花畑の逢瀬
スレッタはお母さんの本当の娘ではない。お母さんはそのことを一つもスレッタに伝えたことはなかったが、幼いながらに聡いスレッタは使用人たちのひそひそ話から理解してしまった。
事故で居なくなってしまった娘の代わりを求めるように引き取られ、今日まで過ごしてきた。母から贈られた桃色のうさぎのぬいぐるみ。居なくなってしまった姉のものだと教えられ、いつも大切に手入れをしながら連れ回した。エアリアルと名付けて魔法使いごっこの使い魔役をしたり、一緒に食卓でココアを飲んだり本当の家族のように過ごしてきたのだ。
母はいつも忙しそうでスレッタと顔を合わせることは少なかった。小さな頃よりももっとずうっと。スレッタはお母さんが大好きだったし邪魔になんてなりたくなかったから、鈍臭さを理由に使用人にいじめられたときも相談することはなかった。
月の出る静かで美しい夜。スレッタは屋敷の外へと抜け出した。誰かに頼ることが簡単にできなくて眠れないときは、エアリアルを連れて星空を眺めることにしたのだ。今まで誰にも見つかることはなかったし、きっとこれからもないはず。
草を踏み締める音が闇に広がる。エアリアルを抱きしめながら秘密の花畑への道を歩く。いつものスレッタは夜なんて怖くない。でも今日は何故だか寂しくて悲しくて苦しい。滲む視界を擦り一歩一歩目的地へと進んだ。
そうして開けた景色には先客がいた。スレッタはもう一度目を擦り、見間違いか疑った。月に照らされた花々の光を集めたような、まるでお伽話の王子様みたいな人がいる。
ここは使用人たちにもお母さんにも教えたことのない場所。こんな森の奥に人が来ることなんて考えていなかった。もし悪い人だったらどうしよう。俯いているその影に近づきスレッタは意を決して声をかけた。
「こ、こんばんは!」
王子様は驚いたようにスレッタに向き直り、真っ直ぐに見つめかえしてくる。王子様の瞳はきらきらと宝石のように綺麗でスレッタは思わず見惚れてしまった。
「君は…?」
「私はスレッタですっ!スレッタ・マーキュリーです。あの、あなたは…?」
「ぼく?僕は…エラン・ケレス」
少しだけ言い淀みながらも名前を教えてくれた少年に、スレッタは興味を持ちました。
「ど、どうしてここに来れたんですか!私以外の人、見たことなかったのでふしぎで…」
「にげ…いや道に迷ったんだ。きっと僕のことなんて誰も探しに来ない…」
再び顔を下に、摘んだのだろう花をいじりながらエランは答えた。スレッタはその儚い姿を何だか放って置けなくて隣にすとんと座り込む。
「じゃあ、おしゃべりしましょう!」
エアリアルを二人の間に座らせて、スレッタはエランに笑いかける。月を背に笑う彼女があんまりに綺麗でエランは目を思わず細めた。
「エランさんは森の外へ行ったことがありますか」
「あるよ。人がたくさんいていろんなものが売ってる」
「そうなんだ…見てみたいなあ」
「あまりいいものじゃないよ」
二人の会話は初めて会ったとは思えないほど軽やかにテンポよく弾む。時おり話題がなくなってしまっても、その沈黙すら嫌なものではなかったのだ。
そうして月が傾き、近づく朝を告げる鳥の声。スレッタはこの時間が終わってしまうことに気づいた。スレッタの王子様みたいな二人目のお友達。次にいつ会えるかなんてわからない。名残惜しさに思わず繋いだエランの手を強く握り返す。
「私、もう帰らなきゃ…」
「気をつけて、木の枝に躓かないようにね」
「また、あえますか…?」
スレッタの震える声にエランは何も言わない。木々のざわめきがどきどきとスレッタの心に波を立たせる。
「わからない」
「やくそく!約束しましょうっ。また遊んでください…」
ちっぽけな勇気だった。二度会えないかもしれない人間と約束をするなど途方もないことだ。エランもスレッタも次があるかなど確信を持てなかった。それでも信じたいと思わせる何かがあった。
頷き一つ。
「また…会おう。今度は君に会いに行くよ」
「ほ、本当ですか…!嬉しいです!」
エアリアルをぎゅっと抱きしめて笑うスレッタを眩しそうに見つめて、その鼻先にエランは口づけを落とした。真っ赤になったスレッタはぱくぱくと口を動かして、薔薇の花のよう。
くすくすと笑ったエランはスレッタがやってきた入り口を指差す。最後にもう一度小さな手を握り合い、赤毛のお姫様は屋敷へと帰っていった。一人花畑に残ったエランに近づく影が一つ。手を引かれ、檻の中へと戻りゆくこれからのエランの心には小さな陽だまりのような生きる理由が生まれていた。
これが二人の恋の芽生えであったことは、まだ誰も。彼らですら知らなかった。