2
喫茶店を出て、時刻は正午を回ったところ。一日の仕事はまだたくさんある。早く戻らなくては。ミララは足早に帰り道を急ぐ。
イリスは大丈夫だろうか。店を出たとき、すでに彼と使用人の姿はどこにもなかった。もしや、体調を押して自分に会いに来てくれたのではないかと非常に申し訳ない気持ちになる。呼び出されたのはこちらだとはいえ、無理をさせてしまったのならそれなりに罪悪感がある。せめてそうではないことを願うばかりだ。
店を出るときに知ったのだが、喫茶店に自分たち以外の人が居なかったのは、イリスが店を貸し切っていたかららしい。個人的な話をするだけで店を貸し切ってしまうその金銭感覚に、さらに自分とは違う世界の人間と接していたのだと痛感する。
余談だが、貸し切り時は何を注文してもお金がかからなかったらしく、いつも食べられないケーキセットを頼めば良かったかなと、内心後悔をしていたりする。あの状況ではたとえそれを知っていたとしても注文しづらかっただろうとは思うが。我ながらせこい考えだと笑う。
なにはともあれ、なかなか良い雰囲気の、すてきな喫茶店だった。今度は個人的に行ってみたいとミララは思う。ソニティアやミレイを連れていったら、喜んでくれるのではないだろうか。
雲行きが怪しくなってきた。空を覆う雲が、どんよりとした空気を誘う。心なしか、肌に触れる外気も湿り気を帯びているような気がする。そういえば、洗濯物を外に干して出てきてしまっていた。雨が降ってきてしまってはいけない。
空から視線を前に戻したミララの目の前に、見慣れた少女の姿が現れた。先ほどの紅茶よりももっと濃い、はっきりとしたブラウンを一つに束ねた少女、ミレイだ。一人道の真ん中に佇んで、まっすぐにこちらを見つめている。
「……ミレイ? どうしたの? こんなところで」
ミレイが外にいることはそれほど多くない印象があった。人との関わりを極力避ける彼女は、一日のほとんどを屋根裏部屋で過ごしている。少なくとも、ミララはそう認識していた。普段暮らしていても、顔を合わせる機会はあまりないのだ。だからこそ、こんな風に彼女と出会うのはなんだか奇妙なものだった。
「……」
ミレイは何もいわない。ただまっすぐに、射抜くような視線でミララを見つめている。彼女との間には距離があるため、その表情まではよく見えない。
しかし、なぜだろう。いつものミレイとはまとう雰囲気が違って感じた。普段も人を寄せ付けない、棘のような空気を放ってはいたが、今、目の前の彼女はそれよりも異質。より鋭利に研ぎ澄まされた、言うなれば抜き身の刃のような、そんな印象を思わせた。
美しく咲き誇る花が正その身を守るため纏うものとは違う。明確な意志のもとに、ただ傷つけるためだけに存在する刃。そのまっすぐな先端を喉元に突きつけられるような、そんな沈黙。張りつめた空気が、嫌な予感を誘う。
「ミレイ……?」
予感を払拭するように、ミララはミレイの名を呼んだ。何かいって欲しい。応えて欲しい。そうすれば、予感は杞憂に変わる。けれど−−
「ごめんなさい、ミララ」
ミレイはゆっくりと口を開いた。しかしそれは、望んでいた言葉ではなかった。ゆったりとした動作で、ミレイは腰に付けられたものへと手を伸ばす。それは一瞬なようで、とても長い時間だった。ミララはミレイから目を離せずにいた。呼吸も忘れて、彼女のことを見ていた。そして、すらりと、鈍い輝きを放ったナイフの刃先が、ミララへと向けられた。
「あなたには、死んでもらう」
ほんの僅か、刹那、すべてが凍り付き、止まったような感覚。
ミレイの放つ鋭利な殺意。まるで幻想のように、実感がわかない。突きつけられたのは死の宣告だということに、最初は気づけなかった。否。気づきたくなかった。
「――っ」
ミレイがこちらへ走り出すのを感じて、ミララは反射的に反対方向へと走り出す。網膜がミレイをとらえ、それを脳が認識するまでの僅かな空白。二人の距離を詰めるのは、その空白だけで十分だった。
声にならない乾いた悲鳴が、ミララの喉から漏れる。ぎらり、刃が標的の柔らかな肉を貫かんと振り上げられる。
ぶすり、ナイフが貫通する感覚。
だがそれはミレイが予想していた感覚よりも固く、貫くというよりは、受け止められるといったものだろうか。
とっさにミララが持っていた鞄を盾にして身を守ったのだ。ナイフが貫いたのはミララではなく、盾となった鞄だ。
それを知ったミレイは舌打ち、刺さったナイフを引き抜く。その隙にミララはミレイから逃れ距離を置く。
どうしてミレイがこんなことを。
突然の事態に混乱する脳が、思考をぐちゃぐちゃと絡めていく。心臓の音が、今まで聞いたことのないくらいに大きく、荒くなった呼吸と共に聴覚を覆い尽くす。
「ミ……レイ……! どうして……っ」
喉がふるえて、うまく言葉が出ない。
何故。そればかりが頭に浮かぶ。
背を向けて走ったところで、すぐに追いつかれてしまうだろう。逃げることは意味をなさない。
ミレイが、わたしを殺そうとしている? 殺意をもって、自分に刃を向けている?
その現実を受け入れられない。その理由が解らない。
こんな風に誰かに憎しみを、鋭く尖ったその矛先を向けられることで、こんなにも息が出来なくなるなんて。
恐怖が、悲しみが、絶望が、心と身体を支配していく。
身動きが、とれない。
――こんな思い、もう二度としたくなかったのに!
再び詰め寄ったミレイが、その刃を振りかざす。
今度は避けることは出来ない。ミレイの瞳が、重く濁った覚悟をたたえてミララを見下ろしている。無感情に少女を反射するだけの瞳。しかし、違う。スローモーションに流れる瞬間の中で、その瞳の裏側に押し殺した彼女の悲痛な叫びが一瞬、みえたように思えた。
ナイフを持つミレイの細い腕が、ゆっくりと振り下ろされようとする。
「駄目だ! ミレイ!」
刃よりも早く、瞬間を切り裂いたのは声だった。
それは少女たちの良く知る声、ミレイにとっては守るべき人そのものが発した叫び。
ぴたり。振り下ろされようとした鈍色が宙に迷った。その瞬間を、少年は見逃さない。
「なにしてるんだよ、ミレイ!」
ミララとミレイ、二人の間に飛び込んできたのはソニティアだった。ミララが傷つかないように、ミレイが傷つけることのないように、両の手を大きく広げて制止する。
「ソニィ……」
まだ心臓の音が収まらない。
自分を守るように立つソニティアの背を見つめながら、彼の名をつぶやいたミレイの声がどこか遠くに聞こえる。もし彼が来てくれなかったら、それを考え、ミララはぞっと背筋が凍り付く。
未だに、思考の整理がうまくつかない。共に過ごしていた少女に刃を向けられる、その理由が導き出せずに混乱する。
否、理由などはどうでもいいのだ。ミララにとって最も悲しいことは、刃を向けられたという事実そのものだ。
動揺している。それは、刃を向けた少女にとっても同じ事だった。
どうして、ソニティアがここに。
どうして、彼はミララを守るのか。
どうして、そんな悲しそうな、怯えたような、諫めるような瞳で、わたしを見ているのか。
「――っ、そこをどけて。ソニィ」
空中で静止したまま、ナイフを持つ手が震える。
どうしてわたしは、守るべき家族に刃を向けているのか。
「……だ、駄目だよ。ミレイ。こんなこと、駄目だ」
ソニティアはミレイに相対する。まっすぐに片割れを見つめる強い面差しは凛々しく、精悍にも見えた。裏腹に、寸前の刃に対する恐怖から少年を支える脚は震え、隠しきれない慄きを露わにしていた。その有様は、滑稽なほどに無様だ。
――それでも、ソニィは逃げだそうとはしない。脅威を前に、どんな恐怖を抱いても、危険に晒されたとしても、守ることをやめようとしない。
「……そこをどいてよ。ソニィ」
「駄目だ!」
――どうして。
「どうしてよ……」
震える声で、それでも必死に、ソニティアはミレイに訴える。
「どうして、それはこっちの台詞だよ。ミレイ。どうしてこんな、ミララに……彼女はなにも悪くないだろ!? どうしてこんなことするんだよ。そのナイフを離してよ!」
ソニティアは必死だ。
必死に、私から、彼女を守ろうとしている。
今の私は彼にとっての脅威なのだ。
守るべきものを傷つける、排除すべき脅威。
彼にとってのそれが――私なのだ。
恐怖に揺れながら、それでも強く。しっかりとこちらを見つめる。双眼がはっきりと告げていた。
その距離が、どんどん遠ざかっていく。
「……わかったわ」
声が震えている。自分の声だ。
伝い聞こえる自分の声が、滑稽なほど弱々しい。ミレイは誰にも気づかれぬよう嘲笑う。
「ミレイ……」
その声を承諾ととったのか、わずかに緊張から解き放たれたソニティアの表情が僅かにゆるむ。
しかし、その安堵は束の間のものだった。切り裂くように、吐き捨てるように、ミレイはナイフを握る手に力を込めた。
「ソニィは、もう私を必要としないのね」
「え?」
かすかに、けれどはっきりと。声が大気を揺らした。
その意図を少年が理解するよりも先に、鈍い光が走る。
光のような速さで、刃は少女へと降り注ぐ。
ミレイはその鈍く鋭い切っ先を、まっすぐに自分の喉元へ。
「――っ、駄目!」
ミララの叫ぶ声。
先ほどまで自分が殺されそうだったというのに。見開かれた双眼は「やめて」という声にならぬ思いを訴えている。それはとても優しく。しかしなんと愚かで甘いことか。
「ミレイ!」
ミララの声とほぼ同時、ソニティアもミレイの名を叫ぶ。
2人の意識が、視線がミレイに集中する。
「……馬鹿ね」
わずかに大気を震わせた声が、少女の、あるいは片割れの耳に届くよりも早く。ミレイは大地を蹴る。
自身の喉元へと向けていた刃を、今度は少女のやわらかな肢体に向ける。一瞬の隙、2人が自分を想う感情を利用して生まれた無防備を、ミレイは狡猾にも見逃さない。
――ソニティアが私から離れていく。必要とされなくなってしまう。
そんなのは絶対嫌。なにがあっても、そんなことは許さない。
ずっとずっと貴方の側で、貴方を守ってきた。それだけが私の生きる意味だった。存在する価値だった。
だけどもし、その意味がなくなってしまうのなら。
彼の隣に、自分以外の誰かが入り込んでしまったなら。
彼にとっての大切が、私でなくなってしまうなら。
貴方が離れていってしまうのなら。
私が要らなくなってしまうなら。
それはきっと貴女のせい。
貴女さえ居なくなれば……
少女の瞳に躊躇いはない。
これでいい。間違ってなんかいない。
――私からソニィを奪わないで!
悲痛な情動は、その内からあふれ出し、叫びとなって少女から放たれる。小さな少女を支えてきた感情。秘められたそれが、いつしかいびつに歪んでしまった愛情が、今度ははっきり声となって大気を揺らした。
鈍色が振り下ろされる。
ぽたぽたと、それはまるで涙のように。赤い水滴が滴り落ちていく。
目の前の光景にミララは絶句した。
流れ落ちる血が、掌を伝い、大地へと吸い込まれていく。
瞳に移るその色は、ミララ自身のものではなかった。ナイフを受け止めたソニティアの身体から、真っ赤な血が流れ落ちていた。
目眩がする。
「どうして……」
今にも泣きそうな、震える声。それはミレイの唇から漏れたものだった。
握りしめたままのナイフは、それを受け止めた皮膚を切り裂き、そこから溢れ出る命の体温がミレイの掌までも赤く染め上げている。
指が、手が、腕が、身体全体が震え出す。
大切な人を傷つけてしまった。そんな取り返しのつかない恐怖が、ミレイの身体を震わせる。
「大丈夫」
ソニティアがそう笑う。日溜まりのような声。
――大丈夫、きみはなにも傷つけてやしないよ。
傷つき血を流したのは、ソニティアの掌だけだった。振り下ろされたナイフが少女を、そしてミレイ自身を傷つけてしまうよりも前に。その掌で、ソニティアは片割れを受け止めてみせたのだ。
少女の細腕であっても、命を奪う覚悟は重く、痛いものだった。
なんとしてもミレイを止めなければ。その一心で覚悟を受け止めた両掌の皮膚を貫き、ぱっくりと割れた傷口からはどくどくと血が流れている。 脳が麻痺しているのか、不思議と痛みは感じない。心臓の鼓動にあわせて、脈打つ感覚だけが残る。
するすると力の抜けたように、ミレイが膝から崩れ落ちていく。咄嗟にソニティアがその身体を支える。彼女の身体は、彼が思っていたよりもずっと、細く弱々しいものだった。カランと、ナイフだけが乾いた音を立てて、赤く染まった地面に落ちた。
「……めん……い……ごめん……なさ……」
小さな身体はかたかたと震え、嗚咽が漏れる。
弱々しい声で、ミレイは何度も「ごめんなさい」と繰り返す。
「大丈夫だよ」
ソニティアは繰り返す。俺はどこにも行かないから。ミレイの元を離れたりなんてしないから。
赤く染まった掌を気にもとめず、ミレイをぎゅっと抱きしめる。
「俺はずっと、側にいるよ。離れる訳ないだろ、ばか。必要とされてないなんて、いうなよ。俺にとって、ミレイはたった一人の存在なんだ。大切な、家族なんだから」
強く強く抱きしめる。
彼女の思いに気づけなかった。そんな自分をどうか許して欲しい。謝るのは、自分の方なのだ。
「……ごめんな、ミレイ」
抱きしめあい、小さく震える双子は、まるで一つになったかのよう。もう二度と離れることのないようにきつく、きつく抱きしめあう。
2人の様子に、去り過ぎた危機に安堵してか、ミララは身体の力が抜けていく。
蘇る。
一瞬の刹那、ゆっくりと振り下ろされていく鈍色。
じわじわと地を染めていく赤色。
そのすべての色を溶かすように、ぽつぽつと流れ落ちる透明な涙。
これらの光景を、今過ぎ去っていった閃光のごとき出来事を、息が止まる、心を締め付けられる鎖のような感覚を。
そのすべてを、以前どこかで感じたような。
鮮やかに、その心奥に焼き付けたような。
だけど、なにひとつ思い出せない。
いま心中を支配するこの感覚すら、それが確かであるのかが解らない。 まるで砂のよう。さらさらと指の間を通り抜け、風に運ばれてどこかへと舞い散ってしまう。
不確かな感覚。
脈を速めたまま落ち着かない鼓動が、まるで何かを急かすように全身を打つ。頭が痛い。
身体の力が抜けていく。
靄がかかったように、思考がぼんやりとしていく。
次第に視界が暗くなっていく、瞼が重い。
まどろみ、遠ざかる意識。それに抗う間もなく、ミララはその目をゆっくりと閉じた。