キイキイと音の鳴らないオルゴールが軋む。空回りし続けるぜんまいの音と、一秒ごとに時を刻む古ぼけた時計。ごく平凡なアパートの一室で、少女はひらすら部屋の主の帰りを待っていた。
ドアノブの回る音に、閉じていた目を開いた。いつの間にかオレンジに染まっていた視界の向こうではドアが開かれ、見慣れたバーテン服が足を踏み入れたところだった。夕焼けを背に、静雄の帰りを待っていたなまえは静かにお帰りと笑む。やけにクラシカルな雰囲気の部屋と、ただの一つもいじられていない大きな眼やピンとした長い黒髪の少女。どこか異次元染みた異様さは、既に馴れきった静雄には分からない。歳の割には質素なオフホワイトのワンピースに身を包んだなまえは、笑みを絶やさぬまま未だに廊下で立ちすくむ静雄の元に歩み寄る。自分を見ようともしない静雄の手を取り、自分の頬に摺り寄せる。節くれだった大きな手からは、泥と汗が混ざったにおいがした。

「また、ノミ虫さんと喧嘩したの?」
「喧嘩じゃねえ」
「そうだね、違ったね。…ああ、ほら、怪我してるよ」

怪我を刺激しないように優しく掬われる指。ナイフで切りつけられた傷は、肉まで見えていたというのに既に再生の兆しを見せ始めていた。こんなもの舐めときゃ治る、と言いかけた時、なまえの白魚のような指が静雄の唇に添えられる。その先を言わせないとばかりにつうっと下唇のラインを撫ぜてから、なまえはそのまま指を自身の唇に寄せた。

「何も心配しなくていいんだよ?」

満月のように丸くて新月のように黒い双眸が、三日月のように半円を描きながらまっすぐに静雄を射抜く。目線を合わせるように頬に手を添えられ、だいじょうぶ、という小さな囁きが耳元に落ちる。そのまま、ふっくらと柔らかそうな唇がちゅうと耳朶に吸い付いた。肌を擽る吐息がこそばゆくて、耳元で戯れる小さな頭を胸元へ抱き寄せる。脱色して痛みきった自分の髪とは違い艶のある黒髪がふわりと宙に舞う。掬うように米神を撫で上げれば、微量の熱を持った眼差しと共に小さな手のひらが首筋に添えられる。顎からのラインを伝うように行き来する左の手のひらと、静雄の背中をやわく叩く右手。赤子をあやすようにリズムを刻み、なまえは再度だいじょうぶだと囁きかける。

「何も考えないで。私だけ見て。私だけ感じて。私だけを愛してね?」

それまるで、甘美な毒だ。花の蜜のようにどろりと濃厚で、思考を奪い去ってしまう。包み込むような甘ったるさは、静雄を鈍らせる。正常な判断が付かなくなったところに畳み掛けるように、彼女はいつも愛を囁く。

「だあいすき」

なまえの一言一言が、『黒く淀んだ静雄』を殺す。破裂しそうになる劣情や抑えきれない衝動を、熱が氷を解かすように消し去ってしまう。確かにそこにあった破壊衝動は、なまえの言葉一つで忽然と消えてしまうのだ。純粋に敵わないと思う。

「あー…、くそっ」
「ん?なによう、どうしたの」
「んでもねえ…」

なまえに好きと言われるたび、静雄の身体の奥で何かが爆ぜる。鈍色をしたそれは腹の奥深くに溜まっていて、悪性へと変貌していく前に彼女の言葉で掬い出されていた。自分の凶暴性がなまえを傷つけてしまわないうちに、なまえの手によって静雄の憂いは拭い去られている。それは、平和島静雄という人物の隣にあるための手段だった。

「あー、なまえ」
「なあに?」
「…そのよぉ、好き…だぜ」

それを伝えた瞬間、毒婦のように艶やかだった笑みが、コロリと華が綻んだように優しげなものにかわる。頬を朱に染めながら、「知ってるよ」とはにかむ笑顔はまるで幼い少女のよう。添えられていた紫蘭が突然真っ新な百合に変わるように、なまえの表情は蕩けるように甘くふやけていた。この顔を見るのが、静雄は何よりも好きだった。
静雄が抑えきれない衝動を殺してくれる殺人鬼は、ただのか弱くてかわいいだけの女子高生だ。それでも、蜜の甘さを知ってしまったからには二度と手放す気になんてなれなかった。毒のような優しさは確かに自身だけに向けられたものであり、籠絡されていると知りながらも静雄はなまえの手を放すことはない。


彼女はいわゆる殺人鬼

平和島静雄//デュラララ!!
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