寄る辺なき君へ


 学園に投影された空が深い藍色を映し出すころ、スレッタは地球寮を抜け出しました。
 ベッドの上に「エアリアルの側で眠ってくる」と書き置きを残してきたから、少しの間は大丈夫。本当はエアリアルも決闘が終わってすぐ回収されてしまったから、格納庫に誰かが行けば嘘だとすぐにバレてしまうでしょう。
 でも、戻るつもりはないからこれでいいのです。人っ子一人いない暗い廊下を走りペイル寮へと向かいます。
 ガーデンライトで照らされた道を避けてなるべく誰にも姿を見せないように。もう自分には何もない。地球寮の皆さんにはたくさんの迷惑をかけた。自分のことみたいに怒ってくれて、当てのなかった自分を受け入れてくれた。それだけでどれだけありがたいことか。
 そうこうしているうちにペイル寮の前にたどり着ました。結局、踏み入れることのなかった初恋の人がいた場所へ最後に寄りたかった。理由なんてそれくらいです。

「エランさん…」

 変わってしまったエランさんの理由をスレッタは知りません。わからないことばかりの学園で優しくしてくれた人。そこにあった思惑や理由なんてもうスレッタにはどうでもよかったのです。強く迫られたのを最後に彼…とは顔を合わせてすらいないけれど、今はこんなみっともない姿を見せることがなくて良かったとも思います。
 決闘に負けたその日は、泣いて泣いてチュチュ先輩やみんなを慌てさせてしまいました。それくらい私には大切なものでした。お母さんも連絡が取れなくなってたった一日で全てが変わってしまった。
 エランさんに会いたいと思ったのは突然でした。せめて、優しくしてくれた人にお礼を言いたかった。ニカさんにも会いたかったけれど、行方がわからないとのことで置いてきた書き置きにお礼を添えて置いてきました。
 今のエランさんは確かに好きではありません。じゃあ前のエランさんはどこにいるのか、スレッタには皆目見当もつきませんでした。だから、彼のいた場所を一目見て、そのままどこかへ行ってしまおうと決めたのです。
 水星に帰ろうかとも考えたけれど、エアリアルがいなければ役には立てません。救助活動はスレッタとエアリアルの一人と一機が揃って初めて行えるものです。今のまま帰ってもただの"厄介者"に戻るだけです。またいじわるされる日々に戻ってしまうかもしれないことは、今のスレッタには耐えがたいことでした。
 家族がいなくなってしまったこと、ミオリネさんと離れなくてはいけなくなったこと、それからそれから。すべて受け止めるにはスレッタの心は強くはなく、心にできた傷を癒すには時間が必要でした。
 ぽろぽろと溢れる涙を止めることができず、小さく泣き声を上げるスレッタに一つの影が近づきます。

「どうしたの?」
「ぅ、っうぁ、わたし、わたし」
「……」

 背後に佇んだ人影は泣いているスレッタに近づくことはなく、スレッタの次の言葉を急かすことなく待っています。なんだか懐かしい雰囲気で、スレッタの心は少しずつ落ち着いていきました。

「あの、あなたは…」
「振り返らないで」

 ぴしゃりと言い放たれた言葉はスレッタの動きを止めました。静かに、けれど決して突き放そうという意図はないお願いでした。

「は、い」
「…また困ってる?」

 きゅっと喉がひくつき、スレッタは声を忘れてしまったように口を動かしました。目は口ほどに物を言い、涙がまたぽとぽとと落ちていきます。

「君に、お礼を言いたかった」
「え…?」

 スレッタはお礼を言われるほどの何かをした覚えもなく、むしろ自分がかけた迷惑しか思い出せません。思わず振り返りそうになる体を止めて、下を向きました。

「何もないなんてことないって、言ってくれてありがとう」
「だって、それは」
「うん」
「本当のことです。むしろ、何もなかったのは私の、ほうで、」
「そんなことないよ」

 心臓がどきどきと早打ち、懐かしくて優しい声はスレッタの強張った心にゆっくりと染み込みました。振り返らなくても、その人の姿はわかります。やっと会えた、スレッタはそう思いました。

「私、わたしっ…」
「君のやりたいこと、叶うといいね」
「お、怒らないんですか」
「君は君だよ」
「うぅうぅ」

 決して馬鹿にせず、連絡先を交換したときと同じように、エランはスレッタを肯定してくれました。花婿であることも、パイロットでもなくなってしまった自分の心細さが紛れていくようで、上手く言葉が出てきません。

「ハッピーバースデー、スレッタ・マーキュリー」
「わたし、まだ…」
「君への餞」

ー今、新しい場所へ飛んでゆく君に。
 僕に近くて、遠い君に。

「…はい!ありがとうございます!エランさん!」
「このまま行けば地球行きの軌道エレベーターへの定期便があるはずだよ」
「エランさんは…」
「…僕はやらなくちゃいけないことがあるから」
「そう、ですか」
「だから、また会おう。スレッタ・マーキュリー」

 いつのまにか涙の止まった目をぬぐい、うっすらと明るくなった空を見上げると後ろ向きだった気持ちが晴れ晴れとしていきます。もう何もないけれど、この約束一つだけでスレッタはどこへでも行けるような気がしました。

「エランさん!また!」

 振り返ることなく走り出します。今なら一番に出る便に乗れるでしょう。初めての家出です。でも二度と帰ることのない旅になります。
 いつか、いつかスレッタが自分は何者でもなく、誰かの代わりでもない存在であることを認められたとき。再会の約束は果たされるのでしょう。

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