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「……あなたに、言いたいことがあって」
それはわずかに空気を揺らすだけの、小さな声。躊躇いながら、ミレイはその瞳をミララへとしっかり向けた。触れたら倒れてしまいそうなほどに弱った姿とは正反対に、その瞳の奥には依然と違わぬ強さを秘めていた。
わずかに身体に力が入るのを感じながら、ミララはうなずく。
「わたしも、ミレイに言いたいことがあるの」
ミレイの瞳に圧されないように、ミララもまたしっかりとミレイをみつめる。ソニティアと同じ赤茶色。だけど彼よりもずっと孤高に閉ざされた、寂しい色をしている。そんな風に思えた。
ミレイに対して、自分はどうするのが一番なのか。
考えても最善はわからなかった。
だから、伝えるのだ。そのままの気持ちを。
「ーーごめんなさい。ミレイ」
しっかりとそう告げて、ミララは頭を下げた。
「私、何も分かってなかった。ミレイがソニィのことを大切に思う気持ち、知っていたのに。何も考えていなかった。ミレイがあんなにいろんな気持ちを抱えていたのに、何一つ気づけなかった。ほんとうに、ごめんなさい」
ーー誰も悪くないと、セージは言ってくれたけれど。
こうなってしまったことに自分がなんの関係もないのだと、そう開き直ってしまうことはどうしても出来なかった。ナイフを向けられた、それだけの理由がちゃんとあるのだ。
下げた頭の上から、反応はなかなか返ってこない。
わずかに吐息が漏れる音。
やっと返事が返ってきたのは、沈黙を歯がゆく感じるその少し前だった。
「なんであんたが先に謝るのよ……」
呆れたような、悔しそうな、申し訳なさそうな、そんな声だった。
ミララが顔を上げると、ミレイはどうしたらいいか分からないといった表情をしていた。
「今回のこと、先に謝るべきはわたしなの。一人で勝手にあんたを悪者にして、邪魔者にして、消してしまおうとしたのは、刃を握ったのはわたしなの。なのにあなたに先に謝られちゃったら……困るじゃない。ちゃんと謝ろうと思って、そう決意してきたのに」
ミレイもミレイなりにいろいろと考えて、そして決めていたことがあったのだ。開口一番ミララに一言謝りたいと、そう思っていたのだろう。
しかしそれも叶わず、やり場のなくなった気持ちだけが宙に浮いたようで。そんな困惑がミレイの表情を歪める。
「あっ……えっと、ごめんなさい」
ミレイの反応はミララにとっても予想外で、彼女もまた困惑を隠せない。なんとか彼女を慰めようとするも、ただおろおろと表情を伺うことしかできず、ごめんなさいを繰り返す。
「だから、あんたは謝らないでってば!」
「あ、うん!」
言葉を強めるミレイに、ミララは思わず身体を強ばらせる。
ああ違う、こんな事を言いたいんじゃない。ミレイは会話の流れを断ち切るようにぶんぶんと首を横に振った。
「もう……! 大人しく謝られなさいよね」
ミレイは改めてミララへと向き直る。
正直、彼女の中でミララを危惧する気持ちが完全に消えたわけではない。あんな風にソニティアを傷つけてしまってもなお、彼を奪ってしまう
脅威として、目の前の少女を見てしまう心は消えない。
しかし、だからこそちゃんと謝らなくてはと、ミレイは思うのだ。言葉に惑わされ、自身の気持ちを統制できず、そしてソニティアを傷つけてしまった、自分自身へのけじめとして。ミララをおそれてしまう自分自身と向き合い、そして前に進むために。
「……ごめんなさい」
深く深く頭を下げて、ミレイはしっかりとそう告げた。
「頭、あげて?」
ミララに言われ、ミレイはゆっくりと顔を上げる。すると、正面に立っているミララの瞳と目を合わせることとなる。
光を反射した水面が、鮮やかな青をみせる。そんな色をしていた。青空をそのまま映したかのような清涼たる色、ともすれば深海のように吸い込まれそうな深い色を宿す、不思議な瞳だ。自分の瞳は、こんなにも美しい光を宿せるだろうか。
これ以上見つめていたら、本当に吸い込まれてしまいそうだ。ミレイは視線を逸らそうとする。しかしそれよりも少しだけ早く、その瞳が細められる。
「わたし、ミレイのこともっと知りたい。あなたともっといろんな事を話したい。これからも、仲良くしてもらっていいかな?」
優しい微笑みをたたえて、白く細い腕が差し出される。わずかに開いた掌は、ミレイの掌を求めていた。
その手を取ることが躊躇われて、ちらりと見やった視線の先で、ソニティアの笑顔があった。「大丈夫だよ」そう言っているように思われて、ミレイはゆっくりと、ミララの手をとった。
◆
ああ。つまらないな。
咳込む自分の音を聞き、ベッドにもたれる。真新しいシーツがその身体に沿って歪んでいく。肺が熱を帯びて軋む。
ほんの少しでも無理をするといつもこうだ。イリスは浅い呼吸を繰り返し、天井を見上げた。白い天井には正方形が規則正しく並んでいる。見慣れた、見飽きた光景だった。
思うようにうまく、事は進んでくれないものだ。求める情報と片割れの存在を餌に、少女があの女を殺してくれたのなら、どれだけ良かっただろう。
『私は、忘れません−−』
そう言った女の顔が、まっすぐな瞳が、そのけがれを知らない純真さが、無知さが、胸の奥をじりじりと焦がす。燃え上がるのは憤りの炎。
忘れない? 笑わせないでくれ。お前がそれを言う権利があるとおもっているのか。何も知らないと、それならば許されるとでも思っているのか。なんて浅ましい。なんて、愚かしい。
焼け付くような感情がふつふつと、肺の奥から息苦しさを招く。再び激しく咳込んで、苦しさが治まるのを待って息を吸う。ヒュー、と漏れるような吐息。ああ、つまらない。
どうして、あんな女が生きているのだろう。
どうして、兄さんの側に居るのだろう。
どうして、あんな風にのうのうと笑っていられるのだろう。
どうして、どうして。
自分がどんなに望んでも手に入らないものを、あの女はいとも簡単に手にしてしまう。
僕からすべてを奪ってもなお、咎められることなく、守られ、愛され、その事実すら知らずに、愚かに、無垢に、生きている。
つまらない。
ゆるせない。
薄いレースのカーテンが揺れて、外から生ぬるい風を運んでくる。室内の空気をさらって、その鬱蒼とした感情を晴らそうとするかのようだ。
けして広くはない、簡素な部屋に光を届ける窓。そこから見える空の晴れ間が、この世界の美しさを語るようで反吐がでそうだ。
こんこんと、扉を叩く音。
おそらく様子を見に来た使用人だろう。
特に返事はせず、視線は天井へ向けたまま。誰かと話すことも煩わしく思えた。寝ているふりをしてやり過ごそうか。そう思った矢先、無遠慮に扉が開かれる。
来訪者は思っていたものとは異なっていた。
「イリス! 体調を崩したと伺いましたので、様子を見に来てさしあげましたわ」
ゆるくウェーブのかかった髪を上品に揺らして、聞き慣れたソプラノが静寂を一気に奪っていく。窓から差し込むわずかな光さえスポットライトにして輝きを増すブロンドはきらきらとしていて。まるで太陽がやってきたかのよう。思わず目を細めたくなる。
「……」
「ちょっと、起きているのは分かっていますのよ? 眠ったふりをするのはやめてくださらないかしら」
「そっちこそ、病人に会いに来てる自覚があるんなら静かにしてくれない」
「貴方が寝込むのはよくあることではありませんか。ちょっとくらい遠慮がなくても平気でしょう」
「悪化したらシルヴィのせいだからね……」
「そのようなことをおっしゃる元気があるのなら問題ありませんわ」
両腕を腰に当て、シルヴィと呼ばれた女性はあきれたような顔をする。あきれているのはこちらの方だと、イリスは無言で咳払いする。
「それで、何の用?」
熱を帯びた身体が重たいけだるさを覚える。
本当に、この女は邪魔をするために来たのではないかとさえ思えてくる。そっけなく、イリスはシーツに身体をうずめた。
「だから、貴方を心配してきたのですわ。忙しい使用人に変わって、替えのタオルまでお持ちしましたのに」
そんな風に言われるなんて心外ですわ。シルヴィは唇を尖らせる。
「……そんなことわざわざ君がやる必要ないでしょ。何のための使用人なんだ」
「いいのです。わたくしがやりたくて来たんですから」
言いながら、シルヴィはぎこちない手つきで氷水にタオルを浸し始める。慣れない手つきでそれを絞ると、そのままイリスの額へと乗せる。
たっぷりと水を含んだタオルがびしゃりと顔を濡らす感覚に、今後一切自分たちの仕事を彼女に任せないように言い聞かせなくてはとイリスは思う。
それにしても。シーツを濡らすほどの不快感などはつゆ知らず、シルヴィは開口する。
「それにしても、最近調子が良いようでしたのに。いったいどんなご無理をなさったんです? 使用人たちに伺ったら、頻繁に遠出をなさっているとのことでしたが」
「シルヴィには……」
関係のないことだよ。言い掛けて、口を紡ぐ。
彼女はイリスがセージを探していたことは全く知らない。ましてや、彼の居場所をついに見つけだしたことなど、知る由もない。
兄の居場所は、自分だけが知っていれば良いと思っていた。当然、彼女にも教える気など毛頭なかった。
だが、状況は思わしくない。
しばらくは様子を見ようとも思ったが、果たしてそんな時間はあるだろうか。
ーー一刻も早く、あの女を遠ざけなければ。僕はまた、大切な人を奪われてしまう。
そんな焦りが、身体の奥底から衝動となって沸き上がる。
それとは裏腹に、貧弱なこの身体はちっとも動いてくれない。
もどかしさが身を焦がし、焦りだけが募っていく。
「イリス? どうかしましたの? そんな難しいお顔をして」
何も知らない。純粋な想いが今、目の前で自分をのぞき込んでいる。注ぐ光を遮って、イリスの顔に影を落とす。
まだ、利用できるものはある。
「……ねえ、シルヴィ。君に聞いて欲しい話があるんだ」
「なんです、改まって」
じっと自分ヘと向けられた視線に、シルヴィは怪訝に眉をひそめる。
ーーさて、彼女は役に立ってくれるだろうか。
「兄さんの居場所が分かったって、言ったらどうする?」
ゆっくりと、シルヴィの瞳が見開かれた。
驚嘆と歓喜を透明な水に溶かしたようなその色は、ライラックの花弁が風に惑うようだ。
愛しい面影を脳裏に描いて、彼女の頬がほんのりと色を帯びる。
作り上げた穏やかな表情でそれを眺めてから、イリスは薄く笑う。
はやく、その居場所を知りたい。
強い視線でもってまっすぐに向けられる懇願に応じて、イリスはその経緯を語るのであった。