ひとりぼっちの二重奏
ーーああ、わけがわからない。
セージの元を飛び出したミレイは、その勢いのまま木々の隙間を走り抜けていた。
本当にわけがわからない。あの男は一体何を考えているのか。
こちらに殺意がないーーあのナイフがただの脅しだと言うことを見抜いていたとはいえ、刃物を向けられても表情一つ変えないと言うのはどういうことなのか。普通は、多少なり緊張で筋肉が強ばったり汗を滲ませたりするものだ。視力と一緒に、人間としての一般的な感情すら落としているんじゃないのか。そう思わせるくらいには理解しがたい男だ。
結局、大事なことも分からずじまいだ。
あの男の言うとおり、本当に知らないのだろうか。ナイフがハッタリだと分かられた時点で、いくらでも嘘はつける。たとえハッタリでなかったとしても、殺してしまえばその時点で真実を知ることは叶わなくなる。はじめからこちらの分が悪い勝負だったのだ。それは分かっていたことだった。
「ーーっ」
ダン!
そう鈍い音を立てて、ナイフが木の幹に突き刺さる。
苛立ちをナイフに乗せてぶつけても、表面の樹皮がはらりとわずかに落ちるだけで大きな木はその葉をわずかに揺らすことすらない。
自分は焦っている、のかもしれない。
突き刺さったナイフの柄を握りながら、真下を睨む。
これ以上の追求をするな。
セージはそう言っていた。
これはどういう意味だろう。普通に考えれば自分の知っていることをお前に話す気はない、ということだろうか。だが、問の答えを知り得ないと言っておきながら、わざわざこんなことを言う必要があるのか。
同時に彼は「私のため」と言っていた。
追求しないことが私のため?
これ以上追求するならただではおかない、とでも言いたいのか。つまりは警告ということなのか。
だが、もしそれが彼が真実を知っている事実を物語っているとするならば。ここで踏みとどまるわけにはいかない。なにがなんでも、聞き出さなくては。
「……必ず、証明するから。あなたが正しかったって」
言葉にして、再度誓う。
あなたの意志を無駄にしないことが、私の本当の目的なのだから。
突き刺したナイフを抜き、空を切る動作で付着した木くずを軽く払うと
それを再びしまって身につける。
そういえば、とあたりを見回す。勢いに任せてここまできたため、自分がどこにいるのか正確に把握出来ていなかった。だいたいの方向は掴んでいるため帰れないと言う間抜けな事態にはならないはずだが。
右手前方に整備された小道が見えた。どうやら自分のいるこの場所は町へと続く小道のすぐ側だったようだ。生い茂った木々の隙間を縫うよりきちんとした道を歩いた方が労力も少なくてすむ。道なりに歩いて戻るとしよう。
そう思い、道の方へと歩みを進めた。延びきった草を鬱陶しく思っていると、道を歩いてくるのだろう人の声が近づいてくるのを感じた。そしてそれがすぐに聞き慣れた二人の声であることに気づいた。
「……」
思わず息を潜ませる。
歩いてくるのは買い物を終えたソニティアとミララだった。
大きな荷物を抱えてゆっくりとしたペースで歩く二人。交わされる会話は他愛のないものだったけれど、穏やかで、楽しそうだった。
笑顔。
そこにあったのは、笑顔だった。
それはただの、普通の笑顔。ソニティアが隣の少女に笑いかけている。ただそれだけ。だけど、ミレイにとってはそれだけではなかった。
それは、私が見たことのない笑顔だった。
いつも私に向けてくれる親しみと友愛のそれとは全く違う。喜びや不安、もどかしさ、希望や勇気が入り交じった全く見たことのない顔。
ああ、なんだろう。
この感情は。
息の出来ないような閉塞感に襲われて、一瞬視界が遠のく。胸が苦しい。どうして。
次の瞬間、逃げるように私の身体は走り出していた。
ずっとずっと一緒。
あなたの側に、隣にいるのは私の役目。そこは私だけの居場所。
誰にも渡さない。あなたの側で、私があなたを守り続ける。
そう、思っていたんだ。
ああ、らしくない。
何をこんなに狼狽えることがあるのだ。
あれは違う。ただの偶然。
ソニティアが私の元から離れていくわけがない。
そうに決まっている。
大丈夫。言い聞かせるように何度も頭でそう繰り返す。
荒い呼吸を落ち着かせる。息を吸う度、肺がきりきりと痛む。
「……何をしてるんだ……私は」
なんと情けないことだろう。
これではソニティアに呆れられてしまう。
しっかりしなくては。
左右に強く頭を降って、靄がかったような思考を振り払う。
考えても仕方がない。迷わず、自分のすべきことをすればいいだけ。私はただ、何があってもソニティアを守ればよいだけなのだ。
戻らなくては。遅くなってはまたソニティアに余計な心配をさせてしまう。ミレイは歩き出す。
立て続けにいろんな出来事が起こって、すこし混乱しているようだ。
だがもうこれ以上はなにも起こるまい。
ミレイはそう考えていた。そして、普通であればこうも立て続けに物事が起こることはそうそうないだろう。しかし、その可能性がゼロではないが故に、物事は起こり得てしまうのだ。
視界に移ったその男の姿に、ミレイはすぐに確信した。
差し込んだ日差しを受けて輝く銀色の髪。愁いを帯びた面持ちは先ほどまで対峙していた人物に良く似ていた。
以前、ソニティアからその存在を聞いていたので、脳内の情報と目の前の人物を照合させるのに時間はかからなかった。
「イリス・バルフリーディア……」
気づけば、ミレイは彼を睨み、その名を口にしていた。
ゆったりとした足取りで歩む青年は、こちらの様子には気づいてないようだ。あちらはミレイの存在を知るはずもないので当然のことではあるが。
どうして彼がここに。
そんな疑問が脳裏をよぎったが、そんなことはどうでもいい。これは好機なのだろうか。できるだけ冷静さを保って状況を見極めようとする。
ーーそうだ。これは好機だ。
彼が知り得なかったことを、この男は知っているかもしれない。
ミレイは視線をイリスへと向けたまま、その距離を詰めていく。
「……僕に、何か?」
警戒した声色。ただならぬミレイの様子を見抜いたのか。それともただ自分に近づいてくる人物を不審に思ったのか。だが、その声は不気味なくらい落ち着いたものだった。
「イリス・バルフリーディア。あなたに聞きたいことがある」
目の前の少女が自分の名を知っているとは思わなかったのだろう。ほんの少しだけイリスはその目を見開いた。そしてそれが彼の関心につながったのだろう。わずかに口元をゆるめて、まっすぐミレイへと向き直る。
「なんでしょう?」
柔らかな物腰で微笑みかける。表面上は礼儀正しく紳士的で、普通であれば用意に気を許してしまいそうなほど。しかし、奇妙な寒気を感じてミレイは身構えた。咲き乱れた花畑の中に一本だけ造花が紛れ込んだような、そんな違和感を覚えたのだ。誰も気づかない、だけど確実にそこに存在している自然的な異物感。捕らえようのない感覚に、ミレイはわずかにその表情を強ばらせる。
そのわずかな変化を見抜いてか、イリスは悪戯に笑った。
「そんなに身構えないでくださいよ。本来なら、身構えるのは突然声をかけられた僕の方でしょう?」
兄と良く似た声色が嫌に鼻に付く。
丁寧に取り繕った言葉の中に、面白い玩具を見つけたものだとあざ笑う心の内が隠れている。
そんな嫌悪感を拭うように、取り出したナイフを突きつける。
「……教えなさい。あなたたちが一体、何をしているのか」
出来るだけ声を押し殺して、低く問う。
「それは……いったいどういう意味です? それに、迂闊に刃物を人に向けるべきではないと思いますけど」
首筋に向けられた刃先に動じる様子はない。
先ほどと何ら変わりない声の調子。やはり簡単には問いただせないか。
「あんたも、兄と似たようなことを言うのね……」
そう呟いたミレイの言葉に、イリスはぴくりと肩を震わせた。
「兄さん……? お前、兄さんにも同じことをしたの?」
「え……」
ぞくり。背筋を突き抜けるような悪寒。
思わずミレイはその場を飛び退いた。
青年の纏う雰囲気が、先ほどと一変した。
「な、に……?」
突然の出来事に、ミレイは状況の変化を掴めずにいた。
事実、この場の状況は何も変わっていない、何をされたわけでもない。ただ、ミレイの鼓動は脈を速める。目の前の青年が一瞬だけ、でも確実に放った殺意によって。
「ああそうか……わかったよ」
ぽつり、そう呟いた。声色自体は全く変わらないのに、泥のような濁った重さを感じる。先ほどから感じていた違和感が一気に顕在化したような、そんな気味の悪さが全身に重くのし掛かるようだった。
「どこかで見たことあるような気がしていたんだ……やっとわかった。お前、兄さんにたかる蟻の片割れだろう。この前あの女と一緒にいた、茶髪の男の……ソニティア、だっけ?」
「……!」
おそらく、ソニティアとミララのことを差しているのだろう。その言葉は鋭く、ミレイは口元を強く結ぶ。隠していたつもりはないが、こうもあっさりと自分と彼らの関係性を見破られるとは。
ミレイの無言の回答を肯定ととったのだろう。やっぱりね、と彼は続けた。「お前たちの目的は何? 兄さんの周りに集まる害虫を放っておくわけにはいかないと思ってはいたんだけど……兄さんに危害を加えようってなら、ただじゃおかないよ?」
言葉の端々に感じられる、明確な敵意。
彼を取り繕っていた小綺麗な皮が剥がれ、そこから一気に腐敗した内面があふれ出す。ソニティアから事前に聞いていた、そして先ほどまで見せていた優しく穏やかな好青年、というのはただのまやかしに過ぎなかったということか。幼さを増した言葉遣いも、どろりと姿を現した彼の本性の一端にすぎないのだろう。
わき上がる嫌悪感に、ミレイはナイフを握る手を強ばらせた。
迂闊に手を出せばこちらが痛手を負ってしまいそうな、それだけならマシだ。こちらだけでなく、ソニティアにまでその矛先が向いてしまう恐れすら感じさせる。なんとしても、それは避けなければ。そんな緊張感から、ミレイは慎重に言葉を選んだ。
「危害を加える気はないわ……ただ、私には目的がある。そのためにあなたの兄に近づいた。それだけよ」
「目的……?」
「そう。私には知らなければならないことがある」
じとり。まとわりつくような視線がこちらへ向けられ、居心地がわるい。
「へぇ……」
抑揚のない声色。それはこちらの話に興味深げな様にも、まったく興味など持っていないようにも見えた。深い井戸をのぞき込んでいるように、その真意は全く汲み取れない。
「その、君の言う目的のために……僕や兄さんはこうやって問いただされようとしてると言うわけか。まあ、正直どうでもいい話だね」
「な……」
「君の目的が何であれ、僕たちを巻き込まないで欲しいよ。特に、そんな理由で兄さんに近づくなんて、どういうつもり? 君は自分の立場をわきまえているの?」
私は、このためにすべてをかけてきたというのに。
どうでもいい、その一言ですべてを一蹴して、目の前の男は退屈そうに息を吐いている。
ぷつん、そう音を立てて、ミレイの中で何かが切れていく。ふっと思考が真っ白になり、空白になった体中に情動がわき上がる。
「貴……様ッ!」
弾丸の勢いで、ミレイは跳ねた。
渾身の力を柄に込めて、その切っ先を真っ直ぐに、視界の中でうすっぺらな笑顔を浮かべる目の前の人間の細い胴体に突き立てーー。
「履き違えてない……?」
沸騰した思考回路に、温度を感じさせない彼の声が響きわたった。
それはなんとも奇妙な感覚。自分でも不思議なくらいに、その声は真っ直ぐに、パズルの最後の1ピースとでもいうくらいに、すとんとミレイの脳裏に届き、響いた。
青年の細く白い腹部を貫くはずだったその切っ先はぴたりとその動きを止め、その役割をほんの少し空気を揺らすだけに留めた。
「……何、を?」
すっと、熱が冷めていく。
情動に突き動かされた身体の熱が急激に奪われいく。
「疑問みたいだね。何で僕を貫けなかったか……だけど、それも大したことじゃないよ。そうすべきじゃないと君が本能で判断したからなんだ。僕を殺すことは大きな損失だってね」
身体が自分のものじゃないみたいだ。
嫌な脱力感を抱え、ミレイはただ、得意げに笑みを浮かべたイリスを見つめた。一体何が何なのか。混乱に呆然とした様子のミレイに、イリスはまた一段と優越に表情を歪める。
「君は履き違えているよ。君にとって、君とーーその片割れにとって何が一番の害悪なのか」
何を言っている?
その疑念を言葉にするよりも先に、イリスは言葉を続けていく。
「君が本当に守りたいものは何? 目的? それを遂げるという信念? 否、違うよね? 君が本当に守りたいものは、離れ難いのはーー誰?」
どくん。心臓が高鳴る。まるで不整脈のように、不安定で気持ち悪い。イリスの声がどこか遠くで響くようで、まっすぐと染み渡っていく。
「ーーソニティア」
「!」
イリスの口から出たその名に、反射的にミレイは身体を震わせた。視界に移った口元が、さも愉快な演劇でも眺めるかのように歪んだ。
「やっぱりね。さっきも彼の名を出したとたん面白いくらい表情が変わったから。彼が君にとってなによりも大切な存在。そうでしょ?」
否定も肯定もせず、ミレイはイリスを睨んだ。決まりきった台本通りに事が進んでいく、それが愉快でたまらない。そう言いたげな視線。それを屈辱的に感じながらも、切り返す一手がミレイには見つけられない。ただ、為されるがまま、相手の言葉を待った。
「彼に危害が及ぶこと……彼が君の元から離れていってしまうこと、それを君は恐れているんでしょう? だけど、ああ、なんということだろうね。彼は君以外の誰かに心を奪われてしまった。彼の心は確実に、君から離れている」
笑顔。じわりと精神を浸食するような、そんな言葉の羅列とともにこちらに向けられたのは、やけに爽やかな、真水のような笑顔だった。
嫌悪感に蝕まれながらも離れることが出来ない。聞きたくもないその言葉が鼓膜を震わせるのを、ミレイはただじっと受け入れることしか出来なかった。
否定してしまえば良かったのだ。そんなはずがないと、お前になにが解るのだと、耳をふさいで拒絶してしまえば良かったのだーー
「今はまだ、彼は君を必要としてくれているかもしれない。彼の心の支えは君だけだったのだから。だけど、もし、彼の中で君の存在がちっぽけなものになってしまったら? 彼が君以外を心の支えとしてしまったら? このまま、彼が君を必要としなくなってしまったら……?」
ーーだけど、それが出来なかったのだ。
彼の言葉は、ミレイの心の内に芽吹いた小さな疑念を、大きく、大きくしていく。もともと自分の中に在ったものを、完全に否定してしまうことなど出来なかった。
「このままじゃ、君はいらない存在になってしまうね」
疑念は、確かな予感を確信させ、花開いていく。
「ーーそんなの、嫌でしょう?」
カラン。
乾いた金属音が、ミレイを現実に引き戻した。手のひらからこぼれ落ちたナイフが地面を叩いた音だった。空を掴んだ手が、小刻みに震えている。
「……やめ、て」
久方ぶりに動いた唇が、かすんだ音を漏らした。
声と呼ぶには頼りない、消え入りそうな音だった。
「今君が最もすべき事は、僕たちに矛先を向ける事じゃないんだ。君にとって目的と言うものは大きな意味を持つのかもしれない。だけど、今、今すべき事は、最も恐れるべきなのは、排除すべき脅威は……何なのか、わかるよね」
「……」
この男のいうことを真に受けては駄目だ。
そう、頭では理解している。
しかしそれを拒絶する以上に、一つの予感がミレイを支配する。
ーーソニィが私の元を離れていく? 必要ないと、私を否定して。別の誰かと生きていく?
ミレイの脳裏に先程の光景がフラッシュバックする。
ソニティアの笑顔。幸せそうな表情。私ではない、誰かに向けるその表情。隣にいるのは私ではなくて。
「ミララ……」
思わず口からこぼれ出た。 同時に、黒い、汚い感情がわき上がる。
あの無垢な目が、真っ直ぐな声が、曇りのない笑顔が、私からソニティアを奪っていく……?
だから、邪魔者を排除してしまいましょう?
そうささやく声と、
それは違う。騙されてはいけない。
と制止する心とが反発しあい、そしてぐちゃぐちゃに混じり合っていく。
混乱する頭に、痛みが走った。
どろどろに溶けた感情が、すべてを溶かしていくようだった。
「よく考えて? 君がなにをすべきなのか、さ」
やけにねっとりした声だった。
耳に残るその声の余韻だけ残して、そしていつの間にかのびた影が落ちた日の名残に溶けるように、ゆっくりと歩き去っていった。
ひとり、残されたミレイはその後ろ姿に視線を向けるでもなく、ただ立ち尽くしていた。
自分の中に渦巻く感情に答えを見いだせず、高鳴り続ける心臓の音だけがやけに響くのを感じながら。呆然と、立ち尽くしていた。
ずっとずっと一緒。
誰よりも大切な、私の家族。
たった一人の、守るべき存在。
あなたの側にいられることが、私を強くさせた。
あなたの側にいるためならば、私は何だって出来る。
あなたの隣は、私だけの居場所。
誰にも渡さない、汚させない。
ずっと、ずっと。