君の街灯
エランとスレッタが手を繋いで暗闇を歩き始めてから何日経っただろうか。スレッタはよく回る頭で考えてみたが、おそらくいく日と何時間かとしかわからなかった。
実際は違うのかもしれないしそもそもここがどこかわからない。エランと繋いだ手のぬくもりとエランが片手に持つランタンの明るさだけが、スレッタにわかるひかりだった。
「おきて、スレッタ・マーキュリー」
夢の中にいたスレッタを起こしたのはエランだ。地球寮の部屋で眠った記憶が確かであれば、絶対に聞こえるはずのない懐かしい静けさがある声。寝ぼけた顔を見られたこと、好きな人に起こしてもらえた事実、キャパオーバーしかけたスレッタの頭はパンクしてしまいそうだった。
林檎もかくやと言わんばかりの真っ赤なスレッタを落ち着けてそれからエランが状況を話す。今自分たちがいる場所は真っ暗で、エランが片手に持っているランタンしか灯りがないこと、自分たち以外に人はいないこと。
「じゃあ…えっと…、どうしましょう…」
「このまま進んでみてもいい?」
まごまごと何をするべきか迷っていた私にエランさんは提案してくれた。当然のように差し出された手を取り立ち上がる。そのまま離されてしまうかと思えば手は繋がったまま、エランさんは前を向きすたすたと進み出す。
そうして歩き始めた。お腹は空かない。ただただ暗闇と明かり、ぬくもりだけがスレッタに知覚できるものだった。ひかりに照らされるエランの横顔をちらりと見ると、端正なその顔は真っ直ぐに暗闇に向けられて、まるで見えているかのよう。
スレッタはエランの眼差しを受けたときの胸が苦しくなるような高揚感を思い出し、そっと頬に手をやった。二人の靴音は響くこともなく、スレッタの耳にはスレッタの心臓がどきどきと早打つ音だけが聞こえる。
「あ」
エランがぴたりと止まる。足元を見ていたスレッタが顔をあげ同じように前を見ると、何も見えない。ただの暗がり。しかしエランには何かが見えているようでその薄く煌めく瞳をじっと向けていた。
沈黙。
息を吐き出すことも吸うこともできず、数秒。破ったのはエランが先だった。
「…これを持って君は進んで」
「エランさんは…」
「僕は大丈夫、すぐに行くよ」
「だ、だめです!エランさんを置いていくなんて」
「大丈夫」
スレッタの手を握りランタンを持たせる。エランは目を細め小さな子どもを諭すように優しく繰り返す。エランは変なところで頑固者だ。それはスレッタにも言えることではあるが、今は気にしていられなかった。
無言でエランの瞳をまっすぐに見つめる。こうするとエランはなんだかんだでスレッタを甘やかし、一緒にいてくれた。敵わないと言わんばかりに微笑んで「空みたいで綺麗だね」と言ってくれたこともすぐに思い出せる。今もそうなるはずだった。
「君のわがままを叶えたいけど、今は駄目。…そんな顔をしないで」
泣きそうな顔をしていたのだろうか。エランはいつだってスレッタに優しくて、一歩引いた場所から的確なアドバイスをくれる。困ったときに差し伸びてきた日の暖かさを、スレッタは知っている。ごしごしと目を擦りスレッタは胸を一つ叩いた。
「わかりました!エランさんもすぐ来てくださいね!」
嬉しそうに、安心したようにエランは微笑み暗がりを指差した。何度か振り返りやがてその輪郭すら捉えられなくなるまで、スレッタは後ろを見た。
しばらく歩くと扉が見えた。アンティークな雰囲気のシンプルな、お伽話なんかに出てきそうなドアがそこにある。ランタンの火はまるで生きているかのように扉に引き寄せられ、開けろと言わんばかりに取手に引き寄せられていた。
「わっ、だ、だめ!まだエランさんが…」
『だいじょうぶだよ、スレッタ。いこう』
どこからか、まだ年若いだろう少女の声が聞こえた。初めて聞くはずなのにそんな気はしなくて、なんだか安心してしまうほど優しい声。立ち止まりたいと訴える足を動かす。彼女が大丈夫と言うならきっと、彼も大丈夫なのだ。すぐにまた会える。
取手に手をかけて扉を開く。柔らかな風と花の香り、みずいろのひかりに包まれて目を閉じた。
目を覚ますと見慣れた家の天井だった。きょろきょろと辺りを見ても不思議な夢の気配はない。外から入ってくる風は地球の土と湿った匂いで、やけに寂しさを感じさせる。
喉はカラカラでひどく汗をかいていたらしい。枕元に置いていた水差しからコップに水を注ぐ。中でカランと氷が揺れて、ゆらゆらと揺れていた。
喉を通る冷たい温度に一息ついて、外を見る。ミオリネさんとエリクトは視察に行くと言って家を留守にしていたのだ。私は一人、熱を出してベッドに倒れ込んだことを思い出す。夢の中の懐かしい体温を噛み締めるように手を握る。もう昔ほど強い力では握れない手。あの頃のように生きることも、そういう未来も諦めた手。
夢の中の彼は今も私の暗がりにいて、ランタンを渡しに来てくれるのだろうか。まだ会えないのだろうか。
王子様を待つ。いつか、共に明かりを持てることを信じて。