押し隠す戀心


 スレッタはもうずっとその人の顔を見ていなかった。いや、見ていなかったというのは嘘になるのだろうか。その人によく似ていてでも違う人間の顔は見ていた。
 君の探している人はもういないのだと、そのよく似た顔の別人は言っていた。あの一件がひと段落して、彼は世界を見てくるのだと笑いながらぼろぼろのノートと共に旅へ行ってしまった。定期的に家にやってきてはお土産を置いていくこともあったから、長い別れということもなかった。
 仲間も各々の生活へ戻り、スレッタもまた新たな生活を始めていた。一年ぽっちの激動の毎日が嘘のようにも思えてスレッタは落ち着かないこともあったけれど、なんとか立て直していた。

 ある時、花嫁と家族との穏やかな日々の中で、一人スレッタは考えていた。本当に願ってやまない彼とはもう会えないのだろうことは、嫌というほど知っている。エリクトのように掬い出すことができなかったあの人は、データストームの粒子の中を今も漂っているのだろうかと考えることが多くなった。
 退屈しないように、とミオリネがスレッタのために買い与えたロッキングチェアはきいきいと軋んだ音を立てて、スレッタしかいない広い部屋によく響いた。
 この音を聞きながら物思いに耽ることが増えたスレッタは、椅子の近くにテーブルを持ってきて、彼と同じように本を読むことが日課になっていた。
 ある程度の区切りを見つけて、紫の花を入れた栞を挟む。花の名前はわからなかったけれど、その可憐な姿に目を惹かれて、手作りしたものだ。図鑑やデータベースを探せば名前もわかるだろうけど、まだ何にもカテゴライズされていない、わからないからこその愛おしさがあって、そのままにしている。
 お母さんは何をしているだろう。この時間は回復しきっていない体を休めるための仮眠をしているころだろうか。今までに受けたデータストームのダメージと、それによる苦痛を和らげるために増えたいくつかの薬のせいか、お母さんは最近ぼーっとしていることが増えた。それでもスレッタやエリクトが話しかけると微笑んで頷きながら話を聞いてくれる。
 そばに立てかけておいた杖をとり、立ち上がる。スレッタの体も前より不自由になってしまった。キャリバーンという負荷の強すぎる機体に乗った代償だ。後悔はしていないけれど、みんなに迷惑をかけてしまっていることは申し訳なくてリハビリに加えて、こうして更に練習している。

「お母さーん!少し出かけてくるねー!」

 返事はなかった。スレッタは杖をつき玄関から外へ出る。ずっと家の中にこもっていては体はなまるばかりだし、健康にも悪い。そよそよと吹く風と太陽のひかりを目いっぱいに浴びて、まるで植物になってしまったかのように座り込んだ。
 誰の命を奪うこともなく、ただ幸せに毎日を生きている今はなんだかむずがゆい。水星にいた頃ならば、いついかなるときに警報がなるかわからないから気を張り詰めていた、その名残だろうか。
 こうして一人考えを巡らせる時間が来ると彼のことが自然と頭に浮かぶようになってしまった。咲くことのなかった、それがどういうものかを自覚する前に死んでしまった、ずっとずぅっと奥底の心を丁寧に丁寧に撫でる時間。寂しくなったり、一言に一喜一憂したり、ほんとうに懐かしくて何もかもを信じていたあの日々。
 彼はスレッタに「ごめん」と謝っていたけれど、そんなことを言う必要などないのだ。彼がスレッタのことを覚えていて、嫌いになったから来てくれなかったわけではないと知ることができただけで、それだけでいい。
 足元で花が揺れる。紫の小さな花は彼のピアスが風に揺れていたところによく似ていて、儚げで、でも確かに生きている。彼に似たこの花を押し花の栞にして、恋心をあの日のまま閉じ込めておけないかと思ったけれど、そんなことできなかった。見るたび見るたび思い出して胸につかえるような優しさを思い出してしまう。
 昼も過ぎて、日も傾くような時間だ。あの日もこうして待っていた。待つのは得意だ。大好きな人のためならずっとずっと待っていられる。お母さんも、エランさんも。みんな。
 少し昼寝をしてしまおう。草の上に横になる。ちょっと目を閉じて起きて、家に帰ってご飯を作ろう。家には何があっただろう。アリヤさんから貰ったティコのミルクとチーズ、チュチュ先輩から貰った卵、畑でとれたミオリネさんのトマト、仲良くなった子から貰えたいくつかの野菜、それから…。
 だんだんと微睡に落ちてゆく中で、隣に人が座っているような気配がした。なぜだか懐かしくて、ここから離れがたくさせるような優しい気配。手を伸ばす、触れられないと知りながら、それでも。
 伸ばした手に暖かな体温。握り返される感触に宇宙遊泳の記憶。パイロットスーツ越しの微笑んだ顔を思い出し、また見たかったなあと思う。

「おやすみなさい、エランさん」

 涼やかな風が、眠るスレッタの髪を揺らす。辺りに咲いたすみれの花も共に揺れて、柔らかな色が広がる。
 夢を、見る。

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