不服だったようで、ソニティアは頬を膨らませる。
「はじめて見たんだぞ!」
ぷくうと頬を膨らませた顔は、なんだか頬袋に餌を思い切りため込んだ子リスのようで、ミララはますます笑いがこみ上げてくるのを必死でこらえる。
「そうだったの? ごめんごめん」
ソニティアにとってカカシは珍しいものらしい。農村地で生活していれば至る所で見かけるものだが、田畑がないような地域では見かけることは少ないのかもしれない。
それでも、農作物を作って生活している家庭は少なくない。たとえ都会に住んでいたとしても、少し郊外へ行けば農地なんていくらでもある。今までカカシを見たことがないというのはいささか不思議ではあった。
彼が嘘をついているようには思えないし、疑う気もないのでこの話はここで終える。
「すごいなあ。本当に人みたいだ」
カカシを見上げ、ソニティアは未だに感嘆の声を上げている。カカシにこんなに感動できるなんて、羨ましくも思えてきた。
「ちょっと。寄り道してる暇はないわよ」
前方から急かす声。
腕組みしたミレイはすっかり呆れた様子だった。
それにソニティアもはっとしたらしく、視線をカカシから双子の姉へと移して駆け出す。
「ごめん、ミレイ! かっこいいカカシがいたから、つい」
「つい、じゃないわよ。まったくもう」
のんびりしている時間はないんだからね、ミレイはため息をつくとくるりと進路をむき直して歩き出す。
太陽はもうじき、真上へと登り切るころだった。