自分は海賊であり、たくさんの守るべきものがあって、そしてどんなに彼女と一緒にいたいと願っても、所詮はただの国だった。国である自分が人間、しかも他国の人間と一緒にいることをいくら望んだところで世界はそれを許してくれない。荒れ狂う海原は叶うことのない願いをあきらめきれないアントーニョを戒めるかのごとく、船を大きく揺らす。



「どうしますか?」
「せやな…」



荒れる海を前にして船員が指示を仰いでくる。このまま当てもなく海上にいても天候がよくなるとは限らない。あいにく航海士はいい顔をしておらず、おそらく海はさらに荒れるだろう。



「…陸に上がらなあかんな」



いくら地平線に目を凝らしても陸地らしきものは何一つ見当たらない。それでも、海図を広げて今いる場所から一番近い島を目指す。海は大荒れ、舵もほとんど効かないが、追い風なのが幸いだ。甲板に響き渡る指示の声はすでに波と雨の音でほとんど聞こえない。まるで無声映画のような光景だとアントーニョは思う。船員たちが力の限り声を張り上げていてもそれは相手には届かず海へと消えていく。面白い、あまりにも滑稽で、人間はあまりにも無力だった。船体を打つ飛沫はちっぽけな船を倒そうと躍起になっている。しかし、彼の唇はこんな最悪な状況下でも弧を描く。こんなところで海の藻屑になっては堪らないのだとまるで神に挑むように。







「ただいま」
「アントーニョ!久しぶり!」



久々の長旅の末、たどり着いたのは彼女の店。途中、ヒヤッとした場面が幾度もあったが生きている、そしてここに帰ってこられたことで道中のあれこれはアントーニョの頭の中からどこかに吹き飛んで行ってしまう。頬にキスを送りあって両の手でしっかりと彼女の細い肩を抱きしめた。大きく息を吸い込めば肺いっぱいに満ちる彼女の香り。苦しい、と腕の中でもがく彼女のつむじに軽く唇をつけて放してやる。



「今回は長かったんだね」
「途中で嵐にあってしもてな」



嵐、と聞いた途端彼女の表情が若干曇った。ここは港町、今まで運悪く嵐や台風にあってしまい、帰ってこなくなった人たちが数えきれないほどいるのだろう。彼女はとても優しいから。たとえ一度も話したことのない赤の他人のことであっても自分の知らないうちに胸を痛めている。



「大丈夫やって、親分ちゃんと帰ってきたやろ?」
「うん、ありがとう」



彼女の見ているこちらまで幸せにしてくれるような笑顔も今はアントーニョだけのもの。ここで「ありがとう」と言うことのできる彼女の器量に惚れたのだ。もう一生手放す気などない。それとなく伝えたことも幾度かあったが、それはいつも彼女にさらりとかわされてしまっていた。うまいものだとアントーニョはいつも感心してしまうが、いつまでもそれではこちらの意図したようにことを運べない。いつかこの自分の想いを受け止めさせてみたいものだ。熱く、幾度の長旅のたびにも耐えてきたこの燻り続ける想いを。


彼女はとある港町に店を構える酒屋の看板娘である。アントーニョは航海から帰るたびに彼女の店に立ち寄るのだが、それはもうかれこれ5年にわたる。5年前に初めて訪れたこのこじんまりとした酒屋で彼女を見染めて以来、数日の上陸期間は彼にとって唯一のかけがえのない時間になった。長旅の疲れをまさに癒してくれる。彼女の笑顔に柄にもなくときめく胸に、ああ、生きていると実感し、彼女の温もりに触れることで生きていてよかったと思える。単純だとはわかっているが、わかっていてもどうしようもできないものなのだ。

一方で、彼女がアントーニョのことをどう思っているのかを彼自身は図れずにいた。愛情表現を嫌がる気配はなく、むしろ許容してくれているようだ。積極的に、とは言い難いが。嫌われてはいないという自信はある。しかし好かれていると自惚れるには少し理由が足りなかった。

彼らはいわゆる恋人同士という関係ではない。単なる店の娘とそこの常連客である。そこらの客よりかは親密であると胸を張って言いたいところだが、それすら実は危うかったりするのだからアントーニョの心労は絶えない。いつだれが彼女の心を手にするのか、航海の間も気が気ではないのだ。もちろん、船長だからそれを表に出すことはないが。

彼女は今までに何人もの海賊たちを相手にしてきたのだ。さらには酒場で働いているのなら態度の横柄な客も、行儀の悪い客も数えきれないほど相手にしてきたのだろう。場数には慣れているし、絡んでくる客のあしらい方も非常にうまい。近づきすぎず、離れすぎず、適度な距離を保ちながらも相手を決して不快にさせない。それを華麗にこなす彼女がまたつれないと海賊連中では地味に株があがっているのだが、本人はそれを知っているのか否か。



「なんか一杯くれへん?」
「はいよ、」



ちょっとして目の前に出されたのはジョッキ一杯のビール。真っ白でふわふわの泡と黄金の液体との境目が美しい。ぱちぱちとはじける気泡を見ながらアントーニョはそれをぐいっと仰いだ。喉を通り抜ける冷たさ、何とも言えないビール特有の苦さが口いっぱいに広がった。



「結婚したら毎日これ飲めるんかなー」
「そんなにおいしかった?入れ方教えてあげようか?」
「いやいや、気にせんといて」



この通り、天然なのかわざとなのか、取りつく島がないのである。自分の望みをぼやかして告げる弱気な部分も良い反応がもらえない原因だとは思うのだが。海の男、それもキャプテンである自分の不甲斐なさにアントーニョは気落ちせずにはいられない。



「せや、なまえちゃん彼氏いいへんの?」
「またその話?」
「親分が海でとる間に彼氏できなかったん?」



店を訪れるたびに尋ねられる問いかけに彼女は呆れたような、困ったような顔をした。これはもう二人の間で挨拶のようなものである。上陸するたび確認するのだ、愛しい彼女に悪い虫がついていないか。



「いないよ」
「そか、」


笑いを含みながらの答えに、ああ、いつも通りの彼女だとほっと息をつく。少し寂しそうに見えた横顔にちくりとアントーニョの胸が痛んだ。彼女に想い人がいないことはうれしいはずなのに。彼にはどうしても自分の胸が痛む理由がわからない。

アントーニョが困ったような、切なそうな彼女にかける言葉はいつだって同じ。他に気の利いた言葉をかけてやれればいいのだろうけれど今の彼にはそれがさっぱりわからない。「そないなこと言ったってモテるやろ?」「誰かいい人おらへんの?」どうせ何を言ったって彼女を傷つけてしまう気がするから、結局いつまでも同じことしか言えないのだ。今の彼にはそれが精一杯だった。



「ほな親分なんてどやろか?」
「いやよ、海の男なんて信用できないもの」



茶化したように告げた精一杯の決まり文句も笑いながらあっさり彼女に流されて、アントーニョはつれない女だと唇の端を持ち上げる。これでいい、だからこそ愛し続ける意味がある。

いつか、彼女に想い人ができて、できればそれが自分であって、彼女の心からの甘やかな笑みを隣で見ることができたのなら。この胸の痛みの謎もいつか解けるのだろうか。それまで、彼は決して倒れるわけにはいかない。国として、船長として、消えるわけにはいかないのだ。彼女が人であり、彼が人であったとしても、存在自体が相容れないものなのだとしても、出会ってしまった。彼の願いを止めることは誰にも許されはしない。




走り続けてた、止まる事など許されないから